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小松基地問題研究会

20240504 島清幼少期の西廓について

2024年05月04日 | 島田清次郎と石川の作家
島清幼少期の西廓について

 1889年、島清は美川に生まれ、2歳のときに父を海難事故で亡くし、5歳(1904年)のときに母とともに、金沢野町・西廓で祖父・西野八郎が営む吉米楼に転居してきた。島清は幼年期から小学校、中学校の過程を西廓の吉米楼を生活拠点にし、涙に明け涙に暮れる遊女たちとともに生きていたのである。

100年前の西廓について
 金沢市内の廓(東、西、北、主計)の女性たちの写真集『城下の百姿』(金沢画報社1914年)のなかには、吉米楼の時(とき)さんと里葉(りは)さんの写真が掲載されている。時さんの説明には、「文章を能くするので文学芸者の名があり」、「結ふて了ふか 結はずに置こか 半ば思案の洗髪」との歌が紹介されている。
 また、覚尊院にある「遊芸師匠 泉屋柳子碑」(1912年建立)には、数百人の遊女たちの名前が刻銘されているが、吉米ときは発起人としてその名を連ねている。

 

覚尊院「泉屋柳子碑」
 野田山のふもとに覚尊院があり、「遊芸師匠 泉屋柳子」碑(1912年建立)と、能登屋が寄贈した「野田山三十三所 観世音菩薩」(1923年建立)があり、両方あわせて数百人の遊女たちの名前が刻まれている。
 この事実を知ったのは、数十年前のことで、尹奉吉の調査の過程だった。1932年4月、上海派遣軍の戦勝祝賀式典の壇上に爆弾を投げ、金沢三小牛山で処刑された尹奉吉を野田山墓地の通路に暗葬する時に、お経を読んだのが覚尊院の山本了道さんであったからだ。
 1912年と言えば、島清13歳で、吉米楼を生活の場にしていたころであり、ここに名を連ねた遊女たちのむせび泣きを聞きながら生活していたのではないだろうか。

資料調査
 そのころの西廓について記述されている資料を探しているが、まだ的確な資料を探し出せていない。
 『日本遊里史』(上村行彰著1929年)の「日本全国遊廓一覧」によれば、石坂(西廓)には「遊業者:172、遊女:103人」とある。

 『石川の女性史』(1993年)には、「石川県下の遊廓所在地」(『石川県警察史』、『石川県統計書』より)という一覧表があり、1912年の項に、金沢・石坂町(西廓)には、「貸屋敷営業者数:101、娼妓数:133人」と記されている。
 同書305頁には、当時の公娼存廃論について記されている。
 公娼制度廃止論:①公娼制度は国法の正義に反する、②公娼制度は人道に反する、③衛生取り締まり上の効果が乏しい、④私娼の発生増加を防止できない、⑤風紀を紊乱する、⑥事実上の人身売買を認める結果を生ずる、⑦国際条約の趣旨に違反する。
 存娼論:は①公娼制度は歴史的所産で一朝にして廃止できない、②公娼廃止は私娼を増加させる、③公娼廃止は我国の家族制度の本質に反する。父母、家のため身を売るのは崇高な犠牲的精神の発露であり、我国古来の家族制度の美風をあらわすものである。④公娼は私娼に比べて境遇は良好である。

 『石川郷土史学会々誌』第12号(1979年)の「金沢東西両廓盛衰史」(棚木一良)には「大正13年室生犀星が芥川龍之介を西へ案内し「能登屋」のシャッポが接待した」と記している。大正13年(1924年)ごろの島清は関東大震災で家を失い、お金も尽きて、東京を右往左往していたときであり、8月には警察に捕まり、庚申塚保養院(精神病院)に強制入院させられている。そのまま6年後の1930年4月29日に亡くなった。

 『金沢市西南部の歴史』(園崎善一1994年)の「石坂台の遊廓」(242~)の項には、江戸期以降の西廓について書かれている。1872(M5)年には娼婦解散令が出されたが、「生活の道を失い、妾や私娼となるものが続出」した(245頁)。
 1891(M24)年、東廓=青楼76軒、芸妓93人、娼妓23人。西廓=青楼47軒、芸妓69人、娼妓25人。北廓=青楼61軒、芸妓32人、娼妓49人(246頁)。
 1911(M44)年の青楼(貸座敷)、石坂町=70軒、南石坂町=21軒、石坂西角場=28軒、北石坂新町=10軒弱(247頁)(246頁)。
 1912(T1)年の石坂の貸座敷数=101軒、娼妓数=133人、愛宕の貸座敷数=117軒、娼妓数=64人(248頁)。
 1914年第1次世界大戦が始まると、好景気となり、遊廓が大繁盛した。戦争終結後の1920年代になると、景気が悪くなり、貧農や小市民層の子女が流入し、芸妓数が増加し、1923年頃から、公娼廃止運動が始まった(248頁)。
 1923年の関東大震災後、室生犀星が金沢に疎開し、その招きで堀辰雄、川路柳虹、佐藤惣之助、百田宗治、芥川龍之介らが遊びに訪れた(249頁)。
 井上雪は少女期を石坂角場三番町で過ごし、『廓のおんな』で、「新地の子やさかい」と、軽蔑する子もいたと書いている(250頁)。

 人見佐知子は『金沢遊廓芸娼妓関係文書』中の「娼妓紹介簿」(1906~16)に登場する女性たちについて、「金沢市内の女性が多く、また、金沢市内でも貧困層が集住する地域の出身者が多いという特徴が見られます」と書いている。(論文「近代公娼制度下の娼妓と周旋業者」2022年)

 その他、『近代公娼制度の社会史的研究』(人見佐知子著2015年)、『シリーズ遊廓社会2 近世から近代へ』(2014年)、『日本廃娼運動史』(1931年)などがある。

島清の廃止反対論
 では、西廓で育った島清は公娼制度をどのように見ていたのだろうか。『雄弁』1915年2月号で「公娼廃止乎否乎」の特集が組まれ、島清も投稿している。そこでは、16歳の島清が公娼廃止に異を唱えている。建前としては、女性の性奴隷化・商品化に反対しているが、遊女たちの置かれている状況を見ると、「即廃止論」は遊女たちの生活を成り立たなくさせるために、島清は敢えて反対論を主張している。

 島清は3点について「廃止反対論」を立てている。第1に、島清は、遊女は束縛を受けておらず、楼主と遊女の関係は「親子関係」のようだと言う。しかし、それは女衒によって困窮する地方から買い集められてきた女性(遊女)をつなぎ止めるための擬制的な「親子関係」であり、大きな借金を担がされた遊女にとっては、楼主との関係を疎か(対立)にすることはできず、屈辱的な状態を甘受しているに過ぎない。

 第2に、島清は、公娼を廃止すれば、遊女が失業し、生きていけなくなるので、「即廃止論」には与しないという。島清は幼少期から遊廓を生活の場としており、遊女たちの苦悩を痛いほど知っている。だからこそ、島清は「公娼廃止」によって遊女たちの生活が根底から破壊されることを恐れているのである。
 ならば、公娼を国家容認の性奴隷制である事を厳しく指弾し、遊女の生活を保障しながら、廃止していくという論を立ててほしいものである。(石原歩の『公娼制度と救世軍の廃娼運動一考』(2013年)には、「山室軍平の廃娼運動は娼妓の自由廃業を促し、廃業後の衣食住の確保、就労への支援などを行った」と書かれている)

 第3に、道徳上の問題であるが、「遊廓は青年を堕落させる」論については、一般論として、堕落への道は遊廓だけではなく、その青年の資質によるとして、個人の責任論を展開している。その上で、島清は「存在するから必要」という論を立てているが、現実追認論であり、いただけない。「社会が不必要とすれば、遊女は必要なくなる」というが、その社会とは島清を含めて成立している社会であり、島清自身が「不必要」と声を上げてこそ、「社会の声」となるのではないか。

 以上、この間収集し、閲覧してきた資料をもとに、1910年代の西廓の状況について調べてきたが、資料があまりにも少なく、ほとんど当時の状況を把握できていない。今後、新たな資料に巡り会ったときに、加筆修正することにしよう。  2024年5月








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