アジアと小松

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小松基地問題研究会

20230713 金沢偕行社門内の笠石も―略奪論に新事実

2023年07月13日 | 歴史観(海石塔、鴻臚井碑)
20230713 金沢偕行社門内の笠石も―略奪論に新事実

 銭屋五兵衛の隠れ墓と両墓制について調べていたら、『石川県史』第五編(1933/3/30)に、海石塔の写真を見つけた。写真に付けられている説明は下記のとおりである。



海石塔
 夕顔亭から石橋を渡って瓢池の中洲に達する。それを日暮橋といふのは、眺望のよさに夕陽の舂(つ)くを忘れるとの意かも知れない。中洲の出鼻には、桜の木陰に海石塔が立つ。塔形の石灯籠で、高さ三米九を測り、古色を帯びた粗鬆の石で作られてゐる。前田利家は文禄慶長の役に従軍したが、肥前名護舂屋の行営に止まってゐたので、戦闘線へは加らなかった。だから直接の戦利品がある筈はないが、豊臣秀吉から贈与せられたものは間々ある。この海石塔もその一つであり、偕行社門内にある大きな燈籠の笠石のやうなものも、やはりさうだといふことだ。
(注:舂く=夕日がまさに没しようとする。粗鬆=大ざっぱであらいさま。)

 1933年の出版だから、海石塔については従来の説を踏襲しているだけだが、それに加えて、「偕行社門内にある大きな燈籠の笠石」も朝鮮侵略時の戦利品であり、秀吉から利家に贈られたというのである。これは調べなければならない。

  

 海石塔の笠石の出所が那谷石(滝ヶ原石)ではないかという説に傾いていたが、略奪品が二つまで出てくれば、話は違ってくる。まずは、偕行社門内の笠石の所在を確認しなければならない。



 1884(M17)年に金沢偕行社が大手町に創設され、1909(M42)年に石引町(護国神社の横)に金沢城内の将校集会所を移築、本館を新築した。戦後は北陸財務局と金沢国税局が使用し、1967(S42)年に石川県が購入し、1970(S45)年に敷地内で後方に曳家し、1972(S47)年に隣地に石川県立能楽堂が移築されてきた。2020年に国立工芸館として現在地(県立美術館横)に再移転されている。

 7月12日、石川県立能楽堂に調査に向かった。裏庭には、五重塔(A)と燈籠2基(B、C)がひっそりと建っていた。燈籠はいずれも120㎝ほどの高さであり、いずれの笠石も大きいが、C(写真左)の方が古そうである。

  

 1970~72年の過程で、偕行社門内に置かれていた燈籠などが能楽堂の裏庭に移されたと考えられる。したがって、燈籠B、燈籠Cのいずれかか、両方ともが「偕行社門内にある大きな燈籠の笠石のやうなもの」であり、秀吉による朝鮮からの略奪物と考えられる。

金沢偕行社 建造物略年表
1884(M17)年 金沢偕行社創設(大手町)
1909(M42)年 石引町に建設(講堂として金沢城内の将校集会所を移築、本館を新築)
戦後      北陸財務局と金沢国税局が使用
1967(S42)年 県が建物を購入
1970(S45)年 現在の敷地内で曳家→郷土資料館(歴史博物館)の収蔵庫として使用
1972(S47)年 石川県立能楽堂を現在地に移築
2020(R2)年  国立工芸館として移築


ブログ『アジアと小松』
2022/12/14 秀吉の「朝鮮征伐」とはなにか
2022/12/03 海石塔「略奪論」の背景を探る
2022/10/23 兼六園の海石塔について(続)
2022/10/16 兼六園の海石塔について
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