国会討論でこんな、やり取りがあった。
『 2019年、2月28日の衆議院予算会議で
>長妻昭議員「統計問題を甘くみない方がいい。扱いによっては国家の危機になりかねない、という認識はあるのか。」
>安倍総理「いま、長妻委員は国家の危機かどうか聞いたが、私が国家ですよ。」』
この安倍の答弁はトンデモナイ誤りである。そのことを安倍が分かっていないのがまた、とんでもない事である。こんな認識を持っているからこそ、彼のトンデモナイあれこれの言動が出てくるのだろうと、初めて僕は彼が分かった思いになった。
国家として彼よりもはるかに重いものが存在する。それが憲法だ。彼と憲法との関係は、まず何よりもこの事。彼がどれだけ頑張っても、彼個人では憲法は変えられないという仕組である。その仕組とはこういうものだ。国の主人公が国民であって、その国民に彼がお伺いを立てて、それを了承されなければ憲法をその一文字でさえ変える事はできないのである。
「国家とはまずその国民と憲法である。」
彼は憲法を守らねばならないし、これに従った従来諸慣行も、そもそもこの憲法への恭しい態度でさえ、厳格に守らなければならないのである。そういう憲法の全てについてまた、立憲主義という考え方が憲法の前提として存在している。
『従来為政者は、国民の権利を犯しがちであった。そこで近代国家の主人公としての国民が、自らの基本的人権を守れよという形で、為政者を縛ったものが憲法である。憲法は単なる国民のお約束ではない』
さて、安倍が「私が国家ですよ」とか、誤って「私は立法府の長です」と事実として叫んでいるその時、以上の憲法と憲法理念は、彼の心のなかでどういう扱いを受けているのだろうか。
例えば「憲法を変えるよう、国民を私が引っ張っていっても良い」とさえ言えるのだろうか。絶対に言えない。国民の過半数の過半数以上という程度の支持を得たからと言って、国民がみずから進んで憲法を変えようと言い出さないのに彼が率先して動くのは立憲主義の精神から観て誤りなのである。むしろ、三権の一つが率先して憲法を変えようなどの動きは、警戒の対象にこそなるべきなのだ。現に安倍は、三権の一つ司法権に訴えうるか否かを握る検察官の人事を自分が握ろうとしたような独裁志向の人物なのであるから。
このことを今何よりも、強調したい。
「私が国家ですよ」などという誤った考えを持っているからこそ、「憲法改定が、安倍の趣味」と自民党議員にさえ言われる誤った態度が出てくるのであろう。
こんな馬鹿が首相をやっていられるのは、長く続いた小泉時代に幹事長をやって来たから、大変な馬鹿でも務まると知ったからであろう。そして、馬鹿の一つ覚えの憲法改悪を、立憲主義もそれによる憲法改定手続きの精神も知らずに突き進んでいるのである。恐ろしいことである。「無恥・蛮勇の暴力政治」!