大西さんの「新聞の片隅に載ったニュースから(36)」です。 らくせき
07年秋の「大連立」構想 森、小沢両氏 事前に極秘会談(2012.7.14毎日新聞)
「07年秋、当時の福田康夫首相と小沢一郎民主党代表による「大連立」構想が表面化する前、
協議の前さばきで福田氏に近い森喜朗元首相が小澤氏と極秘会談し、連立政権の閣僚配分や
小沢氏の副総理就任を取り決めていたことを、渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長兼主筆が、
新著『反ポピュリズム論』(新潮新書)の中で明らかにした。
渡辺氏によると、同氏は福田氏から小沢氏との会談への同席を要請されたが固辞し、
首相の名代として森氏が、本会談の前に小沢氏と会談するよう勧めたという。
この結果、07年10月25日、東京都内のホテルのスイートルームで、森、小沢両氏の
会談が実現。最初、渡辺氏はホテル地下の和食料理屋で部下と2人で待機したが、
小沢氏に呼ばれて、2人の会談に加わったという。この席で「大連立政権」では
自民党10、民主党6、公明党1という閣僚配分や小沢氏が無任所の副総理として
入閣することが内々決まったという。しかし大連立は民主党内の反対で頓挫した。
また、同構想に関わった『小沢氏が非常に信頼を置いている元大物官僚』についても言及。
渡辺氏は『5年たった現在も(名を)明かすことはためらわれる』として『X氏』と
表記している。」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この記事を読んで早速「反ポピュリズム論」を買って読んでみました。渡辺氏は
「07年に大連立を仕掛けたのは、その年の7月の参議院選で自民党が大敗し、
衆参ねじれ国会になったので、このままでは日本の政冶は何も動かなくなると
思ったからだ」とこの本の中で述べています。
渡辺氏はこの他、1983年にロッキード事件の一審判決で田中角栄元首相が有罪となり、
同年12月の総選挙で自民党の獲得議席が過半数を割り、追加公認でどうにか過半数を
確保したが、このままでは危ないと思って当時の民社党の佐々木良作委員長に
自民党との連立をもちかけ、OKをとったこともこの本で明かしています。
この時渡辺氏はひそかに首相官邸の裏口から中曽根首相を訪ね、民社党が連立に応じると
伝えましたが、その少し前に新自由クラブに閣僚を一ポスト渡すことで自民党は新自由クラブと
連立を組むことが決まっていたので、渡辺工作は日の目を見ませんでした。
さらに1998年にロシア財政が債務不履行に陥り、世界的な金融危機になり、当時の小渕内閣が
苦境に陥りましたが、野中官房長官と料亭で会って小沢一郎党首率いる自由党と「自自連立」の
橋渡しをしたと、憂国の志士気取りで述べています。
また1959年に当時自民党の青年将校と呼ばれていた中曽根康弘氏が初入閣しますが、
渡辺氏は2000年に出版した「渡辺恒雄回顧録」で、私が大野伴睦自民党副総裁(当時)に
頼んで大臣にしてもらったのだとか、60年安保闘争のデモで東大生の樺美智子さんが
死亡した事件で政府が声明を出しましたが、「あの声明文は当時の椎名官房長官に
頼まれてオレが書いたのだ」と明かしています。ジャーナリズムは権力の見張り番
(watcher)といわれますが、渡辺氏は大新聞の最高権力者なのにwatcherがplayerに
なって得意になっているのはどうかと思います。
大西 五郎
07年秋の「大連立」構想 森、小沢両氏 事前に極秘会談(2012.7.14毎日新聞)
「07年秋、当時の福田康夫首相と小沢一郎民主党代表による「大連立」構想が表面化する前、
協議の前さばきで福田氏に近い森喜朗元首相が小澤氏と極秘会談し、連立政権の閣僚配分や
小沢氏の副総理就任を取り決めていたことを、渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長兼主筆が、
新著『反ポピュリズム論』(新潮新書)の中で明らかにした。
渡辺氏によると、同氏は福田氏から小沢氏との会談への同席を要請されたが固辞し、
首相の名代として森氏が、本会談の前に小沢氏と会談するよう勧めたという。
この結果、07年10月25日、東京都内のホテルのスイートルームで、森、小沢両氏の
会談が実現。最初、渡辺氏はホテル地下の和食料理屋で部下と2人で待機したが、
小沢氏に呼ばれて、2人の会談に加わったという。この席で「大連立政権」では
自民党10、民主党6、公明党1という閣僚配分や小沢氏が無任所の副総理として
入閣することが内々決まったという。しかし大連立は民主党内の反対で頓挫した。
また、同構想に関わった『小沢氏が非常に信頼を置いている元大物官僚』についても言及。
渡辺氏は『5年たった現在も(名を)明かすことはためらわれる』として『X氏』と
表記している。」
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この記事を読んで早速「反ポピュリズム論」を買って読んでみました。渡辺氏は
「07年に大連立を仕掛けたのは、その年の7月の参議院選で自民党が大敗し、
衆参ねじれ国会になったので、このままでは日本の政冶は何も動かなくなると
思ったからだ」とこの本の中で述べています。
渡辺氏はこの他、1983年にロッキード事件の一審判決で田中角栄元首相が有罪となり、
同年12月の総選挙で自民党の獲得議席が過半数を割り、追加公認でどうにか過半数を
確保したが、このままでは危ないと思って当時の民社党の佐々木良作委員長に
自民党との連立をもちかけ、OKをとったこともこの本で明かしています。
この時渡辺氏はひそかに首相官邸の裏口から中曽根首相を訪ね、民社党が連立に応じると
伝えましたが、その少し前に新自由クラブに閣僚を一ポスト渡すことで自民党は新自由クラブと
連立を組むことが決まっていたので、渡辺工作は日の目を見ませんでした。
さらに1998年にロシア財政が債務不履行に陥り、世界的な金融危機になり、当時の小渕内閣が
苦境に陥りましたが、野中官房長官と料亭で会って小沢一郎党首率いる自由党と「自自連立」の
橋渡しをしたと、憂国の志士気取りで述べています。
また1959年に当時自民党の青年将校と呼ばれていた中曽根康弘氏が初入閣しますが、
渡辺氏は2000年に出版した「渡辺恒雄回顧録」で、私が大野伴睦自民党副総裁(当時)に
頼んで大臣にしてもらったのだとか、60年安保闘争のデモで東大生の樺美智子さんが
死亡した事件で政府が声明を出しましたが、「あの声明文は当時の椎名官房長官に
頼まれてオレが書いたのだ」と明かしています。ジャーナリズムは権力の見張り番
(watcher)といわれますが、渡辺氏は大新聞の最高権力者なのにwatcherがplayerに
なって得意になっているのはどうかと思います。
大西 五郎
「社会の思想手段は、社会の支配階級が握る」は、カールマルクスの命題。
まして金のかかる主流の思想宣伝媒体、マスコミュニケーションをや。
〈原発どうする〉の本年度予算は、30億円。
「福島第一関連の死者573名と、13の市町村が発表」という記事が読売新聞の2月5日付に出ている。
それ以前にも、東海村などで死者は何人も出ている。
名無しくん、こうした基本的なことをしらないということはとても恥ずかしいことだよ。