日本プロ野球の(巨人の)エゴは目に余る! 文科系
前にも書いたが、日本のプロ野球界はおかしい。プロ野球が、その力に物を言わせて、育て守るべき野球界、アマの人々を全く私物化している。非常識な、前近代的世界というほかはない。
先ず一つが田沢問題。
アメリカにわたるENEOSの田沢投手が、日本に帰ったとしても2年間は日本プロ野球に入れないと決めてしまった。社会人、大学生は2年、高校生は3年だそうだ。野茂英雄以来の混乱から何も学んでいないと僕には思われる。
確かに、プロ野球界の内部規律は彼らが決めるというしかないだろう。しかしながら、日本のアマチュア野球界を自分らの私物のように扱う権限があるのか。そんな規則を決めることができるのか。アマチュア野球界の人々を傷つけ、それと共存共栄を図ろうとしていない姿ばかりが目に付くのである。自らの公共性を投げ捨てる行為というほかはない。
サッカーの世界を考えてみて欲しい。気持ちよく送り出し、また迎え入れている。中田英寿しかり、中村俊輔しかり。高校卒の選手を自らに縛り付けるなんて問題外の行為だ。人の職業選択の自由を自分らの内規で堂々と犯す行為であり、自分らの世界を職業選択の自由のらち外におく行為である。
サッカーの世界でこんなことを決めたらファンが許さないだろう。ファンあってのプロ野球、野球を愛する国民あってのプロ、アマチュアの発展あってのプロのはずだ。そういう理屈が何も通らない世界と言える。
もう一つがWBC世界大会の監督問題。
巨人の原に決まってしまった。僕が大嫌いな星野へのデキレースが、イチローの「本気で臨むなら現役監督で」という言葉などから一転、何の原則もはっきりさせないままに、原に決まった。ナベツネの大満足談話が新聞に載っている。
この決定は、原則も不明朗なら、決定経過も不透明で、おかしいことはなはだしい。原則も透明性もないときとは、影で不条理な横暴がまかり通っているということを意味している。
そもそも野球の日本代表監督をプロだけで決めて良いのかという問題があろう。現に、世界野球も初めのうちはプロ球界は見向きもせず、全くアマに任せっきりだったではないか。「世界戦軽視はまずい」と気づいたとたんに、プロだけがしゃしゃり出て、プロだけで全てを決めてしまう。こんな横暴、不条理が許されるのか!!
それに、僕は原では勝てないと思う。あの松坂がどれだけの苦労をしたことか。一発勝負はプロの日常とは全く違うと思う。「1点もやれない」との緊張感が体を締め付ける。対して原は、金に飽かせてあれだけの選手を集め、あっぷあっぷ「優勝」にたどり着いた監督でしかない。
多少理屈っぽくなるが、今後のために批判点を書く。組織には皆で守り育てるという意味で、理屈が大切だと思う。
・今年の現役優勝監督なら、西武の渡辺もいる。日本シリーズで原が負けたらどういう理屈を付けるのか。
・直近の日本一監督ならば、去年の落合がいる。
・その名監督、落合は、野村克也を押した。多分実績からのことだろう。監督としての「彼我を見る真の力ならば、1が落合、2が野村ではないか。
このどんな理屈にも合わない今回の経過の裏側には、例によって巨人のプロ野球私物化問題が潜んでいると思う。今回は原で負ければよいのだ言いたい。負けてこそ「真の総力戦」への正しい道が開かれるというもの。
前にも書いたが、日本のプロ野球界はおかしい。プロ野球が、その力に物を言わせて、育て守るべき野球界、アマの人々を全く私物化している。非常識な、前近代的世界というほかはない。
先ず一つが田沢問題。
アメリカにわたるENEOSの田沢投手が、日本に帰ったとしても2年間は日本プロ野球に入れないと決めてしまった。社会人、大学生は2年、高校生は3年だそうだ。野茂英雄以来の混乱から何も学んでいないと僕には思われる。
確かに、プロ野球界の内部規律は彼らが決めるというしかないだろう。しかしながら、日本のアマチュア野球界を自分らの私物のように扱う権限があるのか。そんな規則を決めることができるのか。アマチュア野球界の人々を傷つけ、それと共存共栄を図ろうとしていない姿ばかりが目に付くのである。自らの公共性を投げ捨てる行為というほかはない。
サッカーの世界を考えてみて欲しい。気持ちよく送り出し、また迎え入れている。中田英寿しかり、中村俊輔しかり。高校卒の選手を自らに縛り付けるなんて問題外の行為だ。人の職業選択の自由を自分らの内規で堂々と犯す行為であり、自分らの世界を職業選択の自由のらち外におく行為である。
サッカーの世界でこんなことを決めたらファンが許さないだろう。ファンあってのプロ野球、野球を愛する国民あってのプロ、アマチュアの発展あってのプロのはずだ。そういう理屈が何も通らない世界と言える。
もう一つがWBC世界大会の監督問題。
巨人の原に決まってしまった。僕が大嫌いな星野へのデキレースが、イチローの「本気で臨むなら現役監督で」という言葉などから一転、何の原則もはっきりさせないままに、原に決まった。ナベツネの大満足談話が新聞に載っている。
この決定は、原則も不明朗なら、決定経過も不透明で、おかしいことはなはだしい。原則も透明性もないときとは、影で不条理な横暴がまかり通っているということを意味している。
そもそも野球の日本代表監督をプロだけで決めて良いのかという問題があろう。現に、世界野球も初めのうちはプロ球界は見向きもせず、全くアマに任せっきりだったではないか。「世界戦軽視はまずい」と気づいたとたんに、プロだけがしゃしゃり出て、プロだけで全てを決めてしまう。こんな横暴、不条理が許されるのか!!
それに、僕は原では勝てないと思う。あの松坂がどれだけの苦労をしたことか。一発勝負はプロの日常とは全く違うと思う。「1点もやれない」との緊張感が体を締め付ける。対して原は、金に飽かせてあれだけの選手を集め、あっぷあっぷ「優勝」にたどり着いた監督でしかない。
多少理屈っぽくなるが、今後のために批判点を書く。組織には皆で守り育てるという意味で、理屈が大切だと思う。
・今年の現役優勝監督なら、西武の渡辺もいる。日本シリーズで原が負けたらどういう理屈を付けるのか。
・直近の日本一監督ならば、去年の落合がいる。
・その名監督、落合は、野村克也を押した。多分実績からのことだろう。監督としての「彼我を見る真の力ならば、1が落合、2が野村ではないか。
このどんな理屈にも合わない今回の経過の裏側には、例によって巨人のプロ野球私物化問題が潜んでいると思う。今回は原で負ければよいのだ言いたい。負けてこそ「真の総力戦」への正しい道が開かれるというもの。
野球の興行主が野球を宣伝の道具として
私物化しているのが一番の元凶。
野球を広めていく段階で
宣伝の道具として使ったのは
野球にとっても興行主にとっても
良い結果を。
もう20年前から時代は変わっている。
観客が離れて興行としてのメリットが
なくなる前に
リフレッシュできるのか?
そう簡単じゃないでしょうね。
本家アメリカは長い伝統もあり、国民スポーツとしての市民の手で育てられきたと言います。
当然商業主義に侵食されてはいるでしょうが、譲れない精神というか理念が守っているような気がするのですが?
ご応答有り難うございました。僕のお応えとして本日の投稿を思いつき、書きました。また感想など聞かせていただけば幸いです。
僕は、この問題は日本のスポーツ文化一般の印象、地位を低めているという点においてすごく悪影響を与えてきた最重要問題の一つと考えています。日本の最も大衆的なスポーツ文化がこういう精神的貧困状態にある、これが暗黙のうちにいかにスポーツの地位を低めていることか。スポーツは本来、もっと明るい、爽やかなもののはずなのに、そういうスポーツをカネや脅しで、いかに私物化し、汚してきたか。
田沢の問題でも、文科省が乗り出さすべきとさえ僕は思いますよ。
タニマチたちが、「私利の歴史と伝統」に、アグラをかいている構図です。