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小松基地問題研究会

20221203 海石塔「略奪論」の背景を探る

2022年12月04日 | 歴史観(海石塔、鴻臚井碑)
20221203 海石塔「略奪論」の背景を探る

 兼六園の海石塔が<朝鮮出兵時に加藤清正が略奪してきて、秀吉に献上し、その後前田利家に贈られた>という「略奪論」の資料が多数存在し(1975年『兼六園全史』など)、日清(朝)戦争直前の1892年の『金沢古蹟志』まで遡ることができたが、「(昔朝鮮陣の時、分捕にせしものと)旧伝に云ふ」資料はまだ見つかっていない。(注:旧伝=昔から言い伝えて来たこと)

 他方、1990年代末ごろから、海石塔に使われている石材が坪野石(火袋)、戸室石(宝珠、請花、塔軸)、滝ヶ原石(笠石)であるとの「石材県内産論」(荒井外二、小島和夫など)が散見されるようになったが、体系立てられた論文はまだ手元にはない。

 すなわち、「略奪論」にも「石材県内産論」にも、決定的な証拠・論証がなく、宙に浮いている状態だが、海石塔が朝鮮由来の石塔でなければ、では、なぜ海石塔「略奪論」が普遍化したのだろうかという疑問が湧いてきた。

 姜徳相さんは、江戸時代後期から神功皇后(三韓征伐)や秀吉(朝鮮征伐)の浮世絵や錦絵が描かれ、江戸庶民のなかに朝鮮にたいする「優越感」を醸成していったと主張している(資料3)。幕末には佐藤信淵、橋本左内、吉田松陰などのアジア侵略論へとつながり(資料1)、1856年に吉田松陰が久坂玄瑞に宛てた手紙では、「神功皇后のいまだ遂げたまわざりしところを遂げ、豊臣秀吉のいまだ果たさざりしところを果たすに若(し)かざるなり」(資料5)と、朝鮮侵略への意欲を吐露している。

 明治維新(1868年)後には、「彼ら(注:岩倉具視や木戸孝允ら)は幕末の征韓論を思想的に受け継ぎ、…。1875年には日本軍艦を派遣して江華島(カンファド)事件を挑発し」(資料6)と、朝鮮への侵略にのめり込んでいき、1984年の日清(朝)戦争へと突き進んでいったのである。

 このように、「征韓論」が日本人の優越心を捉えていた真っ只中の1892年、『金沢古蹟志』に、「海石九重塔…。旧伝に云ふ。昔朝鮮陣の時、分捕にせしもの也とぞ」と記し、「秀吉の偉業」をたたえ、「征韓論」を側面から支え、1894年の日清(朝)戦争へと突き進んでいったのである。このように、海石塔略奪論は朝鮮侵略を支えるひとつのイデオロギーとして拡散されたが、逆に1990年代に入ると、根拠を明らかにできない「略奪論」で韓国(朝鮮)を刺激しないために、略奪論からの離陸として「石材県内産論」が試みられているのではないだろうか。

 とはいえ、江戸後期から日本人の精神のなかに蓄積されてきた、朝鮮にたいする差別・排外主義は未だに健在であり、この壁を打ち壊す努力が不断に求められている。

<資料>
(1)『近現代史のなかの 日本と朝鮮』(1991年)の序章:「これ(西郷隆盛、江藤新平、板垣退助ら)だけが征韓論ではなく、幕末にすでに佐藤信淵、橋本左内、吉田松陰などはアジア侵略論を唱えていた」(8頁)

(2)梶村秀樹さんの『排外主義克服のための朝鮮史』(1990年):「日本の古代国家形成に先進的な南朝鮮の文化が非常に大きな影響を与えているという確かな事柄が、日本の古代国家のイデオローグによって日本書紀などの形をとって逆転され、日本が朝鮮を支配していたというイデオロギーとなり、そういう形で体系化された観念を、…中世・近代に至るまでゆずり受けてきている。…たとえば、神功皇后がいわゆる朝鮮『征伐』を実行したという、…発想の骨組み自体は、日本と朝鮮の関係が古代において支配・被支配の関係にあったんだということ自体は無根拠に『真理』とみなしたがる傾向がある」(17頁)

(3)姜徳相さん(在日韓人歴史資料館):論文「日本と朝鮮のまっとうな過去と現在を結ぶための史観」(2009年)のなかで、「1820 年ごろから神功皇后が絵柄として出てくるようになります。…1850 年頃になると、これに加藤清正、豊臣秀吉、虎退治の絵が出てくる。…江戸末期から明治にかけての浮世絵、または錦絵…「三韓征伐」、秀吉の朝鮮戦争、あるいは神風がモンゴルを撃退したという類のものです。これらが日本の幕末から出来てくる」

(4)原佑介さん(金沢大学)の『禁じられた郷愁―小林勝の戦後文学と朝鮮』(2019年):「帝国期にさかんに吹聴された豊臣秀吉の『朝鮮征伐』は、古代の神功皇后の『三韓征伐』と並んで、帝国日本の朝鮮支配の正当性を担保すべく遡及的に構成された『国民の歴史』あるいは『国民の神話』の模範的素材となった」、「植民地支配の正当性と日本民族の優越性の根拠として『朝鮮征伐』を偉業とたたえる国家主義史観」(233頁)

(5)金光男さん(茨城大学):論文「幕末の朝鮮観に関する考察─吉田松陰を中心として」:「間に乗じて蝦夷を墾き琉球を収め、朝鮮を取り満洲を拉き、支那を壓し印度に臨み、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固めて、神后(神功皇后)のいまだ遂げたまわざりしところを遂げ、豊国(豊臣秀吉)のいまだ果たさざりしところを果たすに若かざるなり」(吉田松陰が久坂玄瑞に宛てた1856 年7 月の手紙)

(6)「日本大百科全書」:「江戸時代中期以降、儒学、国学の学者たちの間で朝鮮侮蔑(ぶべつ)の傾向がしだいに強まり、欧米諸国の圧迫を受けた幕末には、その圧迫による損失を朝鮮を攻めて補うべしという議論も台頭してきた。1868年(M1)12月から翌春にかけて、…岩倉具視や木戸孝允ら政府首脳らによって朝鮮侵略が画策された。彼ら(注:岩倉具視や木戸孝允ら)は幕末の征韓論を思想的に受け継ぎ、…。1875年には日本軍艦を派遣して江華島(カンファド)事件を挑発し、それを契機に76年には、朝鮮に一方的に不利な不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を押し付け、朝鮮侵略に突破口を開いた。これ(注:江華島事件)以後、政治的、経済的に日本の朝鮮侵略は年とともに強まり、日本人の思想のなかに征韓論的発想はますます増幅され、客観的に朝鮮をみる目が失われ、その後遺症は現在まで尾を引いている」(中塚明さん、歴史学者)

(7)「フリー百科事典」:「江戸時代において朝鮮出兵は、無謀な義のない戦であると林守勝や貝原益軒などの儒学者からは批判された。一方で軍学者の山鹿素行や国学者本居宣長は(注:朝鮮出兵を)神功皇后以来の壮挙であると高く評価している。吉田松陰も秀吉を国外に武威を示したと高く評価し、通商容認派の儒学者である大槻磐渓でさえも朝鮮出兵を高く評価している」



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