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小松基地問題研究会

原始共産制について考える

2014年01月23日 | 歴史観
原始共産制について考える

 マルクス・エンゲルスは『共産党宣言』において「これまでのすべての歴史は階級闘争の歴史である」と書いたのち、これに注をくわえ、原始状態を別とした。マルクスが1859年に『経済学批判』を書いた時点で、すべての民族の歴史の入り口に原始共産制社会があったと考えた。こうした理論を豊富化するために、マルクスもエンゲルスも古代史の研究を熱心におこなった。しかし、私(たち)は日本の古代史(縄文時代~弥生時代~古墳時代)にほとんど関心を持ってこなかった。

 『展望』8号(2011.3)の「人間の共同性について」(長谷川耕)は非常に気にかかる論文であり、たまたま県立図書館にならんでいた『よみがえる縄文の女神』(渡部誠著2013.9発行)を読んで、縄文時代・弥生時代の階級形成・国家形成について勉強しようと思い立ち、『講座日本の考古学』(縄文時代上、弥生時代上)を読むことにした。

 考古学とは古事記、日本書紀などの文献によらず、考古学資料(土器、遺跡など)によって原始古代史像を解明する学問である。考古学資料を基に古代史を読み解くという厳密な科学的立場を必要としている。

 『講座日本の考古学』(縄文時代上、弥生時代上)に収められたすべての論文を読む元気はなく、その中から①「縄文時代研究史」(今村啓爾)、②「縄文時代のはじまり(草創期)-そのアポリア」(大塚達朗)、③「縄文文化の高揚(前・中期)」(勅使河原彰)、④「縄文文化の停滞と変質」(玉田芳英・庄田愼矢)、⑤「弥生時代史論-研究の現状と展望」(寺沢薫)、⑥「戦争と地域社会」(橋口達也)、⑦「弥生時代の鉄文化」(村上恭通)を選択した。⑧Wikipediaも参考にした。

 人類の発生史を見ると500~70万年前にアファール猿人、70~40万年前にホモエレックス(原人)、15万年前にネアンデルタール人(旧人)、7~5万年前にアフリカで生まれたホモサピエンス(新人)が世界に拡散した。

 世界史は旧石器時代(260万年前~)、中石器時代(1万年前~)、新石器時代(8~6000年前~)、青銅器時代(5000年前~)、そして鉄器時代(3500年前~現代)へと進んだ。

 日本の縄文時代は旧石器時代の後半16500年前から始まり、中石器時代~新石器時代に相当し、①草創期(15000~12000年前)、②早期(12000~7000年前)、③前期(7000~5500年前)、④中期(5500~4500年前)、⑤後期(4500~3300年前)、⑥晩期(3300~2800年前)を経て、弥生時代は⑦早期(BC10世紀~)、⑧前期(BC8世紀~)、⑨中期(BC4世紀~)、⑩後期(AC50年~)と進歩し、⑪古墳時代(AC3世紀~)に突入する。

 私が関心を持っている階級(分裂)と国家はどのように発生したのかについて、上記の諸論文を参考にして考えていきたい。『家族私有財産国家の起源』(エンゲルス)では階級と国家の発生を剰余生産と私的所有に原点を置いている。はたしてこの理論が日本の古代史にも当てはまるのだろうか。

縄文時代の社会
草創期

 縄文時代の草創期・早期は食料生産はおこなわれず、狩猟採集の獲得経済だった。前期にさしかかってようやく食料生産が始まったが、それは獲得経済の補助的位置にしか過ぎなかった。本州中央以東から北海道にかけての主食はドングリ、サケ、マスで、人口は稠密だった。中央以西から九州にかけての主食はドングリで人口は希薄だった。

 ドングリのあくを抜くためには加熱処理が必要であり、そのために土器が使われた。土器製作・使用には明確な意図があり、集団によって製作・管理された。土器は壊れやすく、運搬が困難なので、定住を余儀なくされた。

前・中期
 縄文時代早期の平均気温は現代よりも3度低く、海水面が40センチ低かった(瀬戸内海は陸地)。冬の日本海側は降雪量が少なく、太平洋側は乾燥していた。前期後半(6000年前)になると、気温が上がり、海水面は現在よりも3~5メートル高くなった(縄文海進)。

 東日本は落葉広葉樹林(ブナ・ミズナラ)で加工が容易で、食料となる林床植物(ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、キノコなど)が豊富な環境だった。他方西日本は照葉樹林(カシ、シイ、クスノキ)で、加工がしにくい樹種が占め、林床植物が育たず、食糧不足を来たし、人口は希薄だった(遺跡の分布密度に東西格差)。

 前期中頃から、アズキやダイズが栽培され、落葉広葉樹林を伐採し、クリの栽培がおこなわれ、安定した食糧資源を確保するようになった。しかし、縄文時代の植物栽培は数千年の間発展せず、縄文人の生産や社会を支える経済基盤は獲得経済の枠内であり、弥生時代との差が顕著に見られる。

 中期後半の東日本は、気候の冷涼・湿潤化の影響で食糧資源が枯渇していき、食糧資源が追いつかず、人口の減少をもたらすなど、人間と自然との間の厳しい対立(自然との戦争)に見舞われていた。これは環境の変化に対する縄文人の試練だった。

後期・晩期
 自然環境の悪化で、東日本では遺跡数の減少・集落の縮小化が見られるように、それまでの社会が崩壊し、再編される過程に向かった。集落単位での生活が主体であった時期を経て、複数の集落による共同体が結合し、悪化していく環境に対応していった(環状列石=複数の集落により造成)。

 中期後半から寒冷化がはじまり、海岸線が後退し、沿岸部(砂丘)の後背地に肥沃な沖積平野が現出し、晩期の九州で、水田跡や木製農具が出土している。晩期(=弥生時代早期)には九州(BC10世紀)や関東(BC3世紀)で稲作が定着したとはいえ、縄文時代を通して、主軸は堅果類(クリ、ドングリなど)の獲得経済であり、ヒエ、キビ、コメなどは補助的な食料だった。

弥生時代の社会
 弥生時代とは、停滞的な採集経済の段階にあった縄文時代に大陸の農耕文化が伝播し、稲作を中心とする生産経済に移り、米を主食とする時代である。弥生文化の特質は①稲作農耕、②金属器の使用、③階級形成、④戦争、⑤環濠集落(戦争)にまとめられる。

稲作の定着
 弥生時代早期には九州(BC10世紀)や関東(BC3世紀)で稲作が定着し、生産力を急速に発展させ、余剰生産物が生まれ、人々の生活が安定し、人口が増加し、分村化していった。前期前葉ころの可耕地開発は低地が中心であったが、前期後半から末になると、低地の可耕地が狭隘化し、低丘陵地にも進出した。

 中期中頃には可耕地開発は飽和状態に達し、近隣集落間で、水や土地をめぐって衝突抗争(戦争)が起きている。生産力の低さによる食料の欠乏から来る共同体間の戦争である。(農耕・牧畜の開始後、戦争が発生するのは世界共通)。

共同体間の戦争
 前期末から中期前半には、耕地開発と戦争(勇者)をとおして、農業共同体の中に指導者が生まれ、首長になり、富も首長に集中(私有財産の発生)するようになった。中期中頃には、自然条件の好転によって、集落は低丘陵部から低地へと移り、可耕地を拡大していった。開発不能だった低湿地の排水・潅漑を進め(農業共同体の共通利益を追求)、共同体内での衝突の必然性は減少した。

 首長は共同体内での衝突を仲裁することに加えて、共同体間の可耕地開発をめぐる争奪戦(戦争)を指揮することによって、共同体内での地位が強固になり、首長層間の婚姻関係が進み、首長の世襲が起こり、首長権が成立していった。

階級(階層)の発生
 中期後半になると、耕地開発と戦争の中で首長権が確立され、首長層が生まれ、支配の機構を形成し、階級的格差が固定化されていった。複数の農業共同体の盟主的首長-農業共同体の首長-集落の長-一般的人民と階級的格差が明確になり、一定の領域を持つ地域的まとまり(クニ)が形成された。クニは人間の共同性に基づいた共同体ではなく、権力(強制)機構が存在し、私的所有があり、階級分裂を内包した幻想的共同体として機能しはじめる。

奴隷・奴婢の発生
 後期の中頃(AD107年)の『後漢書』に、「倭国王師升等が生口160人を献じた」と記されており、「生口」とは奴隷・奴婢であり、①奴隷を養う経済的余裕があり、②監視・取り締まる常備の強制力(国家暴力)があったことを示している。後期前半頃から、共同体間の戦争で発生した捕虜の奴隷化がはじまったと考えられる。

国家の成立
 AD239年には邪馬台国が30余国を支配し、350年には大和朝廷が国内を統一し、3世紀中頃には初期国家が出現した。3世紀後半から古墳時代、6世紀末から飛鳥時代が始まった。

まとめ 
 「縄文社会階層論」があるが、墓地内での格差(副葬品の差)よりも遺跡間の格差が目立っており、縄文社会内には階層差は存在しなかった。縄文晩期には北日本で副葬品の格差が見られるが、農耕以前の時代であり、余剰生産に基づく階層格差とは言えない。
 自然環境の変化(寒冷化)による食糧不足は、弥生時代に稲作農耕が本格的にはじまることによって、食料が安定的に供給されるようになった。

 可耕地の開拓がおこなわれ、開拓能力に優れた構成員の中から農業共同体の指導者(調整役)が形成されていった。生産力の発展は余剰生産物を産みだし、共同体内の調整役を勤める指導者の管理下に置かれるようになる(私的所有のはじまり)。開拓が進み、共同体の人口が増加し、分村・拡散することによって、他の共同体との間で可耕地や水をめぐる争い(戦争)が発生し、戦争を最先頭でたたかう勇者が農業共同体の中での発言権を強めていった。

 すなわち、開拓能力に優れ、共同体内の調整役を勤め、戦闘に強い勇者が共同体の指導者となり、共同体の内部に階層(階級)分化・固定化が進行していく。さらに、分村や婚姻などを通じて複数の農業共同体の盟主的指導者(層)が現れ、奴隷・奴婢を監視・支配する常備の強制力を持ったクニ(国家)へと発展していった。

(なぜ私的所有のなかった原始共同体に私的所有が発生したのかについては、あらためて勉強する)
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