20221214 秀吉の「朝鮮征伐」とはなにか
明治期以降さまざまな文書で、兼六園の海石塔に秀吉の「朝鮮征伐(1592文禄、1597慶長)で略奪してきた石塔」との説明があり、その略奪行為を批判的にではなく、追認するような文脈で書かれている。そこで、秀吉の「朝鮮征伐」を理解するために、『朝鮮日々記を読む』(2000年)を読むことにした。そこには、翻刻された原文と解説・論文がいくつか収録されている。
『朝鮮日々記』は太田軍に従軍した医僧・慶念(大分県臼杵市・安養寺)の日記であり、1597年6月24日に臼杵を出発して、6/29壱岐、7/5対馬に渡り、7/7釜山に上陸し、8/14南原、8/20全州、竹山でUターンし、9/9鎮川、9/19尚州、10/4慶州、10/8蔚山、翌1598年1/5乗船、1/7西生浦、1/19釜山海、1/21対馬、1/22壱岐、1/25相島、1/28下関小瀬浦、2/2臼杵に帰帆した。
それでは、秀吉の「朝鮮征伐」によって、朝鮮の人々がどのような苦難を強いられたのか。1597年「慶長の役」に従軍した医僧・慶念の『朝鮮日々記』から摘記しておこう。
【6月24日】御船出にて、さかのせき(豊後佐賀関)に御船付、…【同27日】にあしやの灘(遠賀川河口の芦屋港)、あかまかせき(下関)、かけ乗りにし侍りければ。
【7月4日】はやばや船より我も人もおとらしまけじとぞ、物をとり、人をころし、うばいあへる躰、なかなか目もあてられぬ気色也。【同5日】家々をやきたて、煙の立を見て、わが身のうへにおもひやられてかくなん。【同6日】野も山も、城は申(す)におよばず、皆々やき(焼)たて、人をうちきり、くさり(鎖)竹の筒(首枷)にてくびをしばり、おやは子をなげき、子は親をたづね、あわれ成る躰、はじめてみ待る也。【同8日】かうらい人(朝鮮人の)子供をばからめとり(生け捕りにして)、おやをばうちきり、二たびみせず。たがひのなげきはさながら獄卒のせめ(責め)成りと也。「あわれなり/してふうわかれ(母子の別れ)/是かとよ/おや子のなげき/見るにつけても」。
【8月16日】城の内の人数男女残りなくうちすて、いけ取物はなし。され共少々とりかへして有る人も侍りき。【同18日】奥へ陣かへ也。夜明て城の外を見て侍れば、道のほとりの死人いさこのごとし。めもあてられぬ気色也。【同28日】此府中(全州)を立て行道すがら、路次も山野も男女のきらいなくきりすてたるは、二目見るべきやうはなき也。
【11月14日】侍をはじめて物をほしがり、むりに人の財宝をうばひとらんとのたくみよりほかは、子細はさらさらなかりしなり。【同19日】日本よりもよろづのあき人(商人)もきたりしなかに、人あきない(人身売買)せる物来り、奥陣よりあとにつきあるき、男女老若かい(買い)取りて、なわにてくび(首)をくくりあつめ、さきへおひ(追)たて、あゆ(歩)ひ候はねば、あとよりつへ(杖)にてお(追)つたて、うちはし(走)らかすの有様は、あほうらせつ(地獄の獄卒)の罪人をせめけるもかくやとおもひ侍る。…かくのごとくにかい(買い)あつめ、たとへばさる(猿)をくくりてあるくごとくに、牛馬をひかせ荷物もたせなどして、せむ(責め)るていは、見る目いたはしくてありつる事也。(仲尾宏の要約:「戦線拠点の釜山に、数多くの日本の商人たちが群がり、ことに人を売り買いする商人が戦場の奥深く入りこんで、日本軍の兵士たちの略奪する男女を買い集め、まるで猿を引くように縄でくくって連行している」)
以上が当時の朝鮮人にたいする残虐行為の証言だが、医僧・慶念は11月18日に「まことにまことにかようのくるしみなくば、かようのところへはなにしに来りて、うき目は見るまじき物を。とかくはやはやくるしみの世界をいそぎいそぎはなれ(離れ)たきのぞみばかりなり。くちおしき老後にかかるくるしみにあへる事は、くちおしき次第也」、12月9日には「又うちかへしておもふやうは、たとへ此とし月の身につもりきて、いのちはおわる共、一日片時成り共、故郷にかへり孫や妻子にあひて死してこそ本意なるべしと」、12月14日には「此うらみはたれにいはんかたもなし。ただわがなしたる先世のむくい」などと、従軍を心から後悔していたようだ。臼杵に帰り着いて医僧・慶念は「ねがひのまま孫子とも見参申、よろこび申計なく、おもひ候也」と締めくくっている。
原文の翻刻以外に、いくつかの論文が収録されており、仲尾宏の論文「丁酉・慶長の役戦場と慶念」には、「惣(総)頸(首)数3726」「判官は大将なれば首を其儘。其外は悉く鼻にして塩石灰を以て壺に詰入。…日本へ進上す」(『朝鮮記』)を引用し、さらに「吉川家文書や鍋島家文書にある『鼻請取状』はいずれも慶長2年8月中旬以降、10月初旬のものであり、その合計数だけでも2万9000以上にのぼっている。これに長宗我部、島津、太田、脇坂、加藤らの諸部隊の数を加えるならば、その数は10万を優に超すにちがいない。しかもこの行為は「さるみ」と称された民間非戦闘員を対象とした残虐行為であった」と秀吉軍の残虐さを述べている。
仲尾論文のまとめで、「丁酉(慶長)役の戦場は苛烈凄惨という以外の言葉をもたない。…この戦役は異なった民族の住む大地を侵掠し、また子ども、女性をはじめとする大量の非戦闘員の殺害、鼻刑、生け捕り――奴隷化を生んだという点で日本史上、類がない。後半の戦場においてはさらにあらゆる村々、宮殿、大寺などの破壊と焼亡が繰り返された」と締めくくっている。
江戸後期以降の国学者は「朝鮮征伐」を神功皇后の「三韓征伐」とセットにして、美化し、日本人の「優秀さ」を誇る物語として展開し、明治期以降の日清(韓)戦争から韓国併合・植民地支配を支える侵略イデオロギーとしての役割を果たしていたのである。
海石塔について調べてきて、略奪品なのか否かを問う前に、「朝鮮征伐」や日清戦争(農民軍の死者数は3~5万人)で朝鮮の人々に強いた苦難を、はっきりさせる必要があるのではないだろうかという問題意識に立つことができた。
明治期以降さまざまな文書で、兼六園の海石塔に秀吉の「朝鮮征伐(1592文禄、1597慶長)で略奪してきた石塔」との説明があり、その略奪行為を批判的にではなく、追認するような文脈で書かれている。そこで、秀吉の「朝鮮征伐」を理解するために、『朝鮮日々記を読む』(2000年)を読むことにした。そこには、翻刻された原文と解説・論文がいくつか収録されている。
『朝鮮日々記』は太田軍に従軍した医僧・慶念(大分県臼杵市・安養寺)の日記であり、1597年6月24日に臼杵を出発して、6/29壱岐、7/5対馬に渡り、7/7釜山に上陸し、8/14南原、8/20全州、竹山でUターンし、9/9鎮川、9/19尚州、10/4慶州、10/8蔚山、翌1598年1/5乗船、1/7西生浦、1/19釜山海、1/21対馬、1/22壱岐、1/25相島、1/28下関小瀬浦、2/2臼杵に帰帆した。
それでは、秀吉の「朝鮮征伐」によって、朝鮮の人々がどのような苦難を強いられたのか。1597年「慶長の役」に従軍した医僧・慶念の『朝鮮日々記』から摘記しておこう。
【6月24日】御船出にて、さかのせき(豊後佐賀関)に御船付、…【同27日】にあしやの灘(遠賀川河口の芦屋港)、あかまかせき(下関)、かけ乗りにし侍りければ。
【7月4日】はやばや船より我も人もおとらしまけじとぞ、物をとり、人をころし、うばいあへる躰、なかなか目もあてられぬ気色也。【同5日】家々をやきたて、煙の立を見て、わが身のうへにおもひやられてかくなん。【同6日】野も山も、城は申(す)におよばず、皆々やき(焼)たて、人をうちきり、くさり(鎖)竹の筒(首枷)にてくびをしばり、おやは子をなげき、子は親をたづね、あわれ成る躰、はじめてみ待る也。【同8日】かうらい人(朝鮮人の)子供をばからめとり(生け捕りにして)、おやをばうちきり、二たびみせず。たがひのなげきはさながら獄卒のせめ(責め)成りと也。「あわれなり/してふうわかれ(母子の別れ)/是かとよ/おや子のなげき/見るにつけても」。
【8月16日】城の内の人数男女残りなくうちすて、いけ取物はなし。され共少々とりかへして有る人も侍りき。【同18日】奥へ陣かへ也。夜明て城の外を見て侍れば、道のほとりの死人いさこのごとし。めもあてられぬ気色也。【同28日】此府中(全州)を立て行道すがら、路次も山野も男女のきらいなくきりすてたるは、二目見るべきやうはなき也。
【11月14日】侍をはじめて物をほしがり、むりに人の財宝をうばひとらんとのたくみよりほかは、子細はさらさらなかりしなり。【同19日】日本よりもよろづのあき人(商人)もきたりしなかに、人あきない(人身売買)せる物来り、奥陣よりあとにつきあるき、男女老若かい(買い)取りて、なわにてくび(首)をくくりあつめ、さきへおひ(追)たて、あゆ(歩)ひ候はねば、あとよりつへ(杖)にてお(追)つたて、うちはし(走)らかすの有様は、あほうらせつ(地獄の獄卒)の罪人をせめけるもかくやとおもひ侍る。…かくのごとくにかい(買い)あつめ、たとへばさる(猿)をくくりてあるくごとくに、牛馬をひかせ荷物もたせなどして、せむ(責め)るていは、見る目いたはしくてありつる事也。(仲尾宏の要約:「戦線拠点の釜山に、数多くの日本の商人たちが群がり、ことに人を売り買いする商人が戦場の奥深く入りこんで、日本軍の兵士たちの略奪する男女を買い集め、まるで猿を引くように縄でくくって連行している」)
以上が当時の朝鮮人にたいする残虐行為の証言だが、医僧・慶念は11月18日に「まことにまことにかようのくるしみなくば、かようのところへはなにしに来りて、うき目は見るまじき物を。とかくはやはやくるしみの世界をいそぎいそぎはなれ(離れ)たきのぞみばかりなり。くちおしき老後にかかるくるしみにあへる事は、くちおしき次第也」、12月9日には「又うちかへしておもふやうは、たとへ此とし月の身につもりきて、いのちはおわる共、一日片時成り共、故郷にかへり孫や妻子にあひて死してこそ本意なるべしと」、12月14日には「此うらみはたれにいはんかたもなし。ただわがなしたる先世のむくい」などと、従軍を心から後悔していたようだ。臼杵に帰り着いて医僧・慶念は「ねがひのまま孫子とも見参申、よろこび申計なく、おもひ候也」と締めくくっている。
原文の翻刻以外に、いくつかの論文が収録されており、仲尾宏の論文「丁酉・慶長の役戦場と慶念」には、「惣(総)頸(首)数3726」「判官は大将なれば首を其儘。其外は悉く鼻にして塩石灰を以て壺に詰入。…日本へ進上す」(『朝鮮記』)を引用し、さらに「吉川家文書や鍋島家文書にある『鼻請取状』はいずれも慶長2年8月中旬以降、10月初旬のものであり、その合計数だけでも2万9000以上にのぼっている。これに長宗我部、島津、太田、脇坂、加藤らの諸部隊の数を加えるならば、その数は10万を優に超すにちがいない。しかもこの行為は「さるみ」と称された民間非戦闘員を対象とした残虐行為であった」と秀吉軍の残虐さを述べている。
仲尾論文のまとめで、「丁酉(慶長)役の戦場は苛烈凄惨という以外の言葉をもたない。…この戦役は異なった民族の住む大地を侵掠し、また子ども、女性をはじめとする大量の非戦闘員の殺害、鼻刑、生け捕り――奴隷化を生んだという点で日本史上、類がない。後半の戦場においてはさらにあらゆる村々、宮殿、大寺などの破壊と焼亡が繰り返された」と締めくくっている。
江戸後期以降の国学者は「朝鮮征伐」を神功皇后の「三韓征伐」とセットにして、美化し、日本人の「優秀さ」を誇る物語として展開し、明治期以降の日清(韓)戦争から韓国併合・植民地支配を支える侵略イデオロギーとしての役割を果たしていたのである。
海石塔について調べてきて、略奪品なのか否かを問う前に、「朝鮮征伐」や日清戦争(農民軍の死者数は3~5万人)で朝鮮の人々に強いた苦難を、はっきりさせる必要があるのではないだろうかという問題意識に立つことができた。