アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20121029 鴻臚井の碑を中国に返還せよ(加筆)

2012年10月29日 | 歴史観(海石塔、鴻臚井碑)
鴻臚井の碑を中国に返還せよ(加筆)

 先日(10/28)、石川県立博物館が主催したセミナー(「渤海研究の最前線」)に参加した。講師は酒寄さん、小嶋さん、古畑さんであった。聴講の動機は東アジア史の一般教養と韓ドラを楽しむための歴史的前提を学ぶためである。

鴻臚井(こうろせい)の碑略奪
 酒寄さんの講義の中で、鴻臚井碑についての説明があった。帰宅後、インターネットで検索し、入手した韓国『中央日報』(2006.5.29)の記事をも参考にして、概略を書いてみる。

 鴻臚井碑は西暦713年、唐が渤海王を「渤海郡王」に冊封した事実を記録した石碑で、渤海領土(現中国遼寧省旅順市)に建てられていたが、日露戦争で旅順を占領した日本軍が搬出し、皇居の庭園に設置した。この鴻臚井碑は9.5トンもあるという。

 1999年に酒寄さんが「明治37,38年戦役戦利品寄贈書類」(防衛研究所図書館)の中に鴻臚井碑を発見し、はじめて公表した。その資料の中に、鴻臚井碑の略図と一部の拓本が添附されているが、全文が公表されないのは日本に都合の悪いことでも書かれているのではないかと推測されている。

 そもそも、日露戦争は日本とロシアの戦争であり、日本がロシアに勝利したからといって、中国(旅順)にある鴻臚井碑を戦利品として持ち帰るなんて、とんでもない過ちである。しかも、その鴻臚井碑が皇居にあり、隔離・設置され、歴史研究を妨害しているとは、罪に罪を重ねる行為ではないか。

 中・韓・朝・日の歴史学者が、中国東北部から朝鮮半島北部に至る地域を版図とした渤海国(698~926)の研究をおこなってきたが、歴史学者からの公開要求に対して、宮内庁は「日本の国有財産で一般公開はしていない」と朝日新聞に答えている(2006.5.28)。

 宮内庁は明治時代に創作した「天皇家の物語」を固守するために、天皇陵と指定している古墳の調査を制限している。歴史学者は歴史を真に科学するためには、宮内庁の妨害を乗り越えて、すべての歴史情報の公開を実現することに努力すべきであろう。

 渤海研究者は「中国が遺跡地を公開しない」とぼやいていたが、まずは中国から略奪してきた鴻臚井碑を皇居から解放し、中国に返還することが先だろう。歴史学が科学たるべきには、体制内的であってはならないと思う。

無主地先占の法理
 もうひとつ知り得たことは、独島(竹島)はやはり日本領ではないという感触である。1905年、日本が「無主地先占の法理」を適用し、独島の領有を宣言したことの荒唐無稽さが浮かび上がってくる。

 渤海国と日本との航海ルートのことである。渤海と日本の間での公式使節は727年から919年までの192年間に47回(その内日本から渤海へは13回)で、初期は軍事同盟的色彩が強く、後期は交易目的だったという。

 航海ルートはさまざまに推測されてきたが、海流や風向から、日本海(東海)横断が主要なルートだったと考えられている。多くは、東京龍原府から日本海のど真ん中を南下横断し加賀~若狭~山陰に至るルートで、最も西寄りのルートは南京南海府→欝陵島→独島→隠岐の島→山陰・若狭へと島づたいの航路で、最も安全な航路と言えるそうだ(朝鮮半島東海岸沿いから対馬、九州に至るルートは対立する新羅との関係で選択できなかった)。

 このように8世紀頃には渤海国は日本への途中にある独島を航路上の重要な目印として認識していたようだ。逆に、日本から渤海国への主要なルートは加賀(福良=福浦)→七ツ島→舳倉島→渤海国へと日本海を北上横断したと推測している。

 一見すると、政治的には関係がないかのような古代史研究も、現代の政治と密接に結びつく問題を提起している。有為な時間を持つことができた。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 志賀原発からの放射性物質の... | トップ | 小松基地爆音訴訟口頭弁論(2... »
最新の画像もっと見る

歴史観(海石塔、鴻臚井碑)」カテゴリの最新記事