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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

【資料】2001.8.20「第2次不二越訴訟準備のために」

2021年04月06日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】2001.8.20「第2次不二越訴訟準備のために」

(1)不二越闘争とは
 不二越訴訟は日帝の植民地支配と戦争責任を追及する江原道訴訟(1991年提訴、2001年9月25日結審、東京)を出発点としている。日帝の戦争責任を追及する江原道裁判から、不二越に強制連行・強制労働させられた3人の原告を独立させて、不二越の企業責任を追及する裁判として始まった。「強制連行・強制労働」「未払い賃金」「労災補償」などが証拠上はっきりしている不二越強制連行部分を取り出して、絶対に「勝利」を取り、そこからこじ開け、全体化していく闘いとして始めたのである。金景錫さんにとって、不二越訴訟は日帝の植民地支配と戦争責任を追及する江原道闘争の一構成部分である。
 対企業戦後補償裁判としての不二越訴訟は強制連行・強制労働を推進し、そのことによって莫大な利益を蓄積し、戦後に生き延びた不二越の戦争責任を追及し、「未払い賃金」などを要求する闘いである。金景錫という人格を通して、戦前・戦中の朝鮮人労働者の労働運動・争議との連続性を持ち、ILOに提訴(都労連、民主労総、韓国労総)し、労働者性の濃厚な実態と意識と目的をも併せ持った闘いである。

(2)経過
<1>江原道訴訟(1991年)から不二越訴訟へ

 金景錫さんは日帝の戦争責任、民族差別と植民地支配、強制連行と闘う江原道訴訟の一部から、日本鋼管・NKK(拷問による障害-補償要求)・不二越(未払い賃金を払え、切断された指の補償)を取り出して、確実に勝利を確保するために提訴した。
 不二越闘争を理解するためには、まづは、太平洋戦争犠牲者韓国遺族会(春川)・原告団の考え、提訴以前の闘いについて理解することが不可欠である。金景錫さんは次のように語っている。(要約)
 「すでに、日本資本をはじめとしてIMFなどによる韓国への経済侵略は全面的に行なわれている。メヒャンニ米軍基地や沖縄米軍基地では、ガイドライン・有事立法の前に、優秀な攻撃機・偵察機や上陸用艦船をそろえて、実際に戦争をやる訓練をおこなっている。後は、韓国・朝鮮に向かうだけになっている。金大中政権は表面上は文民政権として、南北交流を進めているが、弾圧政権としては一番である。これからは、南北の民衆にとっては、第2の独立運動になるだろう。民族の独立とは、『民族の統一国家』を示す。『統一』という意味もあり、抑圧されてきた民族の『解放』という意味もある。私は、過去の侵略と植民地の歴史に反対してきたわが民族の『独立の精神と運動』の継承者として、第2の独立運動と言っている」。
 「私は『戦時下NKKの独立運動の英雄』として、勲章と年金などの表彰を受けるのが普通であるが、安全企画部は『特高月報記載の労働運動家=アカ』という見方をしていて、おこなわない。そして朴正煕政権下での非公然活動にも注目している。」
 「太平洋戦争犠牲者遺族会はどこも、貧困な会員を集めて、わずかな会費を集めているだけで、政権への批判やましてや日本の政府や企業を相手に闘おうとしていない。それで、江原道を本拠にして、別組織をつくった。共同行動もしているが、全体からは異質に見られている。太平洋戦争犠牲者遺族会・中央会には政府から少し援助が出ている。私に本部の会長にという推薦があったが、政府の援助を受けながら政府の政策に反対することはできないと断った。」
 「私が老人でなければ、民主労総で闘う。私が行動できた時代は、日帝に強制連行され、拷問で『障害者』になり、まともな仕事に就けなかった。政治活動に入るや、軍事戒厳令のもとで、今も言えないような非公然活動が続いた。」
 「不二越訴訟は、このような問題意識をもっている金景錫さんによって指導され、韓国春川では、機動隊と対峙して、森喜朗弾劾(報告集の裏表紙)、石原弾劾、教科書闘争、靖国闘争を闘っている。

<2>富山地裁での闘い(1992年~)
 不二越訴訟支援の母体は「支援する会」であった。彼らは裁判所の心証を良くするために、闘いを法廷に限定した。その方針は、始めから金景錫さんと原告団の闘い方と対立した。
 提訴前の不二越訪問に際して、金景錫さんと原告3名は構内で「不二越は未払い貸金を出せ―少女達の血を吸った不二越の人間性を問う」「強制連行、重労働、給料強奪、不二越は恥を知れ!」の横断幕を掲げた。「支援する会」はこれを快く思わなかった。
 当時の我々は傍聴という形でしかかかわれず、2人が支援する会会員になっていたが、会議に出席できる程度だった。
 沢田さんとの関係が深まり、入管闘争戦線を北陸で作る立場から、不二越にかかわった。そのころ、参政権訴訟を闘っている福井の李鎮哲さんと接触したり、参政権訴訟を支援している金沢のTさんたちとも接触した。
 同時に、不二越門前で、労働者に呼びかけるビラまき・署名などをおこなった。これは不二越大量リストラへの批判を中心としておこない、直接の裁判支援とは相対的に別のものである。
 1994年、村山首相の「民間基金」構想が発表され、金景錫さん、李鎮哲さん、Tさんたちは明確に反対したが、「支援する会」は反対を鮮明にしなかった。1995年、戦後50年間題で富山大学大学祭企画に金景錫さんをお招きした。金景錫さんは富大キャンパスの立て看板を見て歓喜し、主催者の基調を見て、「自分の考えと同じ」と絶賛した。すでに、「支援する会」のなかに、水間さん、堀田さん、真宗大谷派僧侶などの左派的人士が存在していた。(「裁判以外何もしない」「本気か疑わしい」という批判)
 金景錫さんは、1審判決の前から、「支援する会の方針では控訴審はやれない。単独でやるしかない」という決意をしていた。

<3>第1審判決と翌日(1996年7月)―金景錫さんの転換
 反動判決にたいして、「支援する会」は判決速報として「日本の闇はまだ暗い」という空論的抽象的幕を出し、直後の集会すら開かなかった。弁護団は、事実認定がほぼ認られたことをもって評価する声明を出した。
 これにたいして金景錫さんと原告は韓国で準備してきた横断幕(100年訴訟団宣言)を裁所前で広げた。原告団は「支援する会」と違う方針を公然と選択したことが鮮明となった瞬間であった。
 翌日、原告団は不二越を訪問し、李さんが正門から突入して、判決に抗議した。控訴審闘争の構図が基本的に決まった。翌日、学生も原告団に連帯して不二越門前闘争をおこった。
 私たちは第1審判決の前日に「北陸連絡会」を結成し、北陸の入管闘争陣形構築をめざして不二越闘争を闘う準備をしていた。この過程で当初から金景錫さんとの関係があった水間さんを仲介して、我々と金景錫さんとの関係が強まった。

<4>控訴審闘争―金景錫さんとの共同闘争が始まった。
・不二越正門での実力闘争―未払い賃金の社会問題化
・厚生年金闘争(「支援する会」がネグレクトしていた)
・株主闘争(「支援する会」がネグレクトしていた)
・全国集会、デモ―頂点は正門前ハンスト(7月)
・行政、財界への申し入れ
・尹奉吉義士の墓参、
・全港湾七尾、宗教団体などとの連帯と財政確保
 北陸連絡会がセンターとなり、闘いのなかでこれら一切を意志一致しながら進んだ。訴訟については依然として「支援する会」と弁護団主導だったが、彼らはもはや全くやる気がなく財政も出さなくなった。闘いの主軸は完全に我々に移った。高裁のある金沢や福井からの支援実体が形成された。途中から「不二越訴訟」ではなく、「不二越闘争」と表現され、金さんと原告を主体とし、不二越門前を舞台にし、不二越資本を追及するものだった。天皇お召し艦NACHIブランドを持つ戦前戦後を通した侵略企業としての本質が暴かれた。

<5>控訴審判決(1998年)-最高裁和解(2000年7月)
 反動判決に対して、法廷内では金さんや支援の怒号が飛び交った。我々は構内で横断幕を出し、デモで抗議の意志を示した。
・金景錫さんは国際舞台へ-ILO闘争、カリフォルニア提訴の準備
・英語とハングルで全世界の不二越支社に対する抗議FAX
・株主闘争-2000年2月株主総会の直後に、不二越より「和解の申し出」
 我々はこの時期、ガイドライン闘争に集中(金景錫さんは了解)し、「平和をつくる富山連絡会」の陣形を作ることに全力を挙げた。日帝のアジア再侵略情勢にたいして、日本労働者人民の階級的決起を本格的に作り出すことが求められていた。不二越を勝利させるためにも、これまでを超えた、労組との結合や市民運動の拡大を必要としていたからである。

(3)総括
 第1に、不二越訴訟は日帝による朝鮮人民にたいする民族抑圧(植民地化、侵略戦争)の問題であるととらえて闘い抜いた。日帝は1931年柳条湖事件、1937年盧溝橋事件、1943年日米開戦へと突き進んだ。敗戦が濃くなるなかで、絶望的な労働力政策として、1943年に崔さん、1944年に李さん、高さんを植民地朝鮮から連行した。日帝は植民地の10代の少女を甘言で連行し、言葉、名前、習慣を奪い、寮に監禁して、労働を強制したのである。
 金景錫さんを先頭にした原告団は日帝に対する民族的怒りをもとに、不二越社員手帳を提訴時までしっかりと握りしめ、「第2の独立運動」として、日帝打倒民族解放(統一)をかけて、不退転の決意で不二越闘争を闘った。原告の日帝による民族差別と抑圧にたいする反日的執念の勝利である。
 第2に、我々も、原告たちの「取り戻せない人生を返せ」という、深い悲しみと怒りに心底から連帯し、目帝打倒の立場から不二越闘争にかかわった。日本の労働者人民が、差別・排外主義にとらわれている自己を解放し、克服するためにも、不二越闘争に連帯し、日帝打倒まで貫かねばならないという立場に立ち切ったのである。。
 「支援する会」は日帝打倒の立場に立たず、不二越闘争を法廷内で、裁判官にお願いする運動に切り縮めたために、一審最終段階で原告団から信頼を失った。「支援する会」は弾圧を恐れて、原告団の不二越弾劾闘争を忌避した。
 第1審の最終局面で、日帝を打倒するという立場にたつ我々が原告団のパートナーとして登場し、控訴審を全力で闘い、ガイドライン闘争のまっただなかで「和解の申し出」を引き出したのである。
 第3に、我々は主体的力量を云々せず、「闘いのなかから学び、学びながら闘う」「不十分でも、不完全でも、闘う以外にない」という精神に立ち、韓国で反日闘争の先頭に立ち、戦時下の労働運動を闘い抜いた金景錫さんや原告団との連帯を、不二越闘争のなかで実現しようとした。日帝のアジア再侵略のもとで、被侵略国の内部で闘う人民といかに係わるのかが問われ、「7・7自己批判」の立場に立って、その実践的具体的課題である不二越闘争を闘いぬき、不二越に「和解」を強いたのである。
 第4に、闘うアジア人民との連帯を労働者階級自身の闘いとして実現するために、不二越闘争を労働組合のなかにもち込むことを追求した。「奴隷労働」「未払い賃金」問題として、労働者の普遍的な課題として提起し、全農林北陸地本、全港湾七尾、元高同地区労などとの連帯が形成された。国労弁護団・自治労顧問弁護士を勤める山田弁護士との関係も強化され、2000年10月には、「4党合意反対―国労支援集会」を実現した。(不二越労組は富山県内の最大労組でありながら、連合下の労勤組合として、テコでも動かなかった。1審から北陸労組交流センターは不二越労働者に不二越訴訟への協力を訴えるビラをまき続けた)
 第5に、金景錫さんたちは、1991年に始めた国家責任を追及する江原道訴訟の一部として、不二越に連行された労働者を原告に、1992年に不二越企業を被告にして訴訟を始めた。「未払い賃金の支払いを求める」という訴訟上有利なところで、最弱の還としての不二越資本をターゲットにして攻撃したことである。
 しかも、法廷闘争の枠にとらわれず、不二越こそ交渉の相手であり、要求を実現する相手であるとして、不二越本社門前を戦場に設定したことである。元不二越社員として、本社門前に立つ権利があり、警察権力も介入しにくい有利な場所である。裁判闘争、株主運動、厚生年金闘争、富山県・商工会議所・不二越社長宅への申し入れは門前闘争に合法性を与えた。

(4)「最高裁和解」の勝利性の確認
 第1に、1992年から始まった不二越闘争がついに不二越を追いつめ、交渉の場に引き出したこと。主導権は原告団がもっていた。
 第2に、不二越資本にとって、「和解の申し出」は敗北宣言以外の何物でもない。不二越資本延命の道はアジア―韓国進出以外になく、そのために不二越闘争を「終結」せざるを得ないと判断し、「和解(解決金支払)の申し出」によって、不二越にたいする戦後補償要求闘争に幕を引くことが目的であった。
 第3に、最高裁(日帝)にとっては、日帝・企業のアジア再侵略の前に立ちはだかる、元不二越労働者(太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会)による戦争責任追及・戦後補償要求を「和解」という形で除去するという判断を示した(日帝にとっての一つのアジア再侵略路線である)。
 文面上「謝罪性」は皆無であるが、「判決の事実摘示の通り」と書かれているとおり、最高裁が国家意思として、強制連行・強制労働の不正義性を認め、調停和解として、「和解調書」を作成した。
 第4に、第1・2審では「時効」によって切り捨てられたが、最高裁「和解」によって時効の壁を突破したこと。
 第5に、原告にとっては、資本や最高裁の意図がどうであれ、民族差別に基づいた強制連行・強制労働、未払い賃金、労災にたいする「解決金」を現実に勝ち取った。「解決金」は原告たちの生活を改善している。
 第6に、それは「最高裁調停」という形をとることによって、他の係争中の裁判や対企業交渉に大きな影響を与えている。
 第7に、これは最も重要なことだが、原告全員が生きて、「勝利和解」を手にしたことである。
(注)「本質的に資本との間では和解がない」という理由で、今回の「和解」の勝利性を低めてはならない。「謝罪」がないことを理由に、和解の限界を云々することは誤りである。「和解の限界」は支援の「財政力の限界」と不二越を追いつめる「政治力の不足」という「主体の側の問題」によって生じている。

(5)第2次不二越闘争へ
 「和解の申し出」当初の不二越の姿勢は「謝罪文書の検討、ハングルと日本語の碑建設、係争中及び韓国で判明している元不二越従業員への一括解決」などが出ていたが、社内反対派の台頭で後退した。最高裁和解交渉に臨むに当たって、原告団、弁護団、北陸連絡会は「第2次がより大きな構図のなかで始まる」ことを確認して交渉を開始した。
 力関係上、原告団は謝罪文・碑文を積み残さざるをえなかった。原告団が拒否した妥協的な謝罪文、碑文の交渉を、第2次闘争のなかで「違う陣形」で闘うことを確認している。「声明」は双方のかけひきの結果の「合作文書」であり、和解後に双方から破棄されることを前提にして作成された。「和解」直後の記者会見や、不二越社長は「謝罪ではない」と繰り返し強調して、「声明」を破りすてた。最高裁での「和解」は運動の終了宣言ではなく、一時的な「休戦」であり、本格的な闘いののろしである。

<第2次闘争の10の理由>
 金景錫さんから第2次闘争の方針が提起された。第2次闘争にむけて、これらの要求を大衆的に、わかりやすい文章に整理し、呼びかけ文を作成し、打ち出すことにした。
①7人でおしまいではない。まだ1500人が残されている。
②謝罪を表明する記念碑を造れ。
③久しぶりに不二越を訪問した元社員に対して、人間的な扱いをせず、門前払いをしたことを謝罪せよ。
④強制連行・強制労働、未払い賃金、労災の請求をしてからの7年間の苦しみにたいする謝罪をせよ。
⑤最高裁「和解」のその日の記者会見で、不二越社長が「謝罪ではない」と「和解」を破ったことを謝罪せよ。
⑥「未払い賃金がなかった」という主張を撒回せよ。
⑦不二越社史に、原告団による執筆を認めよ。
⑧韓国に不二越強制連行・強制労働記念館をつくれ。
⑨株主総会で「アジアと共に」と主張しながら、実際には踏みにじってきたことを謝罪せよ。
⑩不二越は社会正義・企業倫理を守れ。

(6)付論-強制連行について
 強制連行・強制労働(奴隷労働)は社会が階級に分裂することによって始まった。それは氏族間の戦争によって加速され、奴隷制度を基本とする古代奴隷制社会を形成していった。日本でも例外ではなかった。
 資本主義の初期の段階では、略奪型の資本主義として、西欧ではアフリカの奴隷売買市場が成された。日本では、秀吉の朝鮮出兵によってたくさんの朝鮮人(農民など)が連行されたが、その後徳川の鎖国政策によって、海外からの強制連行はなかった。国内では、再建封建制社会を維持するために、労働力の移動は禁止されていた。
 明治維新後、急速な資本主義化のなかで、製糸資本が豊富な労働力を求めて、東北地方の女性労働力を強制連行まがいのやりかたで調達した(野麦峠)。個別資本による直接的な強制連行(=奴隷売買)として行なわれた。
 帝国主義段階に入る過程で、台湾・朝鮮の植民地経営、侵略戦争のなかで、強制連行・強制労働が国家が介在しておこなわれるようになった。植民地政策を貫徹するための朝鮮や中国東北部(満州)への移民も、国・民間が斡旋した一種の強制連行型植民政策である。それは植民地政策に基づく棄民政策でもある。
 朝鮮に侵略した日本資本(土地会社)によって、土地を奪われた朝鮮の農民は中国東北部や日本に移動せざるを得なかった。さらに第2次世界大戦突入後、戦線の野放図な拡大によって、徴兵の範囲を拡大し、国内では労働力不足が生じた。侵略戦争を遂行し、資本の自己実現(資本の増殖)のために、労働力不足を解決するものとして、植民地からの強制連行が強行された。
 それは日帝の国独資政策として、軍隊、行政、警察、教育機関を総動員して、「官斡旋」「募集」「徴用」などの方法で、中国人・朝鮮人労働者を強制連行した。その上で、国は侵略戦争遂行上、労働力を必要とする企業(重化学工業や鉱業)に優先的に配分した。この政策のもとで、個別貿本はそれぞれの資本としての生き残り、資本の自己実現のための強制連行・強制労働を受け入れたのである。強制連行・強制労働は、国家を媒介にしているが、本質的に総資本の意志と個別資本の意志が貫かれたのであり、国家の責任にのみ解消できない総資本・個別資本の責任も存在するのである。
 不二越は、侵略戦争に役立つ国策会社として、国から認定され、強制連行による朝鮮人労働力の配分を優遇され、1500余の労働者を無給で使用し、戦時下において急成長し、戦後に生き残った資本である。不二越への強制連行・強制労働の責任の所在は日帝と不二越資本にあり、不二越闘争は日帝と不二越資本の強制連行責任を追及する闘いである。
(企業は「戦争責任は国家にあり、企業も民衆も同じ被害者である」と主張している。しかし、企業は徴兵で減少した人員や増産のために、朝鮮・中国などの植民地から勤労挺身隊、徴用、戦争捕虜からの動員を繰り返し要請している。国家と企業は共犯関係にある)


 備考:第2次不二越訴訟の準備過程(2000年頃)は、責任者がセクハラ事件で告発され、戦線を離脱した。国際的信義に係わる闘争課題であり、中断は許されず、小松闘争や聖戦大碑闘争の渦中にあったが、急遽、第2次不二越強制連行訴訟の準備に加わった。本論考は、そのための最初の準備論考である。
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