都知事選に勝機はあった
はじめに
都知事選では石原が当選し、2位の浅野に110万票の「大差」をつけたことから、敗戦論議が盛り上がっていないようである。しかし、国民投票法案の委員会採決が強行され、また、参議院選を控えて、負けた側の反省が今ほど必要とされている時はない。
石原を勝たせた原因は明白である。反石原陣営の吉田、浅野が分裂し統一できなかったことである。ここでは、負けた側の主な論争を整理することで、反省すべき論点を明らかにしてみたい。
2、選挙結果の数字が教えていること
はじめに、論争を整理・評価する基準を明らかにするために、いくつかの数字を取りあげてみよう。吉田、浅野の反石原陣営も含めて多くの者は石原大勝ということに目を奪われているが、実際は石原を負かす芽はあったのである。浅野と吉田陣営は統一できなかったために、この芽(可能性)を育て開花させることができなかったのである。
4年前の都知事選では、投票率44.94%で投票総数が444万票である。石原308.7万票、樋口81.7万票、若林36.4万票、ドクター中松10.9万票となっている。反石原陣営の樋口、若林の合計得票は118.1万票である。
一方、今回は投票率54.35%、投票総数556万票で、石原281.1万票、浅野169.3万票、吉田62.9万票、黒川15.9万票となっている。
両選挙を比較すると、投票率があがり、投票総数が112万票増えていながら、その増加分はそっくり浅野、吉田陣営に流れていることがわかるであろう。浅野、吉田の合計得票は232.2万票で前回の118.1万票より114.1万票増えている。倍増である。この事実が一つ。
もうひとつは、石原の得票数と浅野・吉田の合計得票数の差が48.9万票であり、この票差をどう見るかということである。約50万票と言えば大きいように見えるが、石原票の25万票、石原票の1割弱を奪えれば、石原打倒が実現できるという票差である。
予想される投票総数が150万票程度の選挙では50万票の差は非常に大きい。しかし、予想される投票総数が投票率50%で500万票というスケールの選挙では、50万票の差はわずかに総投票数の5%、25万票の移動で勝敗がひっくり返るのである。投票率が2%あがり、増えた20万票が浅野に投票されれば、石原票を16万票奪えば勝敗は逆転する。このように、50万票という差は、選挙戦のちょっとした風向きで勝敗が逆転する票数なのである。
だから、両者が統一すれば勝機は十分にあったのである。仮に両者が統一すれば、相互のネガティヴ・キャンペーンがなくなり、有害無益な論争が避けられ、世論調査も伯仲の様相へと接近し、選挙運動も盛り上がり、投票率もアップして、石原打倒の可能性は大きく開けたはずなのである。負けたにしても接戦にまで追い込むことができたであろう。
3、対立する二つの見解
数字から見える以上のような2点を前提に置くと、浅野、吉田両陣営の論争にも決着をつけることができる。相互の代表的な議論は、山口北大教授が「週間金曜日」に載せた論考と、それへの共産党からの反論(「誰を知事にするかは都民が決める」植木俊雄・広報部長、「赤旗」3月21日付)である。ネット上で行われた論争は様々な論点にわたっているが、論争の中心点はこの両論に集約することができる。
山口の主張は次のようになる。都知事選の最大の課題は石原都政の打倒であり、そのためには浅野、吉田陣営は統一する必要があり、政策では吉田の方が優れているが、集票力からみて浅野への一本化に共産党は協力するべきだということである。共産党の反論は、浅野の政策は石原と「うり二つ」であり、石原から浅野に代えても意味はなく、石原都政と「決別できる確固たる立脚点」を持つ吉田こそ「都政を転換」させるにふさわしいというものである。
要約すれば、山口の主張は石原都政打倒に主眼を置いた選挙戦術であり、共産党の主張は都政を転換する抜本的政策の提起に主眼が置かれている。
4、共産党の主張の根本的欠陥
共産党の主張で問題なのは、抜本的政策転換には石原を落選させなければならないにもかかわらず、どのようにして石原を落選させるかという方法(選挙戦術)が欠落していることである。共産党の実際の選挙戦を見る限りでは、政策の浸透の具合によりけりだということになり、事実上、その戦術の模索は放棄されている。
反石原陣営がどう統一しようが、逆立ちしても現在の政治状況では石原都政を打倒できないというのであれば、打倒戦術を模索することを放棄して、あるべき都政政策を提起して支持を集め、石原都政の悪政ぶりを暴くのはひとつの行き方である。
しかし、すでに数字で示したように、石原打倒の可能性があったということになれば、政策の優位性だけに固執し、石原打倒の政治目標とそのための選挙戦術を放棄することは誤っていたということにならざるをえない。石原都政打倒を政治目標の最重点にすえた北大教授・山口の議論が正しかったのである。
5、共産党の選挙戦術の誤りとその結果
共産党が政治を根本的に転換しようとする旗を掲げているから私は言うのだが、今度の都知事選でどうしたら石原都政を倒せるかを熟慮し、その選挙戦術を執拗に模索しなかったこと、石原都政打倒を都知事選の主要目標に掲げなかったこと、石原都政打倒の芽があることを理解できなかったことが共産党の致命的な誤りであった。 その結果、反石原陣営の統一という唯一の方法が捨て去られ、その選挙戦術はセクト主義という性格を帯びることになったのである。
その選挙戦術により、共産党は石原都政打倒を支持する無党派層に愛想を尽かされつつあると指摘しないわけにはいかない。県議選における埼玉、神奈川、兵庫、福岡の大都市圏での大幅な議席減(20議席から8議席へ)を目を凝らして見ることである。これだけ経済格差問題が言われているのに、従来、共産党が強く、革新無党派層が多い大都市圏で大きく後退しているのは、庶民重視のその政策ではなく選挙戦術が批判されていると解するほかないであろう。
6、共産党には政治指導者がいない
政党の指導者たる者は、すでに検討した数字が教えることを事前に見抜くことができなければならない。これが第一級の政治指導者の条件である。小泉による郵政民営化選挙を思い出してみればいい。政治情勢のどこをどう押せば、何がどう変わり、どのような可能性が開けてくるかを党員、大衆に明らかにし、その可能性を開く具体策を構想し実践できなければならない。
2中総とか、3中総とかいう文書で「自民党政治の危機と行き詰まり」とか、安倍政権の「脆さと弱さ」とか言っても、実際の政治闘争・選挙戦でその危機と弱さがどこにあるかを見抜き、それらを顕在化させる方法を構想し実行できなければ単なる「まくら言葉」でしかなく、実際は危機も弱さも理解していないことになる。
新聞や党員の拡大目標決め、何%増やせば、経験的に何議席増の目標は達成できるというような議論は政党指導者の議論ではなく、事務方の議論にすぎない。共産党指導部には、事務方はいても政治指導者がいない。
7、最大限の柔軟性が必要だ
なるほど、統一には多くの障害があったのであるが、主要な政治目標の実現のために最大限の柔軟性をもって対応すべきであったのである。寄り合い所帯で「右」が羽振りを利かす民主党に柔軟な対応を求めてもできない相談である。政治革新をめざすという共産党が最大限の柔軟性を発揮してこそ、今の政治情勢で最も必要な統一や共同はなる。
相手が政策協定はいやだと言えば、勝手連でやればいいのである。相手が「いいとこ取り」をしたければ、そうさせればいい。石原都政を倒せるのならば、後は何でもほしいものをくれてやればいい。石原に自民党推薦を拒否された幹事長の中川は「支持の形はどうでもいい。石原が勝つことが重要だ」と言っていたが、この柔軟性が弱小勢力であればなおさら必要なのである。そうしてこそ、共産党への支持も集まってくるのである。
共産党のやり方は逆だ。まず、共産党の名を立たしめよ、しからば・・・ではダメなのである。なぜか? ここ10年で、共産党に対する大多数の国民の政治意識が根本的に変化しているからである。
社会主義世界体制が崩壊して以降、政権を担う政党としては、共産党は大多数の国民の選択肢から完全に排除されてしまった。共産党の指導者にはこの変化が理解できていない。政治宣伝程度で変えられるほど生やさしい変化ではないのであるが、彼らはそれがわからない。この変化した国民の政治意識はすでに盤石の重みを持って定着しており、”一から出直す対応と心構え”、”縁の下の力持ち”に徹することだけが国民の信頼を回復する唯一の道となっているのである。
8、偏狭な批判を捨てよ
石原都政の実質的な与党であった民主党が、都予算に反対し石原の対立候補を立てようとしたことは歓迎すべきことであって、民主党の豹変を都民だましだ、変節だと批判するのは”利口”な対応ではないことを理解するべきである。「オール与党が分裂」したのは、歓迎すべきことであって非難することではなかろう。猜疑心だけが突出した無用な批判は敵を増やすだけでなく、おのれの選択すべき対応を狭隘なものにしてしまう。
9、今は、「よりまし」な変化を大事にしなければならない
ある共産党支持者の評価では、石原都政から浅野都政に変わることは反動都政から保守都政に変わるにすぎないというのであるが、その変化だけでも上出来だと評価すべきなのが現在の政治情勢なのである。宮城県政を東京に持ってくるだけでも”御の字”なのである。
時と場合、時と所、政治情勢次第で評価の基準は変わる。共産党はこれが理解できない。どのような政治情勢でも評価の基準は同じで、杓子定規な評価しかできない。反動都政も保守都政もダメなのである。浅野宮城県政は石原都政と「うり二つ」なのである。
福祉政策は同じようなものかもしれない(これも異論が多い)が、情報公開にしろ、教育行政にしろ、明らかに違う。これら二つの違いだけでも浅野都政を実現する政治的意義は十分すぎるほどあったのである。
10、重要な選挙で政府与党を勝たせてはならない
というのは、都知事選の持つ重みからすれば、それは他の知事選の比ではないこと、その帰趨は直接、国政上の政治情勢に影響を与え、政府与党に大きな打撃を与えることになるからである。しかも、今回の場合、都知事選が行われる時期に国政では何が行われているかを考えてみればいい。
任期中に改憲を公約する安倍政権の下で国民投票法案の審議が進んでいるという状態にある。また、石原を打倒すれば、一気に3ヵ月後の参議院選で政府与党を過半数割れに追い込むチャンスを広げることに結びついていく。政府与党が過半数割れに追い込まれるようになれば、安倍政権の改憲ロードマップは大幅に狂うことになるはずである。
11、共産党は選挙戦術を改めよ
抜本的政策の重要性に固執した共産党の選挙戦術では、こうした政治情勢も視野の外にあったことはあきらかであろう。そういうことになると、共産党指導部は本気で憲法擁護や政治革新を考えているのか、という疑問が湧いてくるのである。
3ヵ月後は、いよいよ参議院選である。ここで与党を過半数に追い込めなければ、衆議院選のある2年後までは安倍政権のやりたい放題である。すでに国民投票法案は衆議院を通過し、成立が目前に迫っている。
来る参議院選では、野党の選挙協力に柔軟に取り組み、与党を過半数割れに追い込む努力を共産党に求めたい。
この選挙戦術の転換だけが、政治革新への第一歩となるのであり、共産党の窮地をも救う唯一の道である。
はじめに
都知事選では石原が当選し、2位の浅野に110万票の「大差」をつけたことから、敗戦論議が盛り上がっていないようである。しかし、国民投票法案の委員会採決が強行され、また、参議院選を控えて、負けた側の反省が今ほど必要とされている時はない。
石原を勝たせた原因は明白である。反石原陣営の吉田、浅野が分裂し統一できなかったことである。ここでは、負けた側の主な論争を整理することで、反省すべき論点を明らかにしてみたい。
2、選挙結果の数字が教えていること
はじめに、論争を整理・評価する基準を明らかにするために、いくつかの数字を取りあげてみよう。吉田、浅野の反石原陣営も含めて多くの者は石原大勝ということに目を奪われているが、実際は石原を負かす芽はあったのである。浅野と吉田陣営は統一できなかったために、この芽(可能性)を育て開花させることができなかったのである。
4年前の都知事選では、投票率44.94%で投票総数が444万票である。石原308.7万票、樋口81.7万票、若林36.4万票、ドクター中松10.9万票となっている。反石原陣営の樋口、若林の合計得票は118.1万票である。
一方、今回は投票率54.35%、投票総数556万票で、石原281.1万票、浅野169.3万票、吉田62.9万票、黒川15.9万票となっている。
両選挙を比較すると、投票率があがり、投票総数が112万票増えていながら、その増加分はそっくり浅野、吉田陣営に流れていることがわかるであろう。浅野、吉田の合計得票は232.2万票で前回の118.1万票より114.1万票増えている。倍増である。この事実が一つ。
もうひとつは、石原の得票数と浅野・吉田の合計得票数の差が48.9万票であり、この票差をどう見るかということである。約50万票と言えば大きいように見えるが、石原票の25万票、石原票の1割弱を奪えれば、石原打倒が実現できるという票差である。
予想される投票総数が150万票程度の選挙では50万票の差は非常に大きい。しかし、予想される投票総数が投票率50%で500万票というスケールの選挙では、50万票の差はわずかに総投票数の5%、25万票の移動で勝敗がひっくり返るのである。投票率が2%あがり、増えた20万票が浅野に投票されれば、石原票を16万票奪えば勝敗は逆転する。このように、50万票という差は、選挙戦のちょっとした風向きで勝敗が逆転する票数なのである。
だから、両者が統一すれば勝機は十分にあったのである。仮に両者が統一すれば、相互のネガティヴ・キャンペーンがなくなり、有害無益な論争が避けられ、世論調査も伯仲の様相へと接近し、選挙運動も盛り上がり、投票率もアップして、石原打倒の可能性は大きく開けたはずなのである。負けたにしても接戦にまで追い込むことができたであろう。
3、対立する二つの見解
数字から見える以上のような2点を前提に置くと、浅野、吉田両陣営の論争にも決着をつけることができる。相互の代表的な議論は、山口北大教授が「週間金曜日」に載せた論考と、それへの共産党からの反論(「誰を知事にするかは都民が決める」植木俊雄・広報部長、「赤旗」3月21日付)である。ネット上で行われた論争は様々な論点にわたっているが、論争の中心点はこの両論に集約することができる。
山口の主張は次のようになる。都知事選の最大の課題は石原都政の打倒であり、そのためには浅野、吉田陣営は統一する必要があり、政策では吉田の方が優れているが、集票力からみて浅野への一本化に共産党は協力するべきだということである。共産党の反論は、浅野の政策は石原と「うり二つ」であり、石原から浅野に代えても意味はなく、石原都政と「決別できる確固たる立脚点」を持つ吉田こそ「都政を転換」させるにふさわしいというものである。
要約すれば、山口の主張は石原都政打倒に主眼を置いた選挙戦術であり、共産党の主張は都政を転換する抜本的政策の提起に主眼が置かれている。
4、共産党の主張の根本的欠陥
共産党の主張で問題なのは、抜本的政策転換には石原を落選させなければならないにもかかわらず、どのようにして石原を落選させるかという方法(選挙戦術)が欠落していることである。共産党の実際の選挙戦を見る限りでは、政策の浸透の具合によりけりだということになり、事実上、その戦術の模索は放棄されている。
反石原陣営がどう統一しようが、逆立ちしても現在の政治状況では石原都政を打倒できないというのであれば、打倒戦術を模索することを放棄して、あるべき都政政策を提起して支持を集め、石原都政の悪政ぶりを暴くのはひとつの行き方である。
しかし、すでに数字で示したように、石原打倒の可能性があったということになれば、政策の優位性だけに固執し、石原打倒の政治目標とそのための選挙戦術を放棄することは誤っていたということにならざるをえない。石原都政打倒を政治目標の最重点にすえた北大教授・山口の議論が正しかったのである。
5、共産党の選挙戦術の誤りとその結果
共産党が政治を根本的に転換しようとする旗を掲げているから私は言うのだが、今度の都知事選でどうしたら石原都政を倒せるかを熟慮し、その選挙戦術を執拗に模索しなかったこと、石原都政打倒を都知事選の主要目標に掲げなかったこと、石原都政打倒の芽があることを理解できなかったことが共産党の致命的な誤りであった。 その結果、反石原陣営の統一という唯一の方法が捨て去られ、その選挙戦術はセクト主義という性格を帯びることになったのである。
その選挙戦術により、共産党は石原都政打倒を支持する無党派層に愛想を尽かされつつあると指摘しないわけにはいかない。県議選における埼玉、神奈川、兵庫、福岡の大都市圏での大幅な議席減(20議席から8議席へ)を目を凝らして見ることである。これだけ経済格差問題が言われているのに、従来、共産党が強く、革新無党派層が多い大都市圏で大きく後退しているのは、庶民重視のその政策ではなく選挙戦術が批判されていると解するほかないであろう。
6、共産党には政治指導者がいない
政党の指導者たる者は、すでに検討した数字が教えることを事前に見抜くことができなければならない。これが第一級の政治指導者の条件である。小泉による郵政民営化選挙を思い出してみればいい。政治情勢のどこをどう押せば、何がどう変わり、どのような可能性が開けてくるかを党員、大衆に明らかにし、その可能性を開く具体策を構想し実践できなければならない。
2中総とか、3中総とかいう文書で「自民党政治の危機と行き詰まり」とか、安倍政権の「脆さと弱さ」とか言っても、実際の政治闘争・選挙戦でその危機と弱さがどこにあるかを見抜き、それらを顕在化させる方法を構想し実行できなければ単なる「まくら言葉」でしかなく、実際は危機も弱さも理解していないことになる。
新聞や党員の拡大目標決め、何%増やせば、経験的に何議席増の目標は達成できるというような議論は政党指導者の議論ではなく、事務方の議論にすぎない。共産党指導部には、事務方はいても政治指導者がいない。
7、最大限の柔軟性が必要だ
なるほど、統一には多くの障害があったのであるが、主要な政治目標の実現のために最大限の柔軟性をもって対応すべきであったのである。寄り合い所帯で「右」が羽振りを利かす民主党に柔軟な対応を求めてもできない相談である。政治革新をめざすという共産党が最大限の柔軟性を発揮してこそ、今の政治情勢で最も必要な統一や共同はなる。
相手が政策協定はいやだと言えば、勝手連でやればいいのである。相手が「いいとこ取り」をしたければ、そうさせればいい。石原都政を倒せるのならば、後は何でもほしいものをくれてやればいい。石原に自民党推薦を拒否された幹事長の中川は「支持の形はどうでもいい。石原が勝つことが重要だ」と言っていたが、この柔軟性が弱小勢力であればなおさら必要なのである。そうしてこそ、共産党への支持も集まってくるのである。
共産党のやり方は逆だ。まず、共産党の名を立たしめよ、しからば・・・ではダメなのである。なぜか? ここ10年で、共産党に対する大多数の国民の政治意識が根本的に変化しているからである。
社会主義世界体制が崩壊して以降、政権を担う政党としては、共産党は大多数の国民の選択肢から完全に排除されてしまった。共産党の指導者にはこの変化が理解できていない。政治宣伝程度で変えられるほど生やさしい変化ではないのであるが、彼らはそれがわからない。この変化した国民の政治意識はすでに盤石の重みを持って定着しており、”一から出直す対応と心構え”、”縁の下の力持ち”に徹することだけが国民の信頼を回復する唯一の道となっているのである。
8、偏狭な批判を捨てよ
石原都政の実質的な与党であった民主党が、都予算に反対し石原の対立候補を立てようとしたことは歓迎すべきことであって、民主党の豹変を都民だましだ、変節だと批判するのは”利口”な対応ではないことを理解するべきである。「オール与党が分裂」したのは、歓迎すべきことであって非難することではなかろう。猜疑心だけが突出した無用な批判は敵を増やすだけでなく、おのれの選択すべき対応を狭隘なものにしてしまう。
9、今は、「よりまし」な変化を大事にしなければならない
ある共産党支持者の評価では、石原都政から浅野都政に変わることは反動都政から保守都政に変わるにすぎないというのであるが、その変化だけでも上出来だと評価すべきなのが現在の政治情勢なのである。宮城県政を東京に持ってくるだけでも”御の字”なのである。
時と場合、時と所、政治情勢次第で評価の基準は変わる。共産党はこれが理解できない。どのような政治情勢でも評価の基準は同じで、杓子定規な評価しかできない。反動都政も保守都政もダメなのである。浅野宮城県政は石原都政と「うり二つ」なのである。
福祉政策は同じようなものかもしれない(これも異論が多い)が、情報公開にしろ、教育行政にしろ、明らかに違う。これら二つの違いだけでも浅野都政を実現する政治的意義は十分すぎるほどあったのである。
10、重要な選挙で政府与党を勝たせてはならない
というのは、都知事選の持つ重みからすれば、それは他の知事選の比ではないこと、その帰趨は直接、国政上の政治情勢に影響を与え、政府与党に大きな打撃を与えることになるからである。しかも、今回の場合、都知事選が行われる時期に国政では何が行われているかを考えてみればいい。
任期中に改憲を公約する安倍政権の下で国民投票法案の審議が進んでいるという状態にある。また、石原を打倒すれば、一気に3ヵ月後の参議院選で政府与党を過半数割れに追い込むチャンスを広げることに結びついていく。政府与党が過半数割れに追い込まれるようになれば、安倍政権の改憲ロードマップは大幅に狂うことになるはずである。
11、共産党は選挙戦術を改めよ
抜本的政策の重要性に固執した共産党の選挙戦術では、こうした政治情勢も視野の外にあったことはあきらかであろう。そういうことになると、共産党指導部は本気で憲法擁護や政治革新を考えているのか、という疑問が湧いてくるのである。
3ヵ月後は、いよいよ参議院選である。ここで与党を過半数に追い込めなければ、衆議院選のある2年後までは安倍政権のやりたい放題である。すでに国民投票法案は衆議院を通過し、成立が目前に迫っている。
来る参議院選では、野党の選挙協力に柔軟に取り組み、与党を過半数割れに追い込む努力を共産党に求めたい。
この選挙戦術の転換だけが、政治革新への第一歩となるのであり、共産党の窮地をも救う唯一の道である。
しかし結果の解釈は、少し希望的な予測に肩入れしすぎた感じもしますが・・・
共産党が、共闘という戦術を選択しなかった理由を
もう少し冷静に分析した論考はないのでしょうか?
今回の選挙のやり方は、自分の組織が大切ということだけでしょうか?
ここは9条の会関連ブログです。都知事選挙の重要性を考え、ここで都知事選挙について行われた論議を振り返り、ドストエーフスキーさんご紹介のこの総括がかなり周到で、全面的で、かつ専門的な労作であることを見るならば、実に情けないことだと考るものです。
しかも、昨16日の読者は112人と当ブログ最多に近いのです。しかも、730面閲覧。これはもう過去ダントツで熱心に読まれた投稿であることが示されています。こうして、僕の情けなさは増すばかりという次第。
誰かお答えにならないで、良いのですか?
みんなあの選挙の重要性や緊急性をひしひしと感じていたのです。一月に入って革新の統一候補が決まらない時、東京の仲間からの要請で浅野擁立の為に本人への要請メールなども何度も送りました。
ですから皆あの選挙の結果には、強烈に落胆すると共に、努力の足りなさを痛感しているのです。
今全国の仲間は、地方選後半の闘いに挑戦しています。とりわけ沖縄の仲間は必死です。
総括は読ませていただき参考になりました。
これからも、闘いながら考えていくつもりです。
変な職業はないと私は思ってます。20数名の大きいとは言えない職場に心や身体の不調を持って働いている教員は何人もいる状況です。定年前の退職は他の職業と比べてすごく多く、定年後も学校で働きたいという気持ちを持つ人などいません。 都知事選は教員にとっては本当に切実だったのです。反石原票が230万あるということは少しのなぐさめになる人もいるかもしれませんが、石原に投票した280万のうち、それほど確信を持たずに石原に投票した人もいると思います。勝てなかったとしても
こ
> んなにたくさんの票は取れなかったかもしれない、野党が共闘できないだけでく、いろいろな場面で批判をしたことが、都民に「石原しかいないか」と思わせた原因に なっているのでは、ということがずっと引っかかっています。
県議選では共産党を応援し、現在は共産党市議選の手伝いをしていますが、都知事選で有力候補だった淺野氏をことあるごとに批判したことは納得できません。共産党は下で働いている人はいい人ばかりです。でも中央は何を考えているのか、と 思っています。 私の地域では、自民、公明、民社、社民が全部与党です。中でも社民党が一番ひどいく、どうしてこの人が社民党?と思うことが度々です。地域によっても実情はちがうと思います。
ある政党に入っている人が、みんな同じ、ということではないのだと思います。
> いつも「オール与党」に反対を訴えている共産党は、いつまでたっても支持者が増えるとは思えません。(共産党にだってすぐ怒鳴るいやな人が身近にいます。)選挙翌日にみなさんの意見を聞きたいと思いましたが、今はそんなことを論じている 暇はない、ということだったので、そのままになっていましたが、選挙後2日間限定でも、もう少しオープンに選挙の反省を聞けたらよかったと思います。そのときに討 論できずにいつできるのでしょう。 淺野さんの選挙活動に密着した記者の話を聞きましたが、胸を打たれました。右からも左からもパッシングを受 けて走り回っていた淺野さんには本当にごくろうさまでした、市民の力及ばず残念でした、と伝えたいです。
> 今日はこれから共産党市議の広報カーに乗ります。でもこれが最後かも。
> 長々とすみませんでした。
尾張の風さん、何とかしたい人さんへ
僕が情けないというのは、落石さんの質問への回答がないことです。落石さんは「共産党が、共闘という戦術を選択しなかった理由」を改めて問うておられる。
ドストエーフスキーさん紹介のこの「総括」も、共産党の都知事選方針への全面的かつ根本的批判ですね。
そういうものへの共産党(支持者)の回答がないというのが、僕には情けないということです。何百人もの人がこれを読んでいるのに。無視なのか、無能なのか。僕は敢えて挑発的に言いますが、後者だと思いますけどね。これだけ周到な批判への回答はまー至難でしょう。
なお、落石さんが本投稿についてこう述べられている点は、僕には賛成できません。
「しかし結果の解釈は、少し希望的な予測に肩入れしすぎた感じもしますが・・・」
投稿の「2、選挙結果の数字が教えていること」全体、特にその中の最後の4行などは、全面的に賛成です。
落石さんご推察の通りが、答えだと思う。
「今回の選挙のやり方は、自分の組織が大切ということだけでしょうか?」と書かれた、その事が答えだ。
①「独自候補」が昔も今も原則だったこと。「我が党以外は皆、自民党と同類」との構えで、莫大な供託金没収覚悟で全区立候補を重ねてきた。
②赤旗半減、組織力減退とじり貧になって金と組織に余裕が無くなった今も、大きな選挙が近い所では必ず対立候補を出している。沖縄がむしろ例外。
③以上から、「『我が党、我が組織が大切』に比べたら、石原当選などどっちでも良いこと」と見る以外にはない。
ところで、こういう「『よりマシ』のこれほどまでの否定」といういわゆる「独善」路線が嫌われてきたにもかかわらず、何故さらにこんな態度を貫いているのか。普通から見れば不思議なことだ。しかし、実情、内部を知ってきた者から見たら全く不思議はない。
「指導部の基本方針は容易には変えられない」、「指導部は正しく、替わらない」のだ。こうして、現指導部とともに、落ちる所まで落ちて行きつつあると、現状はこう理解したらよいと思う。
国会議員数は70年代に戻り、都市部などの地方議員数の多さにどんどん限りが見えても、指導部は全く自己批判をしていない。その自己批判が必要だと考えている視野の幅が広い党員たちは、どんどん疎んじられてきた。
これが民主集中制というものの実情だと思う。
『ところで、こういう「『よりマシ』のこれほどまでの否定」といういわゆる「独善」路線が嫌われてきたにもかかわらず、何故さらにこんな態度を貫いているのか。普通から見れば不思議なことだ。しかし、実情、内部を知ってきた者から見たら全く不思議はない。
「指導部の基本方針は容易には変えられない」、「指導部は正しく、替わらない」のだ。こうして、現指導部とともに、落ちる所まで落ちて行きつつあると、現状はこう理解したらよいと思う』
不破哲三氏は委員長を下りましたが、社会科学研究所とやらの所長は続け、幹部会にも席があります。世界観政党の世界観解釈のカリスマとして発言権を持っていて、組織の長という実質は変わらないどころか、生きている限りい座り続ける法王と一緒です。彼の理論責任の下でじり貧になっているのだから、止めるべきです。彼と対立して党をやめていったネオマルクス主義の学者の方が余程正しかったということも歴史が証明していますし。
共産党党員は、党が正しいと信じているから労力もお金も引き受けるわけだ。ならば、そもそもその「正しさ」はどこから来る物で、どう保証されているのか。
中央委員会が原案を作り、大会で承認するということだが、その原案骨子や、何か重大な変化が起こる時の原案は誰が作るかということだ。このことにこそ、良かれ悪しかれ「理論」が絡んでくるのだ。そして間違いなく「党内最大の理論家」たる、社会科学研究所長・不破哲三氏がこれに最大関与をなしてきたし、今後もその構えなのである。
ところで、方針の正しさとは何か。この全面的展開は難しいことだから、その「要件」という視点から語ろう。現在までの日本共産党は少なくとも二つの点でその正しさの最大要件を欠いていると考える。
第1は、文科系氏言うところの現在の「じり貧状態」である。もっと言うなら「戦後60年余の『実践』に結果が出ていない」ことだ。「実践から語る」という唯物論として、最も非難さるべき点ではないか。関連して、政治とは結果が総てという問題もある。
第2は、「社会主義」概念の理解に誤りがあったこと。これと1とに関連して、この資本主義の中で相当長く闘っていかねばならないことになったのだが、その闘い方を考える能力が、不破氏にあるとは思えないということである。この点については説明不要だろう。
こうして、日本共産党員の方々が確信しているように見える「正しさ」は、案外砂上の楼閣のようなものなのではないか。最も理論的な問題ともなれば、人間、そんなことはむしろ当たり前なのである。従来の共産主義信奉者の方がむしろ、この当たり前を逸脱していたということではなかったか。