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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

【論考】1石川県由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

2020年03月30日 | 島田清次郎と石川の作家
【論考】1石川県由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

目次
はじめに:①戦争と弾圧の時代/②日本文学報国会
Ⅰ 石川県ゆかりの作家と戦争:①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤島田清次郎/⑥杉森久英/⑦長澤美津、永瀬清子、水芦光子/⑧深田久弥
Ⅱ 犀星の戦争詩:動機/①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触と躊躇/⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除
Ⅲ 戦争詩の政治的役割と私達

はじめに
(1)戦争と弾圧の時代
 明治以降の近代文学は戦争と弾圧のなかで、あるいは否定的に、あるいは順応的に育まれてきた。近代日本は、江華島事件、日清戦争(台湾割奪)、日露戦争(樺太・千島略奪)、朝鮮併合(植民地化)、第1次世界大戦(欧州戦争)、シベリア出兵、山東出兵、満州事変、上海事変、盧溝橋事件(日中開戦)、日米開戦(アジア太平洋侵略戦争)と、戦争が打ち続く77年だった。
 その戦争遂行のために、弾圧と検閲・発禁が伴走した。主なものを挙げると、1869年出版条例、1873年新聞紙発行条目、1875年讒謗律、1975年新聞紙条例、1882年軍人勅諭、1884年爆発物取締罰則、1887年保安条例、1890年教育勅語、1893年出版法、1900年治安警察法、1909年新聞紙法、1911年特別高等警察設置、1921年興行場及興行取締心得、1925年治安維持法、1926年日本文藝家協会、1936年不穏文書臨時取締法、1937年国民精神総動員計画、1937年帝国芸術院、1937年文化勲章令、1938年国家総動員法、1938年ペン部隊、1939年映画法、1940年情報局設置、1940年体制翼賛会結成、1941年新聞紙等掲載制限令、1941年言論・出版・集会・結社等臨時取締法、1942年日本文学報国会設立へと弾圧と検閲と動員のための法律や機関が次々とつくられていった。

(2)日本文学報国会
 1937年第一次近衛内閣のもとで、中国侵略戦争(盧溝橋事件)が始まり、10月には「国民精神総動員運動」が始まった。この時、金子光晴は「戦争を歌へる」(…略…/戦はねばならない/必然のために、/勝たねばならない/信念のために、/一そよぎの草も/動員されねばならないのだ。/ここにある時間も/刻々の対峙なのだ。/なんといふそれは/すさまじい壮観!/…略…)で応答した。非戦を隠した詩という解釈もあるようだが、戦争翼賛詩だろう。
 翌1938年8月に、内閣情報部は22人の作家を漢口攻略戦に派遣すると発表し、9月11日に陸軍班、14日に海軍班が出発した。これをペン部隊と呼び、深田久弥も参加し、10月中旬に帰国し、従軍記や現地報告を発表した。
 1939年4月には、大陸開拓国策ペン部隊を満州(中国東北部)へ派遣した。これと並行して、文壇を挙げて、国策協力の文芸銃後運動が始まり、東海・近畿(5月)、甲信越・北陸(6月)、東北・東京・関東(7月)、北海道(8月)、中国地方(9月)、四国(10月)、九州(11月)、朝鮮・満州(8月)、台湾・広東(12月)を、全国隅なく「銃後文芸家の奉公の熱意を国民に伝へた」(『文芸銃後運動講演集』)という。
 1940年7月第二次近衛内閣が成立し、新体制運動が始まり、10月には「万民翼賛、一億一心、職分奉公の国民組織を確立し、その運動を円滑ならしめ、もつて臣道実践体制の実現を期すること」を目的に、大政翼賛会が発会した。同年10月、この新体制運動に反応した文学者は「文壇一体化運動」として、22人で日本文学者会を結成した。深田久弥も参加している。しかし、同年10月には、大政翼賛会文化部(杉本久英の職場)が音頭をとり、日本文芸中央会が発足した。翌年3月の『日本学芸新聞』は、14団体2000人の会員と伝えている。
 1941年12月の文学者愛国大会では、高浜虚子が戦争宣言の大詔を奉読したあと、徳田秋声らが立って、愛国の熱弁をふるったという。室生犀星の「臣らの歌」(宮城の広場に/砂利の上にみんなは外套を脱ぎ/帽子を置き/一列にならび/森として頭を垂れた/みんなは少時頭をあげなかつた/みづうみのやうな静けさ/臣のこころ/臣のいのち/臣の息づかひは/かくてあたたかに結ばれた。…略…)は大会後の皇居前のことを詠い、翌1942年1月19日に山村聡のラジオ朗読で全国に流された。
 1942年5月には、「自由主義文化、個人主義文化を払拭し、高度国防国家日本の国民文化を創造」(『翼賛国民運動史』)することを目的として、日本文芸中央会を吸収し、日本文学報国会が発会した。(以上は都築久義の論文『日本文学報国会への道』などを参考にした)
 日本文学報国会の会員名簿(1943年3月)を見ると、会長は徳富蘇峰で、小説部会、劇文学部会、評論随筆部会、詩部会、短歌部会、俳句部会、国文学部会、外国文学部会、漢詩・漢文部会に分かれ、3000人以上が登録し、錚々たる文学者が名を連ねていた。石川県ゆかりの作家としては、徳田秋声、深田久弥、永瀬清子、中野重治らが会員になっているが、泉鏡花(1939年没)、加能作次郎(1941年没)は結成以前に亡くなっている。
 こうして作家たちは戦争体制に順応していったのである。以下、石川県ゆかりの文学者に限定してレポートする。
 <Ⅰ項>では犀星と同世代の作家、泉鏡花、徳田秋声、中野重治、鶴彬、島田清次郎、杉本久英、長澤美津、永瀬清子、水芦光子、深田久弥の作品に表れた戦争観の概略を俯瞰し、犀星については、<Ⅱ項>で展開する。

Ⅰ 石川県ゆかりの作家と戦争
(1)泉鏡花

 鏡花は日清戦争(21歳)、日露戦争(32歳)、欧州戦争(41歳)、満州事変(58歳)、盧溝橋事件・日中開戦(64歳)を体験したが、日米開戦を知らずに、1939年66歳で亡くなっている。戦争をテーマにした作品として、日清戦争中に『予備兵』、戦後に『海城発電』、『琵琶伝』、『凱旋祭』、日露戦争中に『柳小島』を執筆している。
1894年『予備兵』
 日清戦争で、予備兵として召集された陸軍少尉の物語である。第四高等中学医学部講師が娘の円(まどか)と恋仲にある少尉と結婚させようとしていたが、すでに召集令状が届いていて、8月中旬の早朝、部隊は金沢城の南門を出発したが、手取川まで来たところで、少尉が日射病で倒れ、運搬婦に変装してついてきた円に見守られて死ぬ。
 日清戦争への挙国一致的状況下で、義母から「ねえお前、恐多いことだけれども、天子様の御心をお察申上げた日には、数にも足りない私たちのやうな老朽(としより)だッて、なかなか安閑としちや在られまいぢやないかね」と同意を求められても、陸軍少尉は飽くまでも冷静に対応している。戦争熱に浮かれた壮士からリンチを受けても、恭順せず、名を聞かれた陸軍少尉は「姓は卑屈、名は許多(いくらも)あります。無気力、破廉恥、不忠不義とも国賊とも」と答えている。日清戦争の真っただ中の作品で、鏡花は反戦・非戦的ではないが、戦争と一線を画していることは確かだ。
1896年『海城発電』
 日清戦争で、捕虜となった赤十字の日本人看護員が解放された後、軍夫に査問され、敵の情報を話せと迫られても、頑として言うことを聞かない看護員の話しである。「看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心がどうであるのと、左様なことには関係しません。自分は赤十字の看護員です」と、国際赤十字社員の敵味方区別なく看護するという立場を崩さないのである。しかし、看護員の知人・柳李花が日本人軍夫に陵辱され殺される場面で、看護員は看護員としての義務にだけ忠実にして、李花を見捨ててしまう。軍夫も、看護員もその任務・義務に縛られて、人間性を失わせる戦争の不条理を見つめる鏡花の醒めた目がそこにあるようだ。
1896年『琵琶伝』
 お通は従兄弟の謙三郎と好き合っているにも拘わらず、陸軍尉官に無理やり嫁がせられた。謙三郎は徴兵され、お通の母親は、せめて一目でも顔を見せてから行くように頼んだ。もし会いに行けば集合時間に間に合わず、脱営者となるので、謙三郎は拒んだが、自分も本心は会いたい一心で、ついに願いを聞いた。
 謙三郎はお通を訪ねたが入れてもらえず、「三昼夜麻畑の中に蟄伏(ちっぷく)して、一たびその身に会せんため、一粒(りゅう)の飯(いい)をだに口にせで、かえりて湿虫(注:ワラジムシ)の餌(えば)となれる」。「万籟(ばんらい)天地声なき時、門(かど)の戸を幽(かすか)に叩きて、『通ちゃん、通ちゃん。』と二声呼ぶ」。老夫(じじい)が戸を開けると、謙三郎は持っていた銃剣で老夫の喉を突いて殺し、陸軍尉官に捕らえられ、わずか一瞬の逢い引きだった。
 「出征に際して脱営せしと、人を殺せし罪とをもて、勿論謙三郎は銃殺されたり。」お通が謙三郎の墓参りに行くと、良人(陸軍尉官)が、足で蹴って痰をぺっと吐きかけている。お通が駆け寄り、良人(陸軍尉官)の首に噛みつき、お通は撃たれ、「『謙さん。』といえるがまま、がッくり横に僵(たお)れたり」。
1897年『凱旋祭』
 日清戦争の戦勝に酔う人々のなかで、戦死した少尉夫人の悲しみに同情する鏡花の姿勢は明らかに非戦の立場にある。「式場なる公園(注:兼六園)の片隅に、人を避けて悄然(しょうぜん)と立ちて、淋(さび)しげにあたりを見まはしをられ候、一個(ひとり)年若き佳人にござ候」、「あらゆる人の嬉しげに、楽しげに、をかしげに顔色の見え候に、小生(注:鏡花)はさて置きて夫人のみあはれに悄(しお)れて見え候」と、戦争が家族を引き裂く悲しみを描いている。
 徴兵令は1873年に発布されたが、当初は国民から受け入れられなかった。軍人勅諭(1882年)や教育勅語(1890年)の普及、日清・日露戦争で定着していったが、鏡花は徴兵よりも愛を重視する青年を描いた。1893年に出版法が成立したが、その翌年の作品であり、まだ反戦・非戦の論調は伏せ字にもされず、人々の心を揺さぶっていた。
1904年『柳小島』
 日露戦争真っただ中に発表された『柳小島』では、巡査から「露西亜と戦争中であるんだぞ。国家の安危の分るゝ処ぢゃ。うむ、貴様どんな心得で、悠長な真似をするのぢゃい。」と詰問された魚釣の青年は「露西亜と戦をして居りや、…鯔(ぼら)を釣ってなんねえかね。」と、冷ややかに対応する。巡査は魚釣の青年を「国賊」と怒鳴りつける。
 村では日露戦争戦勝祈願がおこなわれているが、他方では「立派な稼人(かせぎて)が居てさへ、田地はなし、山を持たず、…食ふや食はずの酷い落目」の稼ぎ手が徴兵され、村長(なぬし)のもとに引きずられていく妻。この不当を嘆く魚釣の男。旅順口第一次閉塞の時に、戦死した海軍少尉の許嫁が、天女となって柳小島への巡礼の途次、村長の首をとり、仙台への召集がかかった魚釣の男に白馬を与えるという物語である。
 31歳の鏡花は、日露戦争そのものには反対していないようだが、戦争下で苦しむ人々の側に立ち、戦死した農民の妻を手込めにしようとする村長の不正義に怒り、日清戦争時の「愛を引きさく戦争」から「生活を破壊する戦争」へと、より社会性の強い作品を書いている。
晩年
 1937年6月、勅令280号で、帝国芸術院が発足し、晩年の泉鏡花も会員になっている。同年の文化勲章令で設置された文化勲章と一体の翼賛制度で、文化・芸術を天皇制の一角に組み込むための仕掛けである。戸坂潤は「帝国芸術院は…芸術の養老院ではあっても、必ずしも芸術の正常なアカデミーではない。 否、芸術のアカデミーではあっても、思想的な文化力を有つ機関では決してあり得ない」(『思想動員論』1937年9月)と書いている。島崎藤村、正宗白鳥、谷崎潤一郎は帝国芸術院会員となるよう推挙されたが辞退している。

(2)徳田秋声
 2018年に徳田秋声記念館で企画展「秋声の戦争」が催され、小林修さんが「戦時下の徳田秋声―日本文学報国会のことなど」という演題で講演をおこなった。記念館作成の「企画紹介文」(注A)と「小林修レジュメ」(注B)などを参考にして、秋声と戦争について概略を記すことにする。
 秋声にとっての戦争は日清戦争(22歳)、日露戦争(33歳)、欧州戦争(42歳)、満州事変(59歳)、盧溝橋事件・日中開戦(65歳)、日米開戦(69歳)と、総ての戦争を体験し、1943年71歳で亡くなっている。泉鏡花より1年早く生まれ、4年長く生きていた。
日清戦争時
 秋声は日清戦争直前の1893年に『ふゞき』で、落ちぶれた名家の弟は丁稚奉公に出され、妹と姉は花街に売られていく悲哀を描き、戦後の1896年の『薮かうじ』では差別を対象化し、あくまでも貧しい人々への同情的態度で臨んでいる。
 同じ時期に、鏡花には『龍潭譚』(1896年)、『化鳥』(1897年)、『蛇くひ』、『山僧』(1898年)、『由縁の女』(1919年)、『妖剣紀聞』(1920年)など、社会的差別を対象化した作品があるが、秋声と同じように同情的な内容である。1920年代の島田清次郎も『地上』で差別を扱っているが、全国設立直前の、差別に立ち向かう被差別民の姿を描いている(後述)。
日露戦争時
 秋声が戦争を対象化するのは日露戦争以降である。1926年に、「戦争(注:日露戦争)中は一寸(ちょっと)普通の小説ぢや売れないんだ。私なんかも仕方がないから、戦争小説見たやうな物を書いたことがある。」(「わが文壇生活の三十年」)と書いている。それは1904年の『文芸倶楽部』に掲載された「春の月」のことで、「『父ちゃんのお膝で寝(ねん)ねしねえ。』と兼吉は横抱に臥(ねか)す。/『罪のねえもんだな。』/『此奴(こいつ)も又兵隊だ。其時分は、何所の国と戦をするだらう。』」(注A)というくだりを指している。まさに、1930年代以降の戦争の時代を予測しているようだ。
 当時32歳だった秋声は田山花袋や島崎藤村の影響を受けて、従軍記者になろうと準備をしていたが、友人の三島霜川に反対され、健康上も自信が持てなくて、思い止まったようだ。
 日露戦争後の1909年、「文芸の保護と奨励」を目的に文芸院設立構想が持ち上がったが、政府の真の狙いは、文芸の統制にあった。このとき、雑誌アンケートで、秋声は「わが国の文芸は今まで政府の保護を受けず、寧(むし)ろ迫害を受けながら発達してきた。政府が金を出しても文芸の奨励にならない。それより文芸趣味を国民の間に普及させることだ。文芸院などどうでもいいことだ」(注A『文章世界』1909年2月号)と批判的に受けとめていた。「言論統制」に危機感を持った文学者は同調せず、この計画は失敗に終わった。
満州事変後
 1934年に内務省が文芸統制のために文芸懇話会を設立し、その第1回会合において、秋声は「日本の文学は庶民階級の間から起り、庶民階級の手によつて今日まで発達して来たので、今頃政府から保護されると云はれても何だかをかしなものでその必要もない」と発言している。(広津和郎「德田さんの印象」1947年)
 1936年、武田麟太郎らは、雑誌から閉め出されていたプロレタリア作家の発表の場として『人民文庫』を発刊した。2月には、秋声も『人民文庫』の座談会に出席している。1936年10月に徳田秋声研究会を開いていたところに警察が踏み込み、無届け集会として、出席者16人が連行されたが、3日ほどで釈放された。11月号掲載の平林彪吾「肉体の英雄」が検閲で12頁削除され、その後も各号で検閲にかかるなど、当局の監視が強まった。1937年以降も次々に発売禁止となり、各地で定期購読者が警察に呼び出された。
 治安維持法は猛威を振るい、盧溝橋事件後の1937年11月に『世界文化』の中井正一、新村猛らが検挙され、6人が起訴された。12月には山川均ら460余人が逮捕され(第一次人民戦線事件)、内務省警保局は人民戦線派の執筆禁止を出版社に通告した。『人民文庫』は1938年1月号が発禁となり、終刊となった。1938年11月に「唯物論研究会」の岡邦雄、戸坂潤、服部之総、古在由重ら30余人が検挙された。
盧溝橋事件・日中開戦時
 1937年6月、文芸懇話会を帝国芸術院に衣替えし、秋声もひきつづきその会員となった。秋声は評論「戦争と文学」(注A『月刊文章』1937年9月号)で、「今度の北支事変(注:盧溝橋事件)は、戦争としてどこまで拡がって行くか、私達には予測はできない。世界戦のをり、マグドナルドは非戦論者だったが、国民から迫害を受けた。それで、戦争が始まった上は、できるだけ犠牲を少なくして、一日も早く平和の恢復するやうに善く戦はなければならないと言って、自身戦地へも行って見た。いかなる非戦論者でも、時と場合ではその主張に膠着している訳には行かない」と書き、秋声は祖国防衛・戦争支持にまわってしまった。
 それでも、同年、「戦時風景」(注A『改造』9月号)で、「巳之吉は何が何だか解らずに、プラットホームの群集の殺気立つてゐるのに、頭がぼつとしてゐた。プラットホームは、国旗の波と万歳の声とで、蒸し返されてゐた。…後ろから万歳の叫びが物凄く雪崩れて来たところで、巳子蔵も手をあげて万歳を叫んだ。『畜生、行けない奴は陽気でゐやがる』巳之吉は顔の筋肉の痙攣(ひきつけ)るのを感じた。やがて列車が動き出した」と、出征風景を描いている。巳之吉は万歳を叫ぶ巳子蔵にたいして、「畜生、行けない奴は陽気でゐやがる」と、本心を吐露している。この部分は3年後(1940年)の単行本収録時には検閲にかかり伏せ字にされている。
 ここで、祖国防衛主義を批判した幸徳秋水の主張を見ておきたい。幸徳秋水は『平民新聞』(1904年3月)の社説で、「社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく、国籍の別なし、諸君(注:ロシア人民)と我等(注:日本人民)とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じて闘うべきの理有るなし、…然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等と共通の敵也。」と提言している。すなわち、自国の戦争を支持したとき、反戦・非戦は空念仏になってしまうのであり、秋声もこの道に迷い込んでしまったのである。
日米開戦後
 秋声は1941年6月から、「縮図」を連載しはじめるが、検閲がひどくて、9月15日の80回目で中断した。同年12月、日米開戦直後の文学者愛国大会で秋声は「戦果についてだけは敬意を表するが、今だに戦争というものは疑問を持ってゐる」(注A)と述べた、と円地文子が『女の秘密』で書いている。
 1941年12月28日の「掉尾の偉観」(注B『都新聞』)で、秋声は「多難な東亜共栄圏確立に、…東洋に絡みついてゐた毒素に向つて鋭利な切開のメスを揮つたのは、海軍の力であり、我々は8日のラジオ放送によつて、開戦の大詔とともに…神業かとおもひ老の涙がにじむのであつた」、「事変以来喧しくいはれた日本精神といふものゝ、真の姿を私は茲に見た」と、真珠湾攻撃を感動的に受けとめている。
 1942年2月、死の前年の秋声は「日本のもつ最も好きもの」(注B『新潮』)のなかで、「対米英戦争の開始とともに、太平洋に於る我海軍の迅速果敢の行動と、すばらしいその成果を耳にした時には、…その感動も亦一入であった」、「わが海軍の精神と技術…これこそ真の日本精神の精髄だとも崇めるべきであり、戦争以外の総ての分野にわたつて、汎くこの精神が師表となることを祈らざるを得ない」と、日本精神を謳歌し、「私は日本の政治国民生活が、…不純の分子も未だ悉く清算されたとは言へないかも知れず」と反戦・非戦勢力に苦言を呈し、同年5月に発足した日本文学報国会では、小説部会長に就任した。
 1943年11月18日、徳田秋声は日本の敗戦を見ることなく、永眠の途についた。日清戦争からアジア太平洋侵略戦争までの総ての戦争を体験した71年だった。

(3)鶴彬
 私がはじめて鶴彬を意識したのは1980年代で、北斗書房の米林さんから、カウンターに平積みされている文庫本『評伝 反戦川柳人・鶴彬』(一叩人著1983年)を指して、「金沢の左翼が鶴彬も知らんのか」と、強く薦められたときであった。しばらく立ち読みして、5冊購入して、友人に転売した。鶴彬と同じ高松町生まれのKさんにも手渡した。Kさんは、定年退職後、「鶴彬を顕彰する会」の中心メンバーとして活動し、『はばたき』の発行を精力的にこなし、鶴彬は多くの知るところとなった。
 鶴彬の青年期は日本がアジア太平洋侵略戦争に突き進む時代であり、川柳千余句、詩14篇、評論85作品をのこした。年表的に略記すると次のようになる。
 1926年17歳の時に、「釈尊の 手をマルクスは かけめぐり」と宗教批判の川柳を詠み、18歳で、「高く積む 資本に迫る 蟻となれ」とマルクス主義に傾斜した。20歳で「軍神の 像の真下の 失業者」、「食堂が あっても食えぬ 失業者」と29年大恐慌下の失業者と心を一つにしている。
 1930年(21歳)に、金沢第七連隊に入営し、9月には七連隊赤化事件で逮捕された。1931年(22歳)に、懲役2年の判決を受けて、大阪衛戍監獄に収監された。満州事変が起きた年である。1933年(24歳)に満期出所し、原隊復帰し、12月に除隊し、活動を再開した。
 1934年(25歳)に、「目隠しされて 書かされてしまう □□(転向)書」と弾圧の厳しさを詠んでいるが、しかし鶴彬は転向を拒否し、「地下へくぐって 春へ、春への 導火線となろう」とたたかいを継続する。1936年(27歳)、「ざん壕で 読む妹を 売る手紙」を詠んで、徴兵で働き手を失った家族の窮状を詠うが、鶴彬はただ泣くだけの川柳人ではない。「枯れ芝よ 団結をして 春を待つ」と決して希望を捨てない。
 1937年(28歳)、鶴彬は「タマ除けを 生めよ殖やせよ 勲章をやろう」、「 高粱の 実りへ戦車と 靴の鋲」、そして最後の川柳「手と足を もいだ丸太に してかへし」と、盧溝橋事件から始まる中国侵略戦争を痛烈に批判し、12月には検挙され、野方署に9カ月間留置され、1938年9月14日に、「蟻食を 噛み殺したまま 死んだ蟻」のように、非転向を貫き、壮絶な獄死を遂げたのである。29歳だった。

(4)中野重治
 中野重治は1902年に福井県で生まれ、1919年に金沢の第四高等学校に入学した。29歳満州事変、35歳盧溝橋事件、39歳日米開戦、43歳で敗戦を迎え、1979年77歳で亡くなった。中野重治は1926年(24歳)に日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)に参加し、1928年には全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成にも参加している。1932年(30歳)に検挙されたが、1934年に転向を条件に出獄した。以後も中野は文学者として抵抗を継続し、時流批判を続けたため、1937年(35歳)に中條(宮本)百合子や戸坂潤らとともに執筆禁止の処分を受けている。1942年の日本文学報国会には参加している。
 『中野重治全集』第1巻を開くと、1926年の「夜明け前のさよなら」があり、非合法下の活動家会議の緊張感が伝わってくる。「僕らは仕事をせねばならぬ/そのために相談をせねばならぬ/しかるに僕らが相談をすると/おまわりが来て目や鼻をたたく/そこで僕らは二階をかえた/路地や抜け裏を考慮して/…中略…/夜明けは間もない/僕らはまた引越すだろう/かばんをかかえて/僕らは綿密な打合せをするだろう/着々と仕事を運ぶだろう/明日の夜僕らは別の貸ぶとんに眠るだろう…略…」。久野収が「一字一字ノートに写した記憶がある」と書いているように、治安維持法下で苦闘していた人々の共通感覚だったのだろう。
 1970年代後半に、知人宅に一夜の宿を求めても、隣の部屋から夫婦のトゲトゲしい会話が漏れ聞こえ、翌朝そそくさといとまを告げた記憶が甦る。その頃、吉野せい作品集『洟をたらした神』(1974年)を読んだ。1935年の秋、二人連れの活動家が訪れ、荷物を2日間だけ預かってくれと頼み込むが、三野混沌はむげに断っている。そして何日か経って、特高が来て、三野混沌を連行していった。頼み込む活動家の切羽詰まった状況と、それを受け入れることができない三野混沌の状況は、痛いほど胸にしみた。
 1929年の「雨の降る品川駅」には、国境を越えた朝鮮人との連帯感がみなぎっている。「(前略)君らは雨にぬれて君らを逐(お)う日本天皇をおもい出す/君らは雨にぬれて 髭 眼鏡 猫背の彼をおもい出す/ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる/ふりしぶく雨の中に君らの瞳はとがる/…中略…/シグナルは色をかえる/君らは乗りこむ/君らは出発する/君らは去る/さようなら 辛/さようなら 金/さようなら 李/さようなら 女の李/行つてあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ/ながく堰(せ)かれていた水をしてほとばしらしめよ/日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾/さようなら/報復の歓喜に泣きわらう日まで」と。願わくば、「まえ盾うしろ盾」は朝鮮人ではなく、日本人こそが、中野重治自身がその役を担わねばならないのだろう。戦後、中野自身は「民族エゴイズムのしっぽのようなものを引きずっている感じがぬぐいきれない」と、反省している(上田正行著『中心から周縁へ』より孫引き)。
 1928年の短編小説「春さきの風」は犀星も絶賛している。3・15弾圧で、赤ん坊を抱えた女性が逮捕され、赤ん坊が病んでいても、ろくに医者に診せてもらえず、ついに留置場で泣き声が止む。女性は釈放されたが、良人はそのまま未決監に送られ、良人への手紙に「わたしらは侮辱のなかに生きています」と、涙しながら封を閉じている。ここには、まだ頑として転向を拒否する中野重治がいる。
 1931年の「今夜おれはおまえの寝息を聞いてやる」には、弾圧に身構えた中野重治がいる。「…略…かつて引き裂かれたおれたちはまた引き裂かれるかも知れない/しかしおれたちがおれたちの仕事にそれぞれ忠実であるかぎり/おれたちを本質的に引き裂く何ものもない/すべての手段を奪ったものも献身による手段を奪うことはできない…略…」と。
 中野重治の詩は私の詩でもある。1968年春、万世橋の留置場で、隣の房からくぐもるような声でアリランが聞こえ、看守から「黙れ」と怒鳴られても歌は止まらない。起訴され、巣鴨の東拘に送られ、「整列」、「番号」の号令がかかり、学生たちは「いち」、「に」、「さん」…「なな」。突然、看守は「『なな』という数字があるか! やり直し!」と。ふたたび、「いち」、「に」、「さん」…「しち」、そして私が「はち」と、怒りを込めて叫び、次も、その次も怒りを込めて叫び、入所の点呼は終わった。1930年代も、その40年後も変わらず、たたかう青年がいたのである。

(5)島田清次郎
 島田清次郎は1899年に生まれ、1930年(30歳)に亡くなり、作家生活は1914年から25年までのわずか10年であり、その時期にはシベリア出兵があるが、大きな戦争を体験していない。島清の作品や随筆のなかに戦争に関連する記述を探してみた。
資本主義批判
 1916年から書き始めた日記『早春』(1920年発行)では、宗教(暁烏敏)批判をおこなったうえで、1918年11月付で、米騒動について、「非文化的な騒乱や暴動」ではなく、「一般民衆運動が示した意外の実力と信念…選挙権拡張の準備をさせてゐる」と評価している。
 1920年(21歳)発行の創作ノート『閃光雑記』では、マルクスの剰余利潤説について述べており、資本論に目を通していた節が見られ、同年8月に、堺利彦や山川均が呼びかける日本社会主義同盟に参加したが、翌年5月には解散させられている。このように、島清は社会主義を以て自らの信条としていた。
排外主義批判
 1920年に公刊された『二つの道』では、「支那(ママ)のあの豊穣な大陸や南洋の諸島が必要」、「階級戦は…国家民族の消滅」と、アジア侵略を煽り、階級闘争の放棄を主張する国家社会主義者にたいして、島清は「資本家階級の一切の文明は…たたきつぶしても惜しくないニセ文明」と、日本資本主義をこそ打倒しなければならないと訴えている。
 『早春』では、1919年の3・1朝鮮独立運動直後に、島清は「彼等(朝鮮人)を愛し、彼等を真に平等にあつかはなくてはならない」と書いているが、朝鮮併合への批判はなく、朝鮮独立運動への共感・支持も表明されていない。また、「私は…必然的に現在の国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野(泡鳴)氏の日本主義なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ。」と、痛烈に排外主義を批判している。
差別批判
 島清の社会感覚として特筆すべきは、解放運動への熱烈な支持である。『地上』第2部では、子どもたちの間で展開される差別が描かれているが、第3部では一転して、「少なくともこの輿四太の目の黒いうちは俺等の同志三百万人の××種属が、いざとなったら承知しない…その時この腕が物を云ふのだ。三百万の××が六千万の国民に代って物を言ふ」と、差別に立ち向かう民の姿を生き生きと描き、画然としている。
 しかし、1925年の徳富蘇峰への手紙では、「族」などと、たたかう民を罵倒しており、晩年の階級意識は後退している。
 島清が活動した時期は日清・日露戦争で成長した日本資本主義の矛盾が顕在化し、資本主義批判が普遍化してきた時代であるが、戦間期であり、戦争に関する直接的な記述はない。

(6)杉森久英
 小説『大政翼賛会前後』(1988年)によれば、「私は学生時代からずっと左翼だった。左翼的といったほうがいいものだったが、ともかく唯物論や共産主義の入門書を読み」、1934年に大学国文科を卒業し、公立学校教員、中央公論社編集部を経て、1942年12月から大政翼賛会興亜局企画部に就職し、翌年5月から文化部に移り、一官僚として敗戦まで働いた。
 杉森は「翼賛会は…権力も強制力も持たない張り子の虎」とか、「(杉森が担当した)青少年読書運動は…この大戦争のさ中にそれほど重大な意味を持つものとも思えなかった」などと、翼賛会の役割を低く見せかけ、さらに「私はただわずかばかりの糊口の資を得るために、自分の本心を偽って、国家に忠誠を尽くしていた」と言い訳がましく述べているが、これは自己弁護以外の何ものでもない。
 翼賛会文化部の目的は「自由主義文化、個人主義文化を払拭し、高度国防国家日本の国民文化を創造」することであり、『詩歌翼賛 朗読詩集 日本精神の詩的昂揚のために』(1941年)、『愛国詩集 大詔奉戴』(1942年)、『地理の書 朗読詩集』(1942年)、『朗読詩集 常磐樹』(1942年)などを次々と発行し、翼賛文化運動を推進・統制する中軸的組織であった。
 杉森久英が文化部の職員として執筆した「読書会指導者思想錬成要項」(1944年2月)には、「趣旨 読書会指導者ニ対シ、皇国史観ニ基ヅク思想錬成ヲ施シ、我国教学、文化ノ本義ヲ体得セシム」と書かれ、講目は「国体の本義」、「皇国歴史観」、「思想指導方針」、「国民読書会指導方針」などが並んでいる。このように杉森が果たした役割について、曖昧にすべきではない。
「『三光』に抗議する」
 杉森は、戦後1953年の短篇小説『猿』が芥川賞候補になったのを機に作家生活を始め、1957年6月号の『新潮』に「『三光』に抗議する」という7000字ほどの評論を投稿した。評論対象の『三光 日本人の中国における戦争犯罪の告白』(神吉晴夫編)は1957年にカッパ・ブックスから出版され、1カ月たらずで、発行部数が5万部を突破した。編者神吉晴夫は右翼団体の訪問を何回も受け、「発売直後、千枚通しを手にした男が神吉晴夫に迫った」(塩浜方美編集長談)という。
 杉森は、上記評論で「抑留されている日本人が、抑留している中国人民にむかって、自分の罪を謝するという、非常に特殊な形で書かれたものばかりである」、「この本を読んでいるうちに、胸の底からこみあげてくるこの嫌悪感、いらだたしさ、そしてウサン臭さの感情」、「日本人によつて、日本人の暴虐は醜く描かれ、中国人の犠牲は美しく描かれていることに、僕の神経はこだわるのだ」、「自分ならびに同胞の非行を、他国人の前に公然と暴き立て、悔悟し、謝罪するこの人たちのやり方を、平静な感情で見すごすことはできない。そこには何か、おそろしく不自然なものがある」、「戦争そのものが本来残虐なものである。残虐はおたがい様でないのか。ある場合、平和な村が戦火にさらされ、良民被害を受け、作戦上の都合のため、食料が徴発され、家が焼かれることもないとは限らぬかもしれぬ」、「民族間の敵意や対立が問題になっているとき、やたらに婦女暴行を持ち出してはいけないと信ずる」と、右翼を煽るように書いている。すでに戦後12年をすぎ、論壇では戦争責任問題が議論され続けてきたにもかかわらず、大政翼賛会文化部で、言論統制の片棒を担いでいた自身の責任を問う姿が見られない。
「戦場に捨てる命と金」
 もうひとつは、1993年7月13日付け『北國新聞』に投稿された杉森の「戦場に捨てる命と金」という1600字ほどの評論である。
 「戦場では、女性も食料や弾薬と同じく、必需品である。若さと血気に溢れ、人を殺すことを何とも思わず、自分自身の命さえ考えない若者にむかって、禁欲と節制を説いても無駄であろう」、「(戦場で)男の捨てる金を、チャッカリ拾うのが女の仕事である。女たちはそんなのを集めて、国もとへ送金したり、帰ってから豪邸を建てたりする」、「泣き叫ぶのを、容赦せず連行されたと言うが、ほんとかしらん。…そういう話しを信じて、救済だの補償だのと騒ぐのも、どんなものかと思う」と。
戦争という魔物
 杉森は、二つの評論で、日本の侵略戦争と植民地支配によって引き起こされた膨大な被害を極小化し、加害責任をできる限り小さく見せかけ、アジア人女性を性奴隷にした事実を茶化し、嘲り笑い、戦争はそんなものだと居直っているのである。
 戦争の真っただ中で、七転八倒して創作活動をしていた鏡花、秋声、犀星、中野、鶴彬はそれぞれの道を歩んでおり、その人生は苦悩の塊であったが、当時の杉森は統制する側にあり、戦後に作家活動を開始したころも、その終末期も、ついに自らも体験したはずの戦争(1944年7月~徴兵)という魔物を対象化することができなかったのである。

(7)長澤美津、永瀬清子、水芦光子
 戦中に青年期を過ごした石川県ゆかりの女性作家には、長澤美津(1905~2005年)、永瀬清子(1906~1995年)、水芦光子(1914~2003年)がいる。
永瀬清子
 詩人永瀬清子は1906年岡山県に生まれ、幼年期は金沢市で過ごし、1995年に亡くなった。日本文学報国会詩部会の会員であり、1942年大政翼賛会への献納詩「幸ひなるかな日本の女性」(幸ひなるかな日本の女性/われらは誇る わが夫をわがいとし子を/彼等はつひに新しい世紀の始りをとゞろく狼火(のろし)もて世界に告げた。/長い穏忍の夜はあけて/あたかも光の矢の八方に飛ぶごとく/忽ちにして太平洋上いたる所に凱歌は揚がった。…略…)があり、レコードに吹き込まれて、全国販売された。
 『辻詩集』(1943年)にも「夫妻」(彼等の妻はながい間心配した。/戦地にあるその天のために。/けれども彼等が捕虜となったときいた時/妻たちは安堵の吐息をついた。/夫らが軍門に降る時挙げたその手を/彼女らの再び執る日を待ちかぞへた。/日本の妻はなげかない。/その時敵弾が彼をつらぬいたときいてさへ/なほその頬にはほゝえみがのぼる。/よろこびいさんで彼が死に就いたことを/彼女は疑ひ得ないから。/あゝその幻がわらつてゐるのに/どうして彼女もはほゝえみ交さずにゐられやう)が掲載されている。
 殺されずに捕虜となったことに安堵し、無事に戻って来て、再びその手を握りたいという真情吐露が前段にあり、後段は敵に倒れた夫を微笑みで迎えようと、無理やり自分の感情を引き裂いているようだ。
 戦後の永瀬は、アジア諸国民会議(1955年)に参加し、「私共は決して戦争しない。…アジアの連帯万歳」と叫んでいる(『永瀬清子』井坂洋子2000年)。原水爆実験に反対し、人種差別に反対し、韓国の抵抗詩人・金芝河(キムジハ)救援運動にも参加している。「飯が天です」と詠い、死刑求刑に「光栄です」と答えた金芝河たちは1970年代の私達にとって、忘れがたい人である。2013年の再審で「犯罪の事実なし」として無罪判決が下った。
水芦光子
 水芦光子は1914年に金沢市小橋町で生まれ、1931年大阪へ移住、1943年に出産と疎開で金沢に戻った。1946年9月金沢で詩集『雪かとおもふ』が発行された。紙不足のせいか、粗末な100頁程度の詩集である。
 そのなかに、「おまへはかへつてきた 夏、まだ星の消えない朝に」(たつた一度でもよいから/おまへにお乳を吸はせてやりたかつた。/お七夜のときまで母さんのお乳は出たつけ。/おまへのお骨灰(こつ)を墓所におさめるやうに/みんなからいはれても/そつと箪笥にかくしておいたのは/おまへと別れたくはなかつたため。/…略…/空襲警報のときはおまへを懐ろにいれて。/――さうすると母さんの方が/まもられてゐるやうだつた。)があり、厳しい戦時下の生活のなかで子を失った悲しみを詠んでいる。戦争への不満さえ詩にすることができなかった時代であり、水芦光子は戦中に詠んで、胸中に仕舞っていたのだろう。
 卯辰山には豊川海軍工廠殉難乙女の像が建っており(1962年)、水芦が寄せた詩「挽歌」(これやこの少女ら 生きてあれば/いまは人の妻 子の母なるを/緑葉の色めくごと 春はなのはなやぐごと/生きてあれば とりどりなるを/われら哭(な)く ここに哭かねば/いずこにひとの 嘆く辺ありや)が刻まれている。
長澤美津
 歌人長澤美津の戦中の作品として、『花芯』(1941年)がある。1937年盧溝橋事件の年に、「わが生れしは 日露戦争のときなりき それより幾度目の事変ぞ まさに起れり」、1938年に「新聞の 日日の記事より もとめつつ 兄は記しをり 占領地」、1940年には「鳴りわたる 深夜の警報に たちあがる 演習なければ なごまし」と歌ったが、勇ましい戦争翼賛詩ではなく、やむを得ず、受けとめざるを得ない現実描写の側面が強い。
『辻詩集』の中の女性
 1943年に、日本文学報国会が発行した『辻詩集』には208人の詩が掲載されているが、そのうち女性は約30人である。タイトルを摘記すると、「勝ちぬかん」、「お台所忠義」、「征するために」、「献納」、「供出一景」、「いのちの艦」、「つみきの艦」、「軍艦を造れ」、「いざわれら」、「軍艦をつくる町」、「大御艦を造れとの」、「海の護り」、「みいくさのかげ」、「沈まぬ船」、「つづけ進軍」など、戦時一色である。たとえば、井上淑子は戦争詩「勝ちぬかん」(われは、をみな、/銃を、とらねば、/やがて捧げんと、幼子を守り、/いまし、/建艦のまことに微力をつくして。/つたなき、うたを献ず。/伝統の袂を断ちて、/春くれど、花におぼれず、/勝ちぬかん、/われら、ただに、/勝ちぬかん。)と、勇ましく詠んでいる。

(8)深田久弥
 深田久弥は1903年に生まれ、満州事変(28歳)、日中開戦(34歳)、日米開戦(38歳)を経験し、1944年(41歳)に金沢で入隊し、青島~南京に派兵され、戦地で敗戦を迎え捕虜となり、1971年68歳で亡くなっている。
 1938年(35歳)、深田はペン部隊として漢口に派遣され、1940年日本文学者会会員、1942年日本文学報国会会員として、少年少女向けの戦争翼賛小説家として働いた。ペン部隊の従軍記には「粤漢線遮断」(『改造』1939年1月号)があるが、まだ見る機会はなく、戦時期のいくつかの小説についてレポートする。
 少年少女のために、1941年1月から連載された『少年部隊』について、勝尾金弥は『山へ登ろう。いろんな山へ―深田久弥のメッセージ』(2012年)で、「少年たちは軍事訓練めいたことは一切行なっていないし、軍人も一人も登場しない」と記して、戦争翼賛小説ではないかのように評価しているが、深田久弥は「はしがき」で、「いま東洋も夜があけた/君達少年と歩をそろえて日が昇る/東亜は君たちと共に興らんとしてゐるのだ。進め、少年部隊/美しきかな、正しきは強し!」と、のっけから国家主義をあおり、本文中では、子供たちに軍歌「遼陽城頭夜はふけて/有明月のかげすごく/霧たちこめる高梁の/中なるざんがう声たえて/目ざめがちなる敵兵の/膽(きも)おどろかす秋の風」を歌わせている。
 1943年の『命短し』には短編小説8編が収められており、「天の餅」では、日露戦争の直前に婚約し、戦地で大けがを負って帰ってきた兵士と結婚し、一児(明夫)を設け、「(1937年)日支事変が起こり、その年の秋初めのある夜半、出征令状が明夫に下った」。戦死の知らせが届き、父は「明夫。神となり。御先祖のもとに合す」「明夫、あっぱれなり、父母これを嘉す」と、戦争に動員され、傷を負い、殺されてもなお喜ばねばならない悲哀を描いている。
 『山へ登ろう。いろんな山へ』では、千島からインドネシアに至る領土拡大(侵略)を描いた「をとめだより」(雑誌『日本少女』1942年2月~)、父が徴兵され、留守家族の兄妹を描く「地球儀を持った子供たち」(1944年)、徴兵され、戦地に送られた父の帰りを心待ちにしている兄弟を描いた「僕の手紙」(1943年)など、子供たちを戦争に引き込んでいく作品が紹介されている。
 追悼集『深田久弥の追憶』(山下久夫1971年)では、山の作品だけが対象化され、戦時期の深田久弥の作品には誰も触れていない。深田久弥の研究『読み、歩き、書いた』(1999年)で、高辻謙輔は「深田久弥著書目録及び解題」を執筆しているが、深田の戦争翼賛小説については、限りなくその責任を曖昧にしている。2012年に出された勝尾金弥の『山へ登ろう。いろんな山へ』だけが辛うじて、深田久弥の実像に迫っている。


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