「次の衆院選」に向けて何か「面白い」方策を考えな いと。とにかく生活感覚を持つことでしょう。ここが重要なのですが、要は結果として「改憲」を止めればいいわけです。
> ですから、人々が年金に関心を持っている時は年金問題を、安全に関心を持っている時は安全の問題を表に出せばいいのです。
> その根拠として憲法問題を語ればいいのであって、憲法問題は常にセットにするわけです。
それを開口一番「護憲」では、ズレていると思われても仕方ありません。
> 人々が求めているものを提供する。
> これは市場経済の基本です。
> 私たちは否応なく市場経済の中で生きています。
> そこでどう工夫して志を貫くかでしょう。
>
> 仕事をしている人間にとって、これは常識以前の問題です。
> 何をつくるにしても売るにしても、市場の動向をまず考えます。
> こういう常識的発想が護憲派の中にほとんど無いのは、いかに社会から隔絶した世界にいるかということではないでしょうか。
> ホラ、大部分の人とは違う生活をしているじゃないですか。
>
> 私の周囲には護憲派寄りのビジネスマンが大勢いますが、聞いてみると、誰も社民・共産・九条ネットには入れていないのです。
> 理由は「憲法のことしか言わないから」。
> 「今の時代、それじゃダメだ」という意見です。
>
> 護憲だけでなく、時代の焦点になっている問題をセットにして取り上げないと、
> 次回の選挙で護憲政党は壊滅です。
> こういう生活感覚、時代感覚が欠けているのは勉強不足だし、 努力不足であり、住んでいる世界の狭さを証明することにもなります。
> 大切なのは「結果として」改憲を止めることではないでしょうか。
>
> 知り合いの現実的なネットトレーダーはこう言っています。
> 「憲法問題を争点からズラして二回の国政選挙を乗り切れば、取り敢えず改憲派の勢いは止まる。その間に態勢を立て直して攻勢に出ればいい。争点になっていないものを、わざわざ争点にする必要はない」。
>
> 私は初めて彼の意見を聞いた時、すごく驚きましたが、最近はそれも一つの手だと考えるようになりました。
>
> ※今後の護憲運動にとってとても示唆に富んだご意見だと思いました。
ネット虫
> ですから、人々が年金に関心を持っている時は年金問題を、安全に関心を持っている時は安全の問題を表に出せばいいのです。
> その根拠として憲法問題を語ればいいのであって、憲法問題は常にセットにするわけです。
それを開口一番「護憲」では、ズレていると思われても仕方ありません。
> 人々が求めているものを提供する。
> これは市場経済の基本です。
> 私たちは否応なく市場経済の中で生きています。
> そこでどう工夫して志を貫くかでしょう。
>
> 仕事をしている人間にとって、これは常識以前の問題です。
> 何をつくるにしても売るにしても、市場の動向をまず考えます。
> こういう常識的発想が護憲派の中にほとんど無いのは、いかに社会から隔絶した世界にいるかということではないでしょうか。
> ホラ、大部分の人とは違う生活をしているじゃないですか。
>
> 私の周囲には護憲派寄りのビジネスマンが大勢いますが、聞いてみると、誰も社民・共産・九条ネットには入れていないのです。
> 理由は「憲法のことしか言わないから」。
> 「今の時代、それじゃダメだ」という意見です。
>
> 護憲だけでなく、時代の焦点になっている問題をセットにして取り上げないと、
> 次回の選挙で護憲政党は壊滅です。
> こういう生活感覚、時代感覚が欠けているのは勉強不足だし、 努力不足であり、住んでいる世界の狭さを証明することにもなります。
> 大切なのは「結果として」改憲を止めることではないでしょうか。
>
> 知り合いの現実的なネットトレーダーはこう言っています。
> 「憲法問題を争点からズラして二回の国政選挙を乗り切れば、取り敢えず改憲派の勢いは止まる。その間に態勢を立て直して攻勢に出ればいい。争点になっていないものを、わざわざ争点にする必要はない」。
>
> 私は初めて彼の意見を聞いた時、すごく驚きましたが、最近はそれも一つの手だと考えるようになりました。
>
> ※今後の護憲運動にとってとても示唆に富んだご意見だと思いました。
ネット虫
今回の民主党も「生活第1」と語ったし、公明党は昔から「生活者の視点」とかの標語を出してきた。しかし、民主党の連中自身のエネルギーの出所はここが中心というのでもないはずだし、まして公明党のそれはそもそも宗教的心情でしょうが?
理念というものを馬鹿にしてはいけないと思います。僕は自分が長年属した市民運動でそのことをかなり後になって痛切な経験とともに学んだ積もりです。
環境問題に直接関係ない人のそういう問題意識は、軽いとでも言うのでしょうか。そしてもう一つ、戦争反対とか9条守れとかは全て抽象的な理念だとでも言うのでしょうか。
全く違いますね。
何よりも次のことが言いたいです。人間の共感力の大きさというもののことです。難しい命題ですが、人間はこの共感力から「本物の理念」にも踏み込んでいく存在だということが言いたいのです。
自分の赤ちゃんを自分の無知のためにベビーホテルに入れて後からその実態を学んでもの凄く後悔した人がいるとします。このこと自身は生活感覚というか、とにかくリアルな感覚に基づいた生活的問題意識ですよね。こういう人が「ベビーホテルなくせ。みんなが入れる乳児保育政策を」と大いに語り始めるとき、これ自身はもう理念ですよ。全ての保育所を必要とする人のために本当に役に立ちたいという理念です。こういう人間の社会性に基づく認識というか立場というかの、その飛躍というものが分からない人は、運動の本当の力というものの本質が分からないと思いますね。
せいぜいが「損したくなかったら、あるいは得したかったら、頑張ろう」だけだ。それだけでは人は人のためには頑張れません。
なお、次のことは認めた上で上記のことを僕は語っている積もりです。
確かに抽象的活動家とでも言うべき人々は存在します。生活体験、感覚が乏しかったり、それをもう忘れてしまっていたりしていて、抽象的にしか政治を語れない人のことです。そういう人は、実生活に「語っている運動の行動」がとても少ないからすぐに分かりますよ。必死に政治を語っていても家事は奥さん任せとか、余暇にはまず漫画を読んでいるとか、言葉に「小さな実」もない人ね。