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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

「金沢ふるさと人物伝」編集作業の中止申し入

2012年06月13日 | 台湾・八田与一
「金沢ふるさと人物伝」編集作業の中止申し入れ

 「金沢ふるさと人物伝」の編集作業が始まりました。5月8日の第1回編集会議には、編集委員を引き受けた秋山稔さん(日本近代文学)、本康宏史さん(日本近代史)、横山方子さん(郷土史)、田辺睦子さん(小学校教員)、作田芳太郎さん(金沢市教育委員会)と事務局として、「金沢ふるさと偉人館」の松田章一郎さん(館長)、野村信さん(副館長)、増山仁さん(学芸員)が出席しました。

 事前に、編集会議の傍聴を要請していたのですが、事務局から「委員の率直な意見の交換若しくは意志決定の中立性が損なわれるおそれがあるため、傍聴を認めません」という回答が戻ってきました。当日の編集会議で委員による再検討を要請しましたが、委員から「不安を覚える」「公開すべき性格の会議ではない」「緊張して意見が言えなくなる」などの意見があったそうです(議事録)。
 学者や教員という、人々から先生と呼ばれてきた人たちが衆人の前で意見を述べられないほど小心だとは思いもよりませんでした。

 6月9日に第1回編集会議の議事録が届いたので、その内容を検討し、12日に「偉人館」を訪問し、「金沢ふるさと人物伝」の編集作業を中止するよう申し入れました(下記)。副館長の野村信さんと面談し、いくつかの質問をしました。
 第2回編集会議で、事務局から推薦されていた81人の「偉人」の中から、28人の人物を取り上げることになりました。驚くべきことに、八田与一が5人全員から推薦されていました。また、佐世保で生まれ、東京で育ち、ふるさと金沢に暮らしたこともない中西悟堂も入っています。
 事務局が推薦した「偉人」リストには入っていませんが、金沢で活躍した鶴彬(侵略戦争反対を貫いて獄中死した川柳作家)や島田清次郎(資本主義を批判したベストセラー「地上」の作家)は取り上げられませんでした。
 結局は、「中立性」などと言いながら、戦争に反対した鶴彬ではなく、体制順応型の八田与一のような人物になれという「偉人教育」をおこなおうとしています。

 その足で、金沢市役所文化政策課を訪問し、金沢市長への申し入れ書を手交してきました。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

               申し入れ書
金沢ふるさと偉人館様
「金沢ふるさと人物伝」編集委員様
金沢市長 山野之義様
                             2012年6月12日
                             小松基地問題研究会

                  記
 「偉人教育」のための「金沢ふるさと人物伝」の編集作業を中止すること

                  理由
(1)「偉人教育」の問題性
 偉人館設立に関して、山出市長(当時)は「偉人館は文化勲章受章者中心の資料館(2001.6.20)」と答弁しています。実際に常設展示されている20人のうち8人が文化勲章受章者で占められています。文化勲章は1937年に科学・芸術の分野で国・天皇に尽くした者に与え、天皇(国家)との上下・主従関係を確立するための勲章です。
 戦後、金沢市が天皇との上下関係を確立するために、文化勲章受章者を中心にして「偉人」を選定することは憲法理念の平和主義・民主主義の否定以外の何ものでもありません。

 5月8日に持たれた「金沢ふるさと人物伝」編集会議では、常設展示されている20人と「かなざわ偉人物語」の81人が推薦され、この中から約30人の人物を「偉人」として選択することが決まりました。
 しおりには、「近代日本を創り支えた人びと-金沢ゆかりの偉人年表」と書かれており、当時の軍国日本を創り支えた人を「偉人」と位置づけています。八田与一、清水澄、林銑十郎、阿部信行、飯盛里安などが名前を連ね、軍国主義を批判した人々(鶴彬、島田清次郎など)が除外されています。
 過去の体制順応型の人物を一面的に評価し、子供たちに「偉人」として教えることを教育と称することができるでしょうか。子供たちには、過去のさまざまな人物の光の部分と、影の部分の両面から学ぶことができる教材が必要です。
   
(2)八田与一について
 金沢ふるさと偉人館は八田与一の嘉南大圳建設を評価し、「偉人」としていますが、この評価は一面的であり、真実の姿を伝えていません。八田与一の仕事はすべて台湾植民地支配(糖業資本)のための仕事であり、戦後の台湾人民の中にさまざまな評価(プラス評価、マイナス評価)があるとしても、日本人は植民地支配を反省する立場から八田与一の歴史的評価をおこなわなければなりません。
 八田与一の行為から植民地支配(総督府官僚)の痕跡を消し去り、ダム建設を一面的に評価する見方は、アジア太平洋戦争を侵略戦争ではなく、「植民地解放戦争」として評価するのと同じ、間違った歴史観です。
 あえて八田与一から学ぶとすれば、反面教師として、ふたたび植民地支配と侵略戦争の轍を踏まないためであり、八田与一の行為の一部を強調して、美化することは過去の日本の歴史を歪め、子供たちを誤った歴史観に導きます。

(3)清水澄、林銑十郎、阿部信行、飯盛里安、直山与二、永井柳太郎について
 飯盛里安は理化学研究所で、仁科芳雄とともに、大量殺戮兵器の原子爆弾を開発していました(原爆材料班を担当)。阿部信行(朝鮮総督)、林銑十郎(朝鮮軍司令官)は朝鮮人民に血の弾圧を加えた最高責任者であり、阿部信行は邦人の保護よりも自分の生命・財産を優先して引き上げた「処世の将軍」といわれています。
 また清水澄は天皇制(侵略戦争と治安弾圧の政治体制)を支えた憲法学者(新憲法に抗議して自死)であり、直山与二は大戦中にアジア人民を殺戮するための兵器・軍事生産で財をなしました。永井柳太郎は「アジアはひとつ」と主張し、侵略戦争を推進した翼賛運動の中心的人物でした。
 偉人館はこのような人物を「偉人」と評価しています。

(4)以上のように、金沢ふるさと偉人館が推薦する81人の人物の中には、プラス評価出来ない人物が多数含まれています。一人の人物の中に両側面を持っている人物もいます。それをおしなべて、一面的に「偉人」として評価することは根本的に誤っており、このような価値観に基づいて「偉人教育」をおこなうことは教育に値しない行為です。
 しかも、傍聴希望を拒否し、密室で編集作業を行うことによって、開かれた編集作業を予め排除することは到底納得が出来ません。
 第1回編集会議の中で、「人物というのはその人の価値観が入るから(選定は)難しい」「偉人の選定が難しい」と意見を述べられているように、「偉人教育」のための「金沢ふるさと人物伝」の編集作業を一旦中止し、「かなざわ偉人物語」やしおりから洩れている人物を含めて、金沢にゆかりのある人物を再検証する必要がありますので、強く申し入れます。
                                     以上
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