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小松基地問題研究会

【資料】『原告李福〇さんについて』 弁護士 O・K 

2021年05月07日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】『原告李福〇さんについて』 弁護士 O・K 2006年12月 第14準備書面より

 本準備書面は、原告李福〇さんの本人尋問及び陳述書の内容を確認し、その意味するところを理解しようとするものである。

第1 はじめに
 既に、李福〇さんを初めとする原告らは、法廷で、それぞれの体験を赤裸々に語った。原告らの被害実態は、それらの供述で、十分に明確となった。
 幼い少女達に対する甘言と家族等に対する強要・脅迫により、祖国からはるかに遠い外国へ連れてこられ、そこで軍隊式の団体寮生活と長時間労働を強要された、その具体的事実が明らかとなった。
 この外形的事実だけで、既に、強制連行及び強制労働との評価に十分であろうが、原告らの供述内容を分析すると、被告らが行った強制連行・強制労働は、単純な強制以上と言うべきもの、原告らの心、人間としての心に、極めて大きな影響・圧力を与えたものであることが明らかとなる。
 以下、李福〇さんの供述を例に、被告らの行為が、いかに非人間的なもの、人間の尊厳を踏みにじるものであったかを明らかにするものである。

第2 李福〇さんの供述から
 1 十二歳の少女 
① 李福〇さんが、不二越へ来たのは、一九四四(昭和十九)年七月であり、当時十二歳の少女であった。家での生活振りは裕福かつ幸せな状況であった。
 李福〇さんだけではなく、女子挺身隊として、日本国内へ徴用された女子は、概ねこのような年齢層が中心であった。
②イ まず、当時は、現在に比べればより若い年齢で、社会に出たり、結婚したりしていたとしても、十二歳の少女を、遠い外国へ、しかも仕事をさせるために送り出したいと考える親がいるであろうか? 殆どの親が、そのような考えは持たないであろう。しかも、李福〇さんの場合は、十分に裕福な家であり、あえて幼い娘を日本へ送り出さなければならないような事情にはなかった。
 ロ 一九四四年七月という時期は、既に、日本の各地が米軍による空襲に曝され始めていた時期である(一九四二年四月十七日が東京初空襲で、四四年六月には学童疎開の閣議決定がなされ、さらに四四年七月のサイパン陥落以降はますます激しい空襲となり、四五年三月十日が東京大空襲である)。太平洋戦争の戦況は、既に絶望的な状況であった。
 一九一〇年の韓国併合という状態はあっても、韓国の普通の方々にとっては、日本本土は、遠い外国である(現に、李福〇さんらも、汽車で釜山まで来て、そこから船、下関からさらに汽車で富山へと来るのに何日も要したのである)。そして、上記のような戦況であった。李福〇さんの父親が、強硬に反対したのも当然であった。
 ハ この女子挺身隊の年齢層がこのような低年齢層であったことは、日本国内の女生徒らが動員された年齢層と比較して、明らかに幼い。また、日本人の女子勤労動員者らとは、年齢層だけではなく、仕事、食事、宿泊等全ての面で別であり、原告らは、明らかに日本人とは隔離され、かつ日本人に監視されている境遇であった。
 遠い外国から親と離れて動員される方が幼いということだけでも不合理であり、女子挺身隊への奴隷的労働の強制目的そしてそれを強いる民族的差別なくしては、理解できないものである。

 2 父親の反対と沈黙
 ① 李福〇さんが、学校の先生の「勧め」により、挺身隊に「応募」したことを聞いて、父親は激しく反対し、日本人の校長とも激しい口論となった。しかし、結局、父親は黙ってしまった。
 ②イ 父親が、幼い李福〇さんを日本に送り出すことに反対するのは、上記の通り、自然であろう。生活に困って、口減らしをしなければならないような状況でもないし、日本人との取引で稼いでいた父親には、様々な情報もあったであろう。しかも、父親は、家庭では韓国語の使用を頑なに守り、日本人の校長にも、激しく抗議するような人物であった。
 その人物が、最終的に黙ってしまったのである。しかも、李福〇さんが帰国後も李福○の不二越での生活等に触れることもなかったのである。
 ロ 父親に対する大きな力の働き掛けが推定される。それは、日本という国家そしてそれを背景とした日本人等であった。父親は、まだ十二歳という幼い娘を、危険かつ苦しい境遇へと手放さなければならなかったのである。李福〇さん一家全体のためとは言え、黙らざるを得なくなった父親の父親としての苦渋、韓国人として苦痛は、いかばかりであったことか。それ故、父親には、その後ずっと、沈黙しかなかったのである。

 3 生活の落差
 ① 李福〇さんの韓国での生活は、物質的にも精神的にも豊かなものであった。その十二歳の少女が、不二越で経験した生活は、寒く、ひもじく、肉体的にも過酷そして、後述する通り、監視下の生活であった。
 ② この甚だしい生活の落差とそれを甘受しなければならない屈辱、もともと抵抗することすら不可能ないたいけな少女達が、ただ従うしかない環境に突如としておかれたのである。その苦痛、精神的な抑圧状態は、後に触れるいくつもの場面でも認められるが、想像すらできない過酷なものであったろう。
 李福〇さんらが、解放後も一切不二越を語ることがなかったこと、六〇年後の今日、語り始めるや克明に語ることのできる事実は、上記苦痛・抑圧の大きさを示すとともに、甲A92号証「韓国人強制労働、性暴力被害者におけるPTSDの診断と考察」にも明らかな通り、大きなPTSDが認められるというべきである。

 4 強制労働
 ① 十二歳の少女が、大きな機械の前で、しかも小さいために台に乗って、慣れないそして危険な、重量のある製品を削る等の仕事に追われる、その事実だけで悲惨である。
 さらに李福〇さんの仕事に関する供述中、注目されるべきは、仕事の終了形態である。それは、定時になって、それぞれが仕事を切り上げるというものではない。工場の責任者か誰かが、元電源かなにかを切って、工作機械が停止することで、仕事が終了するのである。
 ② これは、明らかに他律的な就業状況である。常に、仕事状態を監視する班長が見回っていたこともさることながら、機械の前の台に立たされた少女は、機械が止まってくれるまで、ただひたすら仕事を続けなければならなかったのである。単なる機械の一部品だったのである。非人間的な強制労働以外のなにものでもない。
 ③ 昼食休憩時間の不存在・昼食そのもののひどさはともかくとしても、さらに非人間的なところは、生理現象であるトイレへ行くことを我慢せざるを得なかったという事実である。そして、仕事中は、トイレへ行かない、行かなくとも大丈夫なような身体になったというのである。
 仕事場から離れてはいけない、離れるといい顔をされないからいやだという抑圧が、少女達をして、自然な生理に逆らうような体質にまで追い込んだのである。物理的な強制というよりは、精神的な抑圧が、少女達自身の意識下で生理現象まで順応させてしまうのである。
 ④ 拉致・監禁事件に見られるように、一旦、植えつけてしまえば、鍵のない状態でも逃げる意欲も出なければ、肉体さえ、逃走を拒否する状態にまでなり得る。精神的にも肉体的にも未発達の幼い少女達だからこそ、そして見たこともなかった異国の環境だからこそ、少女達は、逃げることも抵抗することもなく、唯々諾々と従うだけの生活に甘んじざるを得なかったのである。

 5 寮生活
 ① 寮における生活が、やはり寒くひもじいものであったことは既に明らかとなっている。また、軍隊式生活で常に点呼されること、寮の構造そのものが少女達を監視できるものであったことも明らかである。それ以上に、ここでも非人間的な精神的抑圧が見られる。それは、韓国語の禁止とスパイ活動というか告げ口の慫慂である。
 ② 少女達が、少女達同士でも韓国語で話すことを禁止されるのは、単なる皇民化策ではない。韓国語が不得手な日本人監視役の目を盗ませないためであり、少女達相互間での監視要求とともに、極めて陰険かつ重い精神的な抑圧を掛けていたものというべきである。寮生活は、物理的な監禁状態でもあったし、それ以上に精神的な監禁抑圧状態であったのである。
 李福〇さんが、最も辛かったことの一つとして、このことを挙げるのは、まさに被告らが、少女達を精神的に支配しようとし、それが少女達の人間としての精神に大きな苦痛を与えたことを示すものである。

 6 一時帰国の沈黙等
 ① 李福〇さんは、一九四五年七月、一旦、韓国へ帰国し、家へも戻った。しかし、李福〇さんは、家へ戻ったにも拘らず、うれしくなかったというのである。母親の手作りのごちそうにも拘らず、食べることができなかったというのである。また、不二越の話は、李福〇さん本人からも家族からも一切話されることがなかったというのである。
 十三歳の少女が、一年振りに遠い日本、しかも過酷な労働、ひもじい食事状態からも解放されて帰ってきたのに、大喜びもせず、母親の料理すら受け付けなかったというのである。その理由は、また不二越へ戻らなければならないと思っていたからだと言うのである。
 ② この事実は、如何に、少女達に対する監禁・強制が、少女達の骨の髄まで染み込んでいたかを表わす事実であり、不二越そして日本政府が、如何に少女達の心と身体に対し、過酷な仕打ちを加え、少女達を精神的に圧迫し、支配しきっていたかを示すものである。
 ③ 四五年八月、日本の敗戦で、少女達は、そのまま解放されたのであるが、その後も少女達は沈黙を続ける。家族も沈黙を続ける。そして、戦後六〇年経った現在でも、少女達には、明らかなPTSD症状が見られるのも、当時の精神的圧迫・支配の過酷さが、根本的な原因というべきであろう。

 7 解放後の沈黙
 ① 少女達は、日本の敗戦による解放後、不二越への挺身隊のことを一切話すことがなかった。一部の少女だけではない。そろいも揃って、ほぼ全員がそうなのである。そして、裁判を決意した以降は、せき止められたものが一挙に流れ出すように、六〇年の歳月を一足飛びに、極めて具体的な証言を、皆が語るのである。
 ② これも少女達への支配の徹底ぶりを明確にするものである。また、少女達自身だけではなく、その家族にとっても不二越の話はタブーであった。少女達の傷の大きさを家族においても深刻に受け止めざるを得ない状況だったのである。
 ③ この沈黙の社会的要因として、挺身隊と軍隊慰安婦が同視されるような状況もあったと指摘されている。そのような要因も否定できないと思われるが、一面、挺身隊の少女達への肉体的・精神的な支配・圧迫は、慰安婦という状態にも匹敵する精神的な被害でもあったというべきである。
 そして、何よりも、少女達そして家族は、挺身隊そのものの大きな傷、慰めあうことすらできないほどの大きな傷に、戦後、今日までずっと継続的な苦痛を耐えてきたのであるが、それはさらに慰安婦と同視されるかもしれないという更なる苦痛を加えられた状態であり、かつそれが戦後六〇年間、ずっと継続してきたのである。
 日本軍の軍隊慰安婦特に中国人や韓国人慰安婦問題は、まさに日本政府が積極的に作り出した非人道的虐待であった。それが、同種の強制下にあった挺身隊の少女達に対しても、更なる苦痛を与えたのである。

第3 反対尋問における中断等
  李福〇さんに対する被告側からの反対尋問は、ほぼ本人尋問調書記載の通りであるが、そこに記載されなかったものとして、概ね以下のようなやり取りがあり、法廷の混乱、李福〇さんの興奮等による尋問中断があった。
 被告「国民学校に入学した当時のことを伺います。あなたの陳述書では、韓国名が記載されていますが、当時の呼び方は違いますね。あなたの当時の国籍は何ですか」
 被告代理人のこの最初の質問の段階で、李福〇さん本人も相当に表情をこわばらせ、傍聴席にも、微妙な反応の波がざわめいた。
 これに対して、李福〇さんは、精一杯の表情、極めて重い感じで、「当時は、創氏改名で木村福実と名乗っていました」と回答した。
 続いて被告代理人からの質問が続いた。「当時は、韓国、韓国人とは言っていなかったのではないですか」
 李福〇さんは、明らかに憤慨というか興奮した状態となり、やっとのことで、「どうしてそんなことを聞くのですか」と聞き返した。同時に、傍聴席からは「やめろ」等の抗議の言葉が飛び、騒然となった。
 裁判所が傍聴席を鎮めた後、被告代理人からの次のような質問が続いた。「当時は、自分の事を朝鮮人と言っていませんでしたか」。
 傍聴席は、またも騒然としたほか、李福〇さんも、愕然とするというか、あまりの憤慨のため、言葉も出ないような状態となった。
 裁判長も、被告代理人に対し、その質問を回避するよう求めるとともに、原告代理人からの要望により、尋問は一旦中止となり、休廷となった。
 休廷時、原告代理人のO・Kらは、別室で休む李福〇さんと話そうとしたが、相当に興奮し、言葉も掛けにくい状態であった。
 そして、尋問再開時、原告代理人O・Kは、李福〇さんに対し、「先ほどの被告代理人の質問、特に、朝鮮人という言葉に差別的なものを感じたからですか」と尋ねて、被告代理人の注意を喚起するともに、李福〇さんが「そうだ」と応えることで落ち着くように配慮したのであった。

 この経過は、本件の背景そして被告らの違法行為の本質また原告達の心情を理解するためには、極めて重要なできごとである。
 ① 被告代理人が、どのような意図で、このような質問をしたか不明であるが、仮に、原告達も同じ日本人として、他の日本人労働者(勤労隊)と同じ扱いをしたという被告会社の主張を明らかにしようとするのであれば、既に、そのような事実のなかったことは客観的な事実として明らかになっている。
 「朝鮮・朝鮮人」というような言葉を使用して差別的な意味合いを持たせてきたのが、日本社会である。被告代理人の質問は、反対尋問のテクニックとして、敢えて差別的用語を使用することで、李福〇さんの心理をかく乱しようとしたのかもしれないが、却って、被告側に根強い朝鮮・朝鮮人差別感が残っていることを図らずも吐露してしまったというべきである。
 ② それ以上に、注目しなければならないのが、この被告代理人の質問が、李福〇さん本人そして原告達さらには傍聴席を埋めていた関係者ら(韓国籍、北朝鮮籍の方々も多い)に、どういう感情を呼び起こしたのか、李福〇さんそして原告達の、あのときの反応が、何故、あのような反応なのかである。

 即ち、本件を理解するためにも必要なことであるが、原告ら少女達の挺身隊の強制連行が実行されたのは、挺身隊という一現象、単に、一九四四年頃の一事象ではないということである。
 ① 少なくとも、一九一〇年の韓国併合以降、それに伴う皇民化政策等の不合理な植民地政策、それに対する韓国人民の執拗な抵抗運動の歴史が存在する。一九四五年八月の日本の敗戦を「解放」と位置づけ、それまでの苛烈な植民地搾取とそれに対する抵抗運動の尊さ、そこで流された血の一滴をも忘れないという韓国国民総体の意思は、かの地の独立記念館等のメモリアル施設等にも明らかである。
 ② 一九三二年九月一日の関東大震災における朝鮮人暴動デマによる大虐殺にもある通り、植民地の住民を、その数千年の歴史・文化を否定して、日本名に改名させ、日本語を強制するなど、そこには、動かしがたい蔑視が存在しており、それを強制された韓国の方々には、動かしがたい民族的差別が根付いているのである。
 つい最近まで、日本の音楽や演劇の韓国公演は禁止されていた。文化は、それほどまでに人間として、民族として、その自主・独立を尊重される一方、それへの文化的侵襲は、許しがたい行為なのであり、それを強制されたが故の、今日に至るまでの文化状況でもあったのである。
 ③ そして、日本政府と韓国政府による日韓協定が結ばれたことがあるにも拘らず、韓国では、この女子挺身隊に対する調査と歴史的な決着を求めて、政府機関である「日帝強占下強制労働真相糾明委員会」が組織され、活発な活動が行われている。
 ④ 遡れば、秀吉時代やさらに神功皇后の話にまで遡る遥かな歴史を背景として、特に韓国併合以降の歴史を背景として、李福〇さんら少女達への挺身隊強制連行は存在したのであり、その「強制」の事実は、戦後六〇年を経過した現在まで、未解明なまま、歴史の検証を経ないまま放置され、そして原告らという個人に対し、大きな負担を強いているのである。

 既に指摘した通り、李福〇さんら挺身隊少女に対する物理的強制、さらにそれを上回る精神的強制は、被告らに染み付いた民族的蔑視を根底にはらみながら、粛々と実行されたのである。
 もともと抵抗もできない幼い李福〇さんら少女達は、その強制を受け入れるしかなく、それ故にこそ、少女達の心の傷は、底知れないくらい深く、暗く、刻まれたのである。
 それが、少女達の戦後の沈黙であり、六〇年後の熱い訴えに繋がっている。
 被告代理人の質問は、李福〇さんら原告の民族的自尊心を傷つけるとともに、民族的差別を根底とした被告らの違法行為による李福〇さんらの深く、暗い精神的苦痛を呼び覚ました。息ができなくなるような重く・苦しい緊張が、李福〇さんを襲った。
 被告代理人の質問とそれに対する李福〇さんそして原告らの興奮は、図らずも、被告らの違法行為の根深さと、原告らの苦痛しかも強制連行当時から六〇年もの間、いまだに続く苦痛を明らかにしたのである。

 原告代理人O・Kによる原告「李福〇さん」に対する質問は、「あなたの名前ですが、イポクシルという音でいいですか」というもので始まった。
 人の名前を正しく表記し、正しく発音(外国人によるという限界はあるとしても)することは、その人を一人の人間として認め、その人格、人生そして民族の尊厳を認めるものである。そうすることで初めて、人と人との対等な関係、お互いにその人格を尊重し、歴史と文化を理解しあう関係が築かれる。原告李福〇さんは、大韓民国に住むイポクシルという一人間として、被告らによる非人間的行為、少々の時間などでは消え去ることなどあり得ない違法行為を糾弾し、人間の尊厳を主張しているものである。
以上


 第二次不二越訴訟では、多くの弁護士に真剣に取り組んでいただいた。この準備書面も、裁判準備の過程で、弁護団と原告が深い精神的結びつきを形成していたことを物語っていると思います。
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