「北國新聞」第2代社長林政文について
『宮崎稻天』(榎本泰子著2013年)を読むと、稻天(桃中軒牛右衛門)には「信州快男子林政文」という演目があり、林政文が「北國新聞」の第2代社長であることが記されていた。「北國新聞」の社長に、宮崎稻天から絶賛評価されている人物がいるとは、意外に思い調べてみた。
林政文は宮崎稻天や孫文と親交があり、フィリピン革命にもかかわった人物ながら、「金沢ふるさと偉人館」からも評価されていない。現在の「北國新聞」はウィキペディアからも「保守的傾向が強い」と評価され、巷では「森喜朗新聞」とも呼ばれているがゆえに、第2代社長であっても、林政文を「偉人」として押し出すことに躊躇しているのだろうか。
林政文の経歴
それでは、林政文とはどのような人物だったのだろうか。『林政文と比島』(北國新聞社1942年)、『布引丸』(木村毅著1981年)、『北国文華』(41号2009年)を参考にして解析する。
林政文は1869年に長野県松本で生まれ、兄に初代「北國新聞」社長の赤羽萬次郎がいる。8歳の時に林政道家の養子になり、1887年一橋の高等商業学校に入り、「昇格問題」で十数人の学生と行動を共にして、退学した。1894年に『佐久間象山』を執筆し、大隈重信から清国の商業視察を嘱託され上海に渡った。日清戦争が勃発し、帰国したが、東京毎日新聞の従軍記者となって再び中国に渡った。
養父林政道の病気で松本に帰り、その後東京に転居して、台湾興業会社を興して、台湾開発(侵略)に乗り出した。1898年「北國新聞」社長の赤羽萬次郎が死去し、その後を継いで、第2代社長となった。
1898年、フィリピン革命政府はM.ポンセ、F.リチャウコを日本に派遣して、武器、弾薬の調達と日本の支援獲得に当たらせた。1899年、孫文の紹介で宮崎滔天、犬養毅らの日本人アジア主義者の協力で、陸軍参謀本部から中古の村田銃などの払下げを受けた。銃14000挺、弾薬500万発を積んだ「布引丸」をフィリピンに送り込もうとしたが、長崎を出港した後、嵐に遭い、林政文らは救命ボートで脱出したが、生きて帰ることができなかった。
対等連携志向のアジア主義
1942年日米開戦直後に発行された『林政文と比島』では、フィリピン人民をスペインやアメリカから解放し、「大東亜建設を企図して比島に赴かんとせる」と、40年前の林政文に絶大な賛辞を送っている。
確かに、武器弾薬や船舶(『布引丸』)の準備に、中村弥六(第1次大隈内閣の司法次官)、陸軍大尉原禎、砲兵少尉西内真鐵がかかわっており、しかも武器弾薬は軍からの払い下げ品であり、当時の政権とも相有無通じていた。
日本政府はアメリカのフィリピン介入に対して「局外中立」の立場を表明していたが、日本の軍部はフィリピン革命に介入する機会をうかがっていた。表立っては動くことはできなかったが、孫文や稻天をも利用して帝国主義的な勢力拡大を狙っていたのである。
宮崎稻天や林政文の「アジア主義」は西洋列強のアジア侵略に対して、日本と中国・朝鮮との対等提携指向をめざすものであったが、江華島事件や日清戦争で、元来のアジア主義の理念は崩壊した。
宮崎稻天や林政文らの「アジア主義」はあくまでも、元来のアジアとの平和協調路線の延長線上にあり、フィリピン革命のために、武器弾薬を準備し、布引丸は嵐の中を出帆し、沈没したのである。
林政文を『林政文と比島』のように、侵略戦争の尖兵として描くか、アジアとの対等提携指向をめざす「革命家」として描くか、歴史的に見れば、両側面を持っていたのだろう。
『宮崎稻天』(榎本泰子著2013年)を読むと、稻天(桃中軒牛右衛門)には「信州快男子林政文」という演目があり、林政文が「北國新聞」の第2代社長であることが記されていた。「北國新聞」の社長に、宮崎稻天から絶賛評価されている人物がいるとは、意外に思い調べてみた。
林政文は宮崎稻天や孫文と親交があり、フィリピン革命にもかかわった人物ながら、「金沢ふるさと偉人館」からも評価されていない。現在の「北國新聞」はウィキペディアからも「保守的傾向が強い」と評価され、巷では「森喜朗新聞」とも呼ばれているがゆえに、第2代社長であっても、林政文を「偉人」として押し出すことに躊躇しているのだろうか。
林政文の経歴
それでは、林政文とはどのような人物だったのだろうか。『林政文と比島』(北國新聞社1942年)、『布引丸』(木村毅著1981年)、『北国文華』(41号2009年)を参考にして解析する。
林政文は1869年に長野県松本で生まれ、兄に初代「北國新聞」社長の赤羽萬次郎がいる。8歳の時に林政道家の養子になり、1887年一橋の高等商業学校に入り、「昇格問題」で十数人の学生と行動を共にして、退学した。1894年に『佐久間象山』を執筆し、大隈重信から清国の商業視察を嘱託され上海に渡った。日清戦争が勃発し、帰国したが、東京毎日新聞の従軍記者となって再び中国に渡った。
養父林政道の病気で松本に帰り、その後東京に転居して、台湾興業会社を興して、台湾開発(侵略)に乗り出した。1898年「北國新聞」社長の赤羽萬次郎が死去し、その後を継いで、第2代社長となった。
1898年、フィリピン革命政府はM.ポンセ、F.リチャウコを日本に派遣して、武器、弾薬の調達と日本の支援獲得に当たらせた。1899年、孫文の紹介で宮崎滔天、犬養毅らの日本人アジア主義者の協力で、陸軍参謀本部から中古の村田銃などの払下げを受けた。銃14000挺、弾薬500万発を積んだ「布引丸」をフィリピンに送り込もうとしたが、長崎を出港した後、嵐に遭い、林政文らは救命ボートで脱出したが、生きて帰ることができなかった。
対等連携志向のアジア主義
1942年日米開戦直後に発行された『林政文と比島』では、フィリピン人民をスペインやアメリカから解放し、「大東亜建設を企図して比島に赴かんとせる」と、40年前の林政文に絶大な賛辞を送っている。
確かに、武器弾薬や船舶(『布引丸』)の準備に、中村弥六(第1次大隈内閣の司法次官)、陸軍大尉原禎、砲兵少尉西内真鐵がかかわっており、しかも武器弾薬は軍からの払い下げ品であり、当時の政権とも相有無通じていた。
日本政府はアメリカのフィリピン介入に対して「局外中立」の立場を表明していたが、日本の軍部はフィリピン革命に介入する機会をうかがっていた。表立っては動くことはできなかったが、孫文や稻天をも利用して帝国主義的な勢力拡大を狙っていたのである。
宮崎稻天や林政文の「アジア主義」は西洋列強のアジア侵略に対して、日本と中国・朝鮮との対等提携指向をめざすものであったが、江華島事件や日清戦争で、元来のアジア主義の理念は崩壊した。
宮崎稻天や林政文らの「アジア主義」はあくまでも、元来のアジアとの平和協調路線の延長線上にあり、フィリピン革命のために、武器弾薬を準備し、布引丸は嵐の中を出帆し、沈没したのである。
林政文を『林政文と比島』のように、侵略戦争の尖兵として描くか、アジアとの対等提携指向をめざす「革命家」として描くか、歴史的に見れば、両側面を持っていたのだろう。