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小松基地問題研究会

20220511 『水明かり 故八田與一追偲録』再読

2022年05月11日 | 台湾・八田与一
20220511 『水明かり 故八田與一追偲録』再読

 2020年、八田與一「物語」の虚構形成に資するために、『水明かり 故八田與一追偲録(復刻版)』(北國新聞社刊)が発行された。しかし、発行者の意図とは別に、復刻版編集後記でも「現在語られる八田與一の伝記においても、一部そのような(誇張する)傾向」(復刻版168P)があることを認めているが、では一体何がどのように誇張されているのかを語ろうとしない。
 私は2011年に『水明り』を読む機会があり、そこには好戦的な八田與一がおり、台湾植民地支配にも大東亜共栄圏構想にも疑問を持たない八田與一があった。台湾人民のためのダム造りではなく、資本のためのダム造りがあからさまに語られている。『水明り』(復刻版)こそ、八田與一の実像に迫る書籍であり、ぜひとも注意深く読んでいただきた。
 まずは、私が注目したフレーズの抜き書きから始めよう。

『水明り 故八田與一追偲録』(濱田隼雄編集 1943年5月8日発行)

 
左:『水明り』原本(1943年)  右:『水明り』復刻版(2020年)

「與一さんの思出」八田四郎次
復刻版74P(原本41P)
 「帝国潜水艦の最初の犠牲者佐久間大尉の崇高なる殉職は軍神広瀬中佐よりも佐久間の方がもっと偉いと云っても好からう」(注1)
(八田與一は)視察研究のため米国へ出張せられた。而して出立の前にも滞米中も調査や視察に関して、三井物産等の工事関係会社の援助は遠慮なしに受けられ、大いに之を利用せられた相である。
(八田與一は)台湾にセメントの増産、ダイナマイトの製造の要ある事、海南島や仏印、泰の鉱業、農業について述べた後、支那の事を記され、宜昌上流に五百尺の堰堤を造れば揚子江の治水の大半は出来た事になります。そして平均2000万馬力位の安い電力が宜昌で使はれる。別に一億円かけると年中一万噸の舟が宜昌まで行き得ると思ひます」「漢口も締め切って此の水を河南省の1000万町の平野に潅漑しますと、日本の綿の解決は半分出来ます」

復刻版77P(原本43P)
「(八田與一は)視察研究のため米国へ出張せられた。而して出立の前にも滞米中も調査や視察に関して、三井物産等の工事関係会社の援助は遠慮なしに受けられ、大いに之を利用せられた相である」(注9)

復刻版80P(原本44P)
   (1941年12月)大東亜戦争につき見解を次の如く記してある。…「我等の希望せる戦が来ました。…」(注2)

復刻版81P(原本45P)
「…日本は朝鮮、シベリアを領土とし、満州国、蒙古国、北支那に根を張らねばなりません。」「…豪州ニューギニアを第二日本国とし、スマドラ、マレー、北ボルネオを第三日本国とします。第2日本国に1500万人、第3日本国に500万人、第1日本国に4000万人、朝鮮に500万人、シベリアに500万人の日本人を配置します。」(注6)「…東亜連盟の盟主は第一日本とします。…」

復刻版81P(原本45P)
「現在戦争に夢中であるが、南洋各地の平和的鉱、工、農、諸事業を手分けして調査し、何時でも進出出来る様技術者が分担する必要があると思ひます」(注5)、「…南進の根拠地台湾は中継所となりました。シンガポール、ミッドウエー、シドニー、カムチャッカが根拠地となりませう」、「…単に計画のみでなしに、自ら自ら先鋒の一人として豪州へ行くことも考へてをられた。其の後豪州攻略が早急には実現しないので、スマトラ方面の建設に当たることを希望してをられた様である」
復刻版83P(原本46P)
   「如何です、豪州に南日本が出来たら家族と共に南日本人にならうではありませんか」(注4)

故八田與一氏を偲ぶ座談会

復刻版122P(原本60P)
  荒木氏:「(八田與一は)大甲渓が台湾の電源として一番良いと云ふ事を図面で調べて七、八年前の水利大会の時に私共と一緒に参りまして、どうしても大甲渓を見て来るとなりまして、水利大会を終ると直ぐ花蓮港から、能高を越へて、それから合歓の方に廻はつて達見に降りて踏査した」

復刻版123P(原本60P)
  荒木氏:「…何か経緯があって金が出なくなって、途中でやめました。どうしても水力電気は必要だと云ふので、内地の資本家を説いて廻らうと云ふので…東京に行って盛んに大甲渓を完成してその電力を使へと、説いて廻った事があります。会社関係や或は海軍省の方に行ったりした」
  名取氏:「逓信省、海軍省、三井なんかを説いて廻ったものですね」

復刻版132P(原本63P)
  山根氏:「(八田與一は)日本が南京、上海を占領すると同時に此の揚子江を利用して発電出来ないかと云ふ計画をやり、日本軍がどんどん進んで漢口に出ますと、武昌の奥の方を締め切って発電出来ないかと計画をし、又その中に黄河の発電計画をやり、珠江についてもよく考へられて全占領地域の計画を樹てて居られました。」

復刻版133P(原本64P)
  山下氏:「トバ湖の隣に湖が二つあり、三つ併した発電計画をやれば、スマトラの開発に貢献するだらう。(八田與一は)フィリピンに行く様になっている…」

復刻版135P(原本64P)
 名取氏:「海南島の事業は八田さんは全島に亘りまして発電事業と水利事業、之を両方計画された」。日本軍は1939年2月に海南島を占領し、外務省、陸軍、海軍は台湾拓殖会社に、「慰安所」設置を依頼し、海南島各地に多数の「慰安所」が設置された。八田與一は1940年11月に海南島の発電・水利調査に出かけ、妻への手紙に「海軍には殆ど慰安隊がない。大隊本部所在地には4、5人宴会の接待が居いてあるのみで」と不満を書き漏らしている。

復刻版142P(原本67P)
 宮地氏:「(八田與一は)東亜経済調査局に行って大川周明さんに会ひたい…それから佐藤賢了さんにも会ひたいと言って居りました」(注3)

復刻版142P(原本41P)
  宮地氏:「(八田與一は)電源の開発については、もう日本のやつも台湾のやつも高いコストになって駄目だ。スマトラのトバ湖のものが一番安い電源であらう。…将来南洋圏で工業を興すにはスマトラで興せと云ふ話をして居りました。」(注7)

復刻版143P(原本67P)
  白木氏:「今年植えるものを今から云ふてもどうにもならないから、向うの調査資料を集める迄、棉作の方に水田を廻はしてやらう、それで今年の計画は賄って行かうと云ふ計画を樹てやう、水田を棉作に潰せば、今年の棉は植えられる、米は減るが、来年の雨期の後に生産場所を見つけてやらう。」(注8)

【論考 】『水明り 故八田與一追偲録』を読む
 ようやく、八田與一の人物像を明らかに出来る三つ目の出版物『水明り 故八田與一追偲録』が手元に届いた(2011年8月)。『水明り』には八田與一の実像を探り当てる手がかりがたくさん埋め込まれている。

 『水明り』は濱田隼雄の編集で、1943年5月に発行された。時はアジア・太平洋侵略戦争の真っ只中であり、編集方針は「殉職した八田與一」をテーマにした戦争翼賛のプロパガンダである。

 遺族の八田晃夫さんは『水明り』に、「既に過去の人物となった父の、その又過去の面影を描写するに当り、年月といふ流れに洗ひ清められ、過去といふヴェールに包まれて美化され、理想化されて表現されるのも止むを得ないことで」(復刻版61P)と書き、八田與一の虚像が形成されつつあることに危惧を感じていたようだ。

 私が最も気になっていたことは、八田與一の戦争観、国家観である。八田與一は日清戦争が終結し、台湾を割奪した翌年1886年に生まれ、20歳頃に日露戦争が起こり、25歳の時に韓国併合があり、自身は台湾総督府に就職している。1942年に56歳で死ぬまで、侵略と戦争の時代を生きた八田與一はどのように戦争と国家を考えたのだろうか。

 八田與一は1910年に起きた帝国潜水艦の沈没事故で殉職した佐久間大尉について、「(軍神広瀬中佐よりも)佐久間の方がもっと偉いと云っても好からう」(注1)と感動し、日米開戦(パールハーバー)直後の1941年12月25日には「我等の希望せる戦が来ました」(注2)と書き、一貫して好戦的態度を示している。

 1942年5月、フィリピンに出発する直前に大川周明(5・15事件で禁固5年、日本主義、南進論を主張)や佐藤賢了(金沢今町出身の陸軍中将、対米英開戦論者)に会おうとしたのは(注3)、目的は果たせなかったが、彼らが主張する「対米英戦」「南進論」を支持していたからと思われる。

 八田與一はオーストラリア占領を願望し、「豪州に南日本が出来たら家族と共に南日本人にならうではありませんか」(注4)とアジり、「自ら先鋒の一人として豪州へ行くことも考え」ていたように、戦争の時代を反映した好戦主義者のようで、「(軍は)現在戦争に夢中であるが、南洋各地を調査し、何時でも進出できるよう技術者が分担する必要がある」(注5)と主張している。

 すなわち、日本軍が占領した地域(注6)に、八田與一らの「従軍技術者集団」が進出し、「開発」し、大東亜共栄圏建設に資するものとして位置づけていたようだ。台湾占領後に台湾総督府(八田與一)が糖業資本のために嘉南大圳を「開発」したように、中国華南(黄河流域)、海南島、スマトラ、フィリピンなどを「開発」しようと、構想している(注7)。

 特に、八田與一が命を落とすことになったフィリピン行きは、軍需品としての綿花のために、フィリピンの水田を潰して棉作を計画していたのである(注8)。そこにはフィリピンの住民の生活のことなどコレッポチも考えられていない。

 八田與一は、あくまでも日本国家・資本に自らの能力を売り込み、技術者としての活躍の場を求めていたのである(注9)。嘉南大圳建設も同じスタンスである。


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