アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

【資料】20210203『女工哀史』(細井和喜蔵)と「不二越強制連行」の比較

2021年04月17日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】20210203『女工哀史』(細井和喜蔵)と「不二越強制連行」の比較

 最近、50年ぶりぐらいだろうか、細井和喜蔵の『女工哀史』(1925年)を読み直した。不二越強制連行はそのわずか20年後の1944年であり、和喜蔵の時代と比較しても、募集、通信規制、多発する病気・けが、長時間労働、給料の簒奪、不当労働行為・虐待、監禁、過密な寄宿舎、粗末な食事などすべてにおいて合同である。(2021年2月)

<募集>
「女工哀史」
(071)彼らは「教育制度」という一策を案じ出した。…色々女子に必要な「教えごと」をすれば応募者は沢山あろうと考えた。/(074)女工募集の方法を「直接募集」と「嘱託募集」の二つに分けることができる。…それがまた募集のやり方を「広告募集」、「縁故募集」の二通りに見なければならない。/(213)「白飯」を供給するのは、一つの女工募集政策となっているのだ。
「不二越の場合」
A:日本人の校長先生から、不二越で仕事をすれば、韓国に帰ったら上級学校に行ける保証をしてあげるといわれました。
B:6年生在学中、不二越の社員2人が馬山市成湖国民学校に来て、会社の工場の様子や華道を教えている様子などの活動写真を観せて、「お金も稼ぎ、勉強もして、技術も習える」と言いました。
C:その時私は13歳でした。勧誘した日本人は、①勉強ができる、②お金を稼げる、③生け花が習えると言いました。
D:「日本に行けば、…仕事もいいし、金儲けもできる。勉強もさせてくれるし、 月給も高い。生け花、ミシンも教えてくれる」などと言って、女子勤労挺身隊への加入を勧誘しました。
E:「日本に行けば学校に行ける。…1年の内夏と冬と2回帰ってこれる」と、不二越に行くことを誘われました。
F:不二越では①技術を学ぶことができる。帰国してからその技術を教えることができる。②不二越の中の学校、つまり工業専門学校で勉強ができる。③お金が儲かる。月給をきちんと払う。④生け花、書道、ミシンを教える、というものでした。父母は、私が日本に行くことに反対しました。しかし、里長が母に、私を不二越に行かせなければ慰安所に送ると脅かしたので、母は反対できなくなりました。

<通信>
「女工哀史」
(069)女工が国許へ出す手紙は、その内容に工場の不利なことが認められてはないか、一々点検して、もし少しでも虐待に近い事実を訴えるようなものであれば直ちにこれを没収。/(182)…女工の国許から食物の小包郵便が届けば、これを本人に手渡さずして没収する。/(188)世話係の前でなければ一切手紙を書かせなかった。そして少しでも会社の内情を悪く訴えた文言でも書こうものなら、直ぐに更めさせるのであった。…受信も…封書は残らず事務所で開封し、万一帰れとでも認めてあれば、断じてそれを渡さず…。
「不二越の場合」
A:おなかがすいたことや,韓国に帰って家族に会いたい気持ちを手紙に書きたかったのですが,手紙も自由に書けず,内容を寮の先生に見せて了解を得てからでないと書けませんでした。
G:私は父母に帰りたいと手紙に書いたこともありました。ただ,手紙は,私たちが直接出すことはできず,先生に預けなければならなかったので,点帰国するまで手紙は届いていなかった。
H:両親への手紙は検閲されていて,お腹がすいたということは書けませんでしたので,ミスカルを送ってくれとだけ書きました。
F:手紙も検閲されていましたから家族宛に手紙で帰りたいと書くこともできませんでした。
E:家族に1か月に1度は手紙を出しました。手紙では,家に帰りたいということばかり書いていました。しかし,家族からの手紙は一度も来ませんでした。私の書いた手紙が検閲を受けていたかどうかは分かりませんが,実際には,私の書いた手紙は一度も家族に届いていなかったのかもしれません。

<病気・けが>
「女工哀史」
(070)病気や傷を負うて会社から突き戻される女もあった。…肺結核を持って村娘は戻った。…機械に喰われて片輪(ママ)になって帰るのもあった。
「不二越の場合」
G:冬の夜勤で、夜中の12時ころ、手が歯車にまき込まれ、手がぺったんこになりました。張点順着物の袖も破れました。医務室で治療(赤チンを塗って、左手を布でつるす)を受けただけで、病院にも行かせず、左手を吊った状態で、1日も休まず働きました。けがのせいで、今も左手の方が太く、痛みます。手ではなく,腕まで巻き込まれた女性もいました。この人は作業中に着物が歯車に巻き込まれて,そのまま腕も巻き込まれたのです。手が骨折してぶらぶらになり,入院しました。
B:機械油を飲んでしまったことがよくありました。このため、喉を傷め、冬は咳がひどくなりました。機械のベルトがはずれて、左手の薬指と小指を切るけがをしました。血がかなり出て、病院に連れていかれ、3針縫う手術を受けました。抜糸は1週間後でしたが、けがをした翌日から仕事をしました。
C:摩擦で熱くなった鉄くずが飛んできて顔に当たって、やけどをした。パイプを吸って機械油を出してやるが、最初はよく口の中に入った。洗っても、洗っても匂いがとれなかった。
E:10キロくらいある部品を運ぶ時、重くて支えきれず、機械の台の上に落としてしまい、左手をはさんだことがあります。中で骨が折れて、血がでなかった。まともな治療を受けられず、手を動かすことができるということで、翌日から仕事をさせられました。仕事中に火花が目に入りました。医務室に連れていかれたが、治療もしてくれず、薬もくれませんでした。すぐ工場に戻って仕事をするように言われました。目の痛みに耐えられず、仕事を休むと、工場長はなまけていると言って叱りました。
I:機械を掃除している時、ぞうきんと一緒に指が入った。ぞうきんが血で真っ赤になった。病院へ行って、17針縫った。

<長時間労働>
「女工哀史」
(128)工場法発令(注:1911年)以前であって、この頃は全国の工場ほとんど、紡績十二時間、織布十四時間であった。しかして、第二期にあたる工場法後から今日へかけては紡績十一時間、織布十二時間というのが最も多数を占める。
「不二越の場合」
A:私たちは毎日24時間、2交替で仕事をしました。赤番,青番ということで、12 時間交代で機械を休ませずにずっと連続して作業をやったわけです。1週間ごとに夜勤と日勤を交替していました。夜勤の時は,午後5時ころから出勤して,未明まで仕事をしていました。
B:朝8時から夕方の6時過ぎまで仕事をしました。12歳から14歳までの人は10 時間,15歳以上の人は12時間働きました。
J:朝6時に起床して工場には朝7時に出勤し、夜7時頃に仕事が終わったように思います。工場までは徒歩で10分程度でした。休憩時間は、お昼の1時間だけで、それ以外はずっと仕事をしていました。仕事を終えて寄宿舎へ戻ったのは午後8時頃でした。

<給料>
「女工哀史」
(072)給料の廉い不平を言わぬ少女たちを鞭打って酷き使おうと思いつき、十歳…八、 九歳から連れてこようとする方法をとった。/(073)今度は「強制送金制度」が生まれたのである。
「不二越の場合」
A:月給に対しては「銀行に預金しておくから家に帰る時に月給としてまとめて渡す」という話を聞きました。私たちは仕事を しましたが,給料をもらったこともありません。
B:社員手帳には毎月の給料が書いてありました。給料の金額は覚えていません。朝 ご飯は8銭,昼が10銭,夜が12銭,1日30 銭引かれていました。そのことを,友達同士,韓国の言葉で「朝ご飯は8銭,昼が10 銭,夜が12銭,合わせて30銭」とか,「日本が良いと行ったから来たのに,私たちは おなかがぺこぺこでだまされてきた。だまされた」と歌っていました。
B:富山に来てから3か月後のことですが,会社から3か月分の給料を実家に送ったと言われたことがありました。私は,実家に手紙を出して,給料が送られているか確認したのですが,両親からはもらっていないという返事が来ました。
C:先生は「会社の方で銀行に貯めてあって、期限が終わって韓国に帰る時に支払う。」と答えました。

<不当労働行為・虐待>
「女工哀史」
(160)英国…幼年工に煙突掃除をやらせ、…そのまま焼き殺してしまった。…日本でもそれくらいな虐待は随分ある。/(161)「バンド掛け」という少年工はそれを運転中に掛け直す役目である。その時少年工等はよく腕を巻き込まれる。/(162)…女工を鞭打ち叩いて使ったことは言わずもがなであろう。/(163)木管を一本床の上へ落としたと言って、バケツに水を入れたのを持って立たされ、なまけたと言っては庭箒を差しのべて、これまた一時間以上も直立させられた。…小唄「工場は地獄よ、主任が鬼で、廻る運転、火の車…」
「不二越の場合」
K:ノルマを達成できないと、班長から厳しく叱られました。
C:食べ物を手に入れるために、脱出したが、ばれると大変な罰を受けた。朴・・さんが見つかって罰を受けた。舎監の言うことを聞かなかったら、部屋の全員が廊下に出され、腕を上げたまま何時間も正座させられた。
L:ノルマがあって、仕事が遅いと、早くやれと言われて何回も殴られました。疲れ過ぎて、腰が痛くて倒れたら、班長が来て私をたたきました。
M:ノルマを達成しないとひどく叱られました。仕事が遅れたり、間違えたり、できが悪いと、木の棒で肩や背中をたたかれました。
N:集合する時、遅れると、平手で殴られた。規則を守らないと罰を受け、長い時 間立たされた覚えがあります。病院へ行って、時間通りに帰らないと、罰を受けた。

<監禁>
「女工哀史」
(164)始めて入社したっきり、年あけまで唯の一度も出してもらわなかった…事実も珍しくない。/(178)死の幕のような気味悪いナマコ板をめぐらせた工場の塀、…会社はついに一間(注:1.8m)の塀へ持って行って、どうしても登れぬようグリスをつけた鉄条網を張り渡す。/(179)「籠の鳥より、監獄よりも、寄宿ずまいは、なお辛い。…寄宿流れて、工場が焼けて、門番コレラで、死ねばよい」。/(205)寄宿舎の構造は…逃亡を防ぐために、全然一つの城廓をなし ている。…いずれにしても八尺(注:2.5m)以上の煉瓦壁またはその他の塀があり、なおその上に竹槍、硝子の破片、鉄条網等で忍び返しを取り付け…。
「不二越の場合」
F:1945年4月、私の父が亡くなり、私のもとに電報が届きました。私は家に帰りたいと不二越の人にいいましたが、認めてくれず泣いていました。
C:外出は許されていなかったのですが、あまりにも空腹なので食料を手に入れるため韓国から持ってきた衣服や品物を持って、病院へ行くと言って外出証をもらって、外出して間食になるものと交換して食べました。また、寮の塀垣の下に張りめぐらされている鉄条網を同僚に引っ張りあげてもらって、潜り込んで外に出ました。あんなに働いたのに、お父さんが死んだときに帰らせてくれなかった。
O:私たちの生活は、自由のない監視された生活でした。外に行きたくとも自由に行くことはできませんでした。
L:いつも誰かの監視の視線を感じるような状態で,工場の廊下にいただけでもどこに行くのかと尋ねられる状態で,勝手に外出などできるはずもありませんでした。寄宿舎にも先生がいて,寮の入口近くには管理室があって,先生が見張っていました。
J:寄宿舎の周囲は鉄条網で覆われていました。鉄条網の外には民家が点在していました。
M:寮の玄関付近には管理室があり,そこにはいつも日本人の監視の人たちがいて私たちの外出を監視していました。
(写真:不二越北門の3.7mの煉瓦塀、人形は140㎝)

<寄宿舎>
「女工哀史」
(182)食堂では三日に一度ぐらいゴツのある飯と半ば腐敗したおかずが豚小屋以上不潔な処で当てがわれる。/(205)女工寄宿舎―それは一言にして「豚小屋」で尽きる。/(206)縁なしの琉球畳が敷かれ、一畳につき一人くらい住んでいるのだ。/(207)兵庫県猪名川染織所などに至っては、表面だけ二六畳部屋に定員二二人として置き、その実三三人まで入れている。
「不二越の場合」
A:寝るときは畳に布団1枚のため,冬は寒く,2人で一緒に寝ました。そうすると,布団が2枚になるからです。夏には暑く,シラミとかノミとかダニで,なかなか寝られませんでした。
P:寮の部屋はストーブや火鉢もなく、冬の間はとにかく寒かったです。布団も、敷き布団や毛布 はなく、掛け布団1枚で、寒い時でも、もう一枚掛け布団を貸してくれるだけでした。
B:寄宿舎には一切暖房がなかったので、冬はとても寒い思いをしました。寄宿舎の1階が埋まる位まで雪が降った。敷き布団、掛け布団をそれぞれ1枚づつ与えられただけだったので、布団にくるまって寒さをしのぎました。
G:宿舎はノミ,シラミがたくさんいました。冬はシラミがたくさん発生し,夏になると畳の間からノミがいっぱい発生しました。消毒はしてもらえませんでした。あまりにたくさんシラミがわくので頭の髪の毛を剃った人もいました。
H:寮では25人が1部屋で暮らし,畳1枚が1人分のスペースでした。私たちが不二越に到着したのはまだ寒い時期でしたが,寮には暖房もなく,とても寒い思いをしました。
J:寄宿舎では畳1畳毎に1人寝なければならず、1部屋に20人くらいが頭をつき合わせて2列で寝ていました。
D:寄宿舎の八畳部屋に10人位ずつ入れられました。冬でも暖房はなく、与えられたのは敷布団1枚、着布団1枚のみでした。あまりに寒くて、同室の人と抱き合って寒さをしのぎました。

<食事>
「女工哀史」
(212)製糸女工の唄に「三度三度に菜っ葉を食べて、何で糸目が出るものか」というのがあるが、…工場の食物は不味いという以上まずい。そうしてまた不潔なのである。/(214)おかずはすべて盛り切りだが、極めてその量は少なく、普通家庭の三分の一しかない。/(216)牛肉は月に二回ほど食べさせる処もあるが、…一人前五匁位が関の山で、全くだしにも足りない有様である。
「不二越の場合」
Q:よもぎや野草をとって食べて、おなかをこわした。病院で粉薬をもらった。
R:農業用水にはえている芹をとって食べて、下痢をした。
A:食事は朝が麦飯1椀,たくわん2切れとみそ汁1杯,昼は三角パンで,たまに握り飯が出たこともありました。
H:いつもお腹が空いていて,ご飯の量が多い少ないといったことで,友達同士で喧嘩をすることもありました。
B:朝食は,ご飯少し,おつゆ,たくあん一切れでした。昼食は,最初のころは弁当をくれましたが,すぐに三角パン一つだけになりました。夕食は,ご飯のときもあるし,パンのときもありました。たまに,夕食で,ニシン,ワラビの漬け物が出ることがあり,そのようなものが出た時は,私達にとって夕食はごちそうでした。
J:食事の量が足りなくて絶えずお腹がすいていました。そのために寮に帰る時に道に生えていたヨモギを摘み、それを食べたこともありました。これをたくさん食べた時下痢をしたことがありました。
D:仕事は重労働でしたが、食事は貧弱でした。とにかく量が少なかったです。少しの御飯と、朝はみそ汁、昼は沢庵、夜はおかず一品で魚や肉類は一度もでたことはなく、いつも腹を空かせていました。日本に来てから体調は悪く、働き出して3ヵ月して生理も止まってしまいました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20210416 金沢市は独占禁止... | トップ | 5/4金沢市ガス・電気譲渡説明... »
最新の画像もっと見る

戦後補償(特に不二越強制連行)」カテゴリの最新記事