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小松基地問題研究会

20210719 「軍隊慰安婦」募集と勤労挺身隊募集について

2021年07月19日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
「軍隊慰安婦」募集と勤労挺身隊募集について

 『私的「不二越強制連行」論・記録』38頁の「朝鮮女子勤労挺身隊の戦後被害(2009年8月)」について、「慰安婦であることを隠して挺身隊として動員した」という記述が誤りではないかと、指摘されました。この指摘について、考察しました。
 韓国では、「挺身隊」という言葉は1930年代から、「救護挺身隊」「仁術挺身隊(医師たちの診療奉仕団)」などと、男女の区別なく使用されていましたが、決して「慰安婦」をさす言葉ではありませんでした。
 また、レイプセンターとしての「軍慰安所」は、1932年に上海占領軍によって最初に設置され、1937年南京占領後、全戦線に拡大整備され、日本軍将兵のための性奴隷として動員された女性を「慰安婦」と呼ぶようになりました。(姜貞淑著『日本軍「慰安婦」のこと、知っていますか』2015年)

「軍隊慰安婦」募集の手口
 吉見義明さんは『従軍慰安婦』(1995年)中の「だまされた事例」(92頁)の項で、「日本で働いたらどうかといったので、応募した」(李英淑、1939年)、「勉強もできてお金も儲かるところに行かせてあげるといわれて、承諾した」(ムンピルギ、1943年)、「日本に行って1年間働けば、お金を稼ぐことが出来る」(金台善、1944年)という趣旨の証言を紹介しています。
 『関釜裁判がめざしたもの』でも、「金儲けが出来る」、「日本の工場に行って働かないか」などの甘言に騙されて、中国や台湾に送られ、「軍隊慰安婦」を強いられています(1938~40年頃)。
 2014年に筆耕した「スマラン事件」の諸文書でも、「多くは良家の子女で、レストランにでも働く位で、出てきた者」(通訳・松浦攻次郎)、「制服を着た日本人が来て、同行を命じた。私は短期間レストランで働かねばならぬとか云ふ話であった」(被害者E.N)、「18歳~28歳の婦女を外部の事務所で働かせるために選出するから集めよと命じた」(アンバラワ第4キャンプ会長E.C.Ongerbor)などの証言があります。
 このように、欺罔によって、「軍隊慰安婦」を募集した例が多数見られます。

朝鮮での募集
 朝鮮で「軍隊慰安婦」を募集し、戦地に送り始めるのは1930年代後半以降と思われますが、周旋業者は「いい仕事がある」とか「勉強ができる」などという手口を使って、未婚女性を「軍隊慰安婦」に動員していたのです。当時はまだ、「挺身隊」という言葉は使われていなかったようですが、実態はすでに「女子勤労挺身隊」募集の内容と同じであり、1944年以降に女子勤労挺身隊動員の勧誘が始まったとき、朝鮮人は疑心と警戒心を持って身構えていたと考えられます。
 1944年5月には、不二越、名古屋三菱などへの女子勤労挺身隊動員が始まりますが、「労働と勉強」を口実にした「軍隊慰安婦」募集が先行しており、父母の反対で動員が思うように進まず(労務事情は今後益々困難に赴く)、6月に朝鮮総督府が「…未婚女子の徴用は必至にて、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相俟って、労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる」(6/27文書)と報告しているのは、このような先行実態を反映していたからではないでしょうか。
 未婚女性(12歳~)の日本の工場への勤労動員は、東京麻糸(1944年春100人)、名古屋三菱(1944年5月300人)、不二越(1944年5月~1090人)の合計約1490人にのぼります。
 朝鮮総督府の「6/27文書」に「挺身隊」と「軍隊慰安婦」は違うと書いてあるからといって、現実がその通りだったとは言えません。1932年尹奉吉の<上海~大阪~金沢~処刑~埋葬>の過程ではフェイクニュースで埋められているように、公文書などの記録をそのまま信用することはあまりにも無防備だと思います。
 このように見てくると、ストレートに「軍隊慰安婦」になってくださいと言って、募集しても、見向きもされなかったが故に、「挺身隊」という用語を使っていないものの、「勉強が出来る」とか「お金が稼げる」などと、「慰安婦」動員であることを隠して募集していたのであり、「挺身隊による軍隊慰安婦動員はなかった」という主張は正確さを欠いていると考えざるを得ません。

不二越強制連行の場合


 不二越強制連行被害者(原告)は、入社時(1944年5月)の写真に「挺身隊」という幟旗(楕円で囲んだ部分)が写っており、家族宛に写真を送るとき、「軍隊慰安婦」と誤解されないようにと、わずか15歳の少女がわざわざその部分を切り除いて送ったと証言しています。
 また、「軍隊慰安婦」を強制された女性たちが帰国後沈黙を強いられたように、ほとんどの不二越強制連行被害者も、「軍隊慰安婦」と見なされることへの恐怖から、「挺身隊」として日本へ送られたことについては、帰国直後から口をつぐんできました。
 このように、「軍隊慰安婦=挺身隊」という認識は、1944年5月に不二越への強制動員がおこなわれる以前に形成されていました。朝鮮総督府は労働力(女子勤労挺身隊)として未婚女性を動員する時に、それ以前の「慰安婦」募集で生じていた恐怖と拒否感を解消するために、「慰安婦」ではなく「挺身隊」である(6/27文書)と強調していますが、「語るに落ちる」とはこのことではないでしょうか。

身勝手な朝鮮総督府
 1930年代末以降、「仕事が出来る、勉強が出来る」とウソをついて、「軍隊慰安婦」を募集していましたが、その当時は「挺身隊」とは呼称されず、1944年以降の労働力動員のための「勤労挺身隊」動員が始まるころから、朝鮮人民は「警鐘」を込めて「軍隊慰安婦」を「挺身隊」と呼称するようになったのではないでしょうか。
 このような現実を反映して、「軍隊慰安婦=挺身隊」という認識が広まったために、労働力としての「勤労挺身隊」動員が捗らず、朝鮮総督府は「軍隊慰安婦」と「勤労挺身隊」は別だという「6/27文書」を発出せざるを得なかったのでしょう。
 こんな身勝手な朝鮮総督府の「6/27文書」を根拠にして、朝鮮国内で形成されてきた「軍隊慰安婦=挺身隊」という認識を否定するだけでは問題は解決されないのではないでしょうか。
 また、「軍隊慰安婦」(性奴隷)として動員された同胞女性をストレートに「慰安婦」と呼称することに忍びなくて、当時も今も、「挺身隊」という別称を使いたいという心理も理解しなければならないのではないでしょうか。

 本論考は朝鮮女子勤労挺身隊として動員された被害少女と「軍隊慰安婦」を強いられた女性を、対立的に描くためのものではなく、日帝(朝鮮総督府)による性奴隷政策と奴隷労働政策の具体的な募集方法について解明するためのものであることを付言しておきます。


(注1)『日本軍「慰安婦」のこと、知っていますか』によれば、「挺身隊」という言葉が使われ始めた(1930年代半ば)ころは、「男女の区別なく、各種の労務や奉仕隊に動員された団体」をさしていたが、1930年代後半に、「工場での仕事」などと偽って(就職詐欺)、未婚女性を「軍隊慰安婦」に動員しました。1944年から始まった朝鮮女子勤労挺身隊動員と混同されるようになりました。

(注2)1944年4月15『毎日申報』のコラム「かちいくさ」に、「挺身隊 ちかごろ よく どこでも つかはれることばで テイシンタイ といふのが ある。挺身とは からだをなげだす、身を すてるといふことで 一隊のものが みなじぶんのからだを すてて しごとをする といふこと。さういう 人の たくさん あつまったのを テイシンタイと いふので ある。いつの世でも おなじことで あるが、われわれの からだは じぶんのものではあるが じつは 大君の ものであり お国のもの なのである。いざ 国に ことのおこったときは いつでも からだを なげだし、じぶんといふものを すてて ごほうこうする。いまこそ 一億のものが みな ていしんして お国に つくさねば ならぬときである。」

(注3)戦後韓国で出版された辞書を見ると、1974年発行の『民衆エッセンス国語辞典』(民衆書林編集局)には、「①太平洋戦争の時日帝が強制的に徴集した韓国女性勤労者と慰安婦につけられた名称。②決死隊」と規定されており、韓国社会では「慰安婦=挺身隊」が定着していました。1990年に「韓国挺身隊問題対策協議会」が結成され、「慰安婦」問題を本格的に提起しましたが、団体名に「挺身隊」を使用したために、混同・混乱が増幅されてきました。



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