アジアと小松

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小松基地問題研究会

東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)23

2014年11月13日 | 日本軍性暴力関係原資料
『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)23

 東京裁判の原資料には言葉にすることも、文字にすることもはばかれるような行為が至る所に見られる。歴史修正主義者はこの戦争の真実(記憶)を否定し、ありもしなかった「アジア解放戦争」という嘘で侵略戦争を美化しようとしている。


<資料23>
調書

 本日1946年3月13日、容疑者林秀一は在ポンチャナック臨時軍法会議予審委員たる予即ちメーステル・イエ・ベッカンの面前に出頭した。

問 君の氏名、年齢、住所及職業を私に言いなさい。
答 林秀一、24歳、日本石川県生れ、海軍軍属。
  1943年7月13日、私はポンチャナックに到着して、警備隊長上杉啓明(音訳)大尉のところに出頭した。ポンチャナックでは私は私が設置した花機関(音訳)の地方部長となりました。この花機関は海軍の情報機関でありました。ポンチャナックの花機関はバリックパパンの花機関に属し、バリックパパンのそれは又スラバヤの花機関に属していました。私は海軍の奏任軍属たるバリックパパンの木村に情報を送らねばなりませんでした。

問 君は自ら逮捕せられた者を訊問した事があるか或は君は単に探偵の仕事をしたのか。
答 然り。私は特警隊長及警備隊長として上杉の後任者であった特警隊長岡島力の命令で特警隊の逮捕した者を訊問した事があります。これは政治的容疑者に関係した事であります。
…………………………………………
 予審委員の行ひたる証人ラフィアの1946年3月6日付の訊問調書が容疑者に提示され、之に対して容疑者は次の如き申立をなす。

答 この婦人がポニーム及アミナと共に上杉から尋問を受けた事は本当であります。その場合私は馬来語の通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云って告訴されたのです。日本人と親密になることは上杉の命令によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて3人の少女は1時間裸で立たなければなりませんでした。

問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。
答 それは私は知りません。

問 君は部下の巡査ではない。併しポンチャナックで独自に仕事をして居る探偵である。故に上杉のかくの如き命令に従ふ必要はない。
答 私はこの婦人達が脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私はこの婦人達は実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を拘留したのは彼等を淫売屋に入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人達は淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だったか私は知りません。

問 幾日間その婦人達は特警隊の建物の中にいたか。
答 私の思ふには5日乃至6日間でした。彼等は建物の後の監房の1つにいました。

問 1943年の後半、並に1944年の前半に、当西部州に於て日本人によって逮捕され且つその大多数が日本人によって殺されたところの中国人や土着民並びに若干の欧羅巴人の非常に大量な逮捕に関して、君は何を報告することが出来るか。
答 2つの大謀叛がありました。最初の逮捕が行はれた時は、私はこの州にいましたが旅行中であったのでポンチャナックにはいませんでした。個人的には私は1943年11月に初めてこの問題に関係しました。最初の謀叛に於ては私は主として通訳として働き、約200人の訊問に立ち会ひました。総ての特警隊員即ち山本、岡島、岡田、宮嶋、伊藤、田畑及中谷(孰れも音訳)は互いに交代して訊問致しました。

問 君は君の訊問した人物の氏名を記憶しているか。
答 然り。私はテオ、ラーデン・スヨノ、バナンギアン、ムスキタ、ルビニ、ルビニ婦人及パンゲラン・アディ・パティを記憶しています。

 時間が遅くなったので、訊問は1946年3月14日午前8時まで延期せらる。
容疑者 (署名)林秀一(日本文字にて)
…以下省略…
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