アジアと小松

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小松基地問題研究会

20221023 兼六園の海石塔について(続)

2022年10月27日 | 歴史観(海石塔、鴻臚井碑)
兼六園の海石塔について(続)

 既報「兼六園の海石塔について」をまとめたあと、いくつかの資料が見つかった。とくに取り上げたいのは①奥野八幡神社七重塔の説明板(1958年)、②『特別名勝兼六園』(1997年)、③『きくざくら』8号(荒井外二論文1999年)、④同書18号(小島和夫論文2009年)、⑤「元は金沢城内の十三重塔?」(『北国新聞』2007/10/12)である。

(1)七重塔+海石塔=十三重塔
 過日(10/17)、小松方面に用事があり、ついでに能美市寺井町にある奥野八幡神社を訪れ、七重塔を観察した。最下段の笠石の一辺は122㎝、その上の段は118㎝であり、それ以上の4個の笠石は高くて計測できなかった(『きくざくら』8号に計測図あり)。
 七重塔のそばに、能美市教育委員会の説明板(1958年、能美市指定文化財)があり、論証抜きで、「豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に前田の臣、某が持ち帰ったもの、また、加藤清正が持参し、前田家に贈呈したもの、との両説がある」と書かれていた。「前田の臣、某が持ち帰ったもの」は明らかに誤りである。なぜなら、加賀藩の部隊(8000人規模)は肥前名護屋(佐賀県唐津市)で待機していたが、朝鮮半島には渡っていないからだ。
 その後、久しぶりに兼六園を訪れ(10/20)、海石塔の笠石の計測をおこなってきた。最下段は105㎝、その上は101㎝であったが、さらにその上は高くて、計測を諦めた。



 ついでに、公園内の金沢城・兼六園管理事務所(分室)を訪問し、そこで、『特別名勝兼六園』と『きくざくら』(金沢城・兼六園研究会)を教えてもらい、そのまま石川県立図書館に向かった。
 『特別名勝兼六園』(1997年)には、カラー印刷の「兼六園絵巻」があり、翠滝を背景にして、秋の陽を浴びた海石塔が静かに立っている。もっとも注目したのは海石塔の測量値入りの立面図である。『きくざくら』8号(1998年)にも同様の図面が描かれているが、測量値は微妙に違っているから別々に調査されたのだろう。
 ふたつの石塔・笠石の調査によって、金沢城内にあった十三重塔をふたつに分割して、兼六園(海石塔)と小松城(七重塔)に移されたという説が現実性を帯びてきた(当時の金沢城に十三重塔が立っていたという歴史文書は存在しない)。

(2)笠石は那谷石(滝ヶ原石)か海石か?
 「利常が作らせた」論では、石材がすべて県内産としているが、虫喰い状態の笠石がはたして那谷石(滝ヶ原石)なのか。ネット上には、滝ヶ原石は「雨や霜に強い」、「(滝ヶ原石の)石垣や灯篭は長年屋外に置かれても劣化しにくい」、「堅牢で角が崩れにくく、建物の土台などに利用」、「古墳時代には古墳の石室にも使用された良質の凝灰岩石」、「滝ケ原は、江戸時代後期から切り出しが進められた」などと書かれており、虫喰い状態の笠石とはあまりにも違う評価である。



 『きくざくら』は金沢城・兼六園研究会が発行する小冊子で、1990年代から今年(2022年)までに31号が発行されている。第8号(1998年)には研究発表「兼六園景勝表記の考察―海石塔」(荒井外二)が掲載されている。荒井さんは七重塔と海石塔に使われている石材について、論証抜きに、「すべてが県内産の石(宝珠・請花・塔軸=戸室石、笠石=那谷石、火袋=坪野石)」と論述している。
 荒井論文10年後の『きくざくら』第18号(2009年)に、「兼六園の海石について」(小島和夫)があり、「小松市西部、平地に臨む山麓地帯には火山から噴出した凝灰岩が広く分布し、古くから滝ヶ原石をはじめとして、石材に利用されてきた。凝灰岩は場所によって、泥質・砂質・礫質と岩質の変化が激しく、那谷町付近では、石英分に富む流紋岩質で、3㎝から0・5㎝の岩石の破片を含む粗粒軽石質の那谷石・多孔質で流紋岩質の蜂の巣石・細粒軽石質のクレー谷石などと呼ばれていた」と那谷石の性格について解説し、「海石塔に用いられていた海石は、…海中産の虫喰い石ではなく、那谷町産の多孔質で軽石を含む火山礫凝灰岩である」と結論づけている。
 また、2007年10月12日付『北国新聞』には、「元は金沢城内の十三重塔?」にも、「地質学が専門の関戸信次氏が加賀産の石材が使われているため朝鮮略奪説に異論を唱え」と書かれている。
 以上のように、3人が「笠石=国内産」を主張しているが、小島さんがもっとも丁寧に説明しており、私の疑問に答えている。関戸さんは小松市文化財調査委員長を務めており(2013年没)、海石塔と七重塔に関する調査論文が残されているのか、否か、今後の調査課題である。
 過日、小松市日用町の苔の里を訪れて、秋を楽しんだが、ふと、石垣に目をやると、虫喰い石がいくつか積まれていた。ここは滝ヶ原町、那谷町から数キロも離れておらず、この石は滝ヶ原町の産出なのではないだろうか(11/11)。 



(3)「略奪」論はなぜ?
 荒井さんはソウルのタプコル公園(円覚寺跡)に「石塔の台石」があり、調査が必要だと書いているが(根拠が示されていない)、筆者も不二越強制連行訴訟の関係で訪韓し、度々タプコル公園を散策したが、ガラスケースに入っている円覚寺十層塔は目についたが、荒井さんが言う「石塔の台石」には気づきもしなかった(存在するのだろうか?)。
 朝鮮からの略奪でなければ、「略奪」論が広がった理由は何か? 秀吉がやり残した「朝鮮征伐」を、300年後のいま(明治期=日清戦争前後)こそ、その偉業を完遂するという、排外主義・侵略イデオロギーとして形成されていったのではないだろうか。

 蛇足になるが、2007年ごろに朴賢緒さんが運転する車で、江華島の支石墓(先史時代:紀元前2500年~)を見に行ったことを思い出した。支石墓の前に立って、4500年後の人類にバトンを渡し続けてきた姿を想うとき、いま、人類絶滅の危機(大量殺戮兵器)に何もなしえなかった私の70年を想わざるをえなかった。


兼六園・海石塔関係年表                    【掲載資料】
1467年 漢城(現ソウル)の円覚寺(現タプコル公園)に十三重塔を設置【ネット・Wikipedia】
1488年~加賀一向一揆(~1580年)
1573年~安土桃山時代(~1603年)
1583年 前田利家金沢城入城
1592年 壬辰文禄の役(秀吉の朝鮮侵略―海石塔を略奪?)
1596年 2代藩主・利長→蓮池庭造成(【『兼六園全史』】)
1597年 丁酉慶長の役(秀吉の朝鮮侵略)
1603年 江戸幕府
1634年 金沢城玉泉院丸露地完成
1639年 3代藩主・利常隠居時に、金沢城内の十三重塔を分割し、一部を小松城へ【七重塔説明板】
1676年 5代藩主・綱紀が蓮池庭造成(瓢池は既にあった【『兼六園全史』】)
1759年 宝暦の大火→蓮池庭焼失
1774年 10代藩主・治脩→翠滝、夕顔亭を造る(【『兼六園全史』】)
1820年 竹沢御殿の作庭(これ以前の絵図には海石塔なし)【『きくざくら』8号】
1822年 兼六園と呼称
1863年 「兼六園絵巻」(海石塔の図あり)【『特別名勝兼六園』】
1868年 明治維新
1871年 兼六園を一般開放
1872年 小松城の七重塔を能美市寺井町(奥野八幡神社)に移転【七重塔説明板】
1872年 「瀑布亭の図」(海石塔の画像あり)【『兼六園全史』】
1892年 『金沢古蹟志』(「朝鮮から略奪」論←初見)
1894年~日清戦争(~1895年)
1894年 『兼六公園誌』(海石塔の画像あり、「朝鮮から略奪」論)
1894年 『金城勝覧図誌』(海石塔の画像あり)【国会図書館デジ・コレ】
1925年 「名園の落水」(室生犀星)
1958年 「奥野八幡神社七重塔説明板(能美市教育委員会)」(入手経路の説明)
1975年 『兼六園全史』(「兼六園絵巻」、「瀑布亭の図」に海石塔画像あり)
1997年 『特別名勝兼六園』(「兼六園絵巻」、海石塔実測図あり)
1999年 『きくざくら』8号(★荒井外二論文)
2007年 『北国新聞』(10/12)(★石井嘉之助の主張)
2009年 『きくざくら』18号(★小島和夫論文)
2013年 『兼六園』(監修:金沢城・兼六園管理事務所)



























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