知りあって間もなくの人などとの会話で、たとえばJRに縁があるという話が出てくるとする。間もなく僕はこう話しているだろう。
「JRとそんなご関係なのですか。僕の弟があそこでリニア開発を続けてきまして、最後は取締役でした」
また、学者の世界の話が出るとする。すると、こうだ。
「妹婿が東大工学部の教授でしてね」。ただしこの話しにはすぐに必ずこう付け加える。「その後離婚しました。子ども三人は妹が引き取ってますが、彼の方は最近亡くなりましたが、核融合が専門でしたから、生きていたら福島事故のことでも色々教えてもらえたでしょうに」。開けっ放しの一面を伴った癖なのである。
こんな調子で兄の話、父の話。僕の周りはいわゆる「偉い人」が多いのだ。そんなわけでさて、「なんて嫌な奴!」ということになる語り口、癖なのである。会話の脈絡に関連付けて発するにしても、普通に世間を知った人などからすれば当然そうだろう。「虎の威を借る狐」よろしく、「嘘の多い自慢屋?」のレッテルすら貼られかねないのに、こんな癖がずっと無くならない。こういう語り口場面の数々がガバーッと頭を襲ってきて、一人の時など自己嫌悪の大きな悲鳴を上げることさえあるのに。自分の自意識の強さや、ある人に「僕を『誤解』されたかな」などやを悩んでいるときに、必ず起こる悲鳴である。そんな声が連れ合いに聞きつけられて、「どうしたの」と心配されたのも一度や二度ではない。もう病気のようなもんだ。
ただこの僕、「自慢屋」は外れではなかろうが、欠点や、人が隠しがちなこともいくらでも喋る、嘘が少ない人間だ。細かい嘘などは最たる品のなさと考えている。五十年連れ合いを見続けても、自分なりに世を見た経験からも、これは間違いない。例えば「僕はもの凄い薄給の人生で、○○万円以上にはなったことがないんです」とか、「美術とか書道とか、視覚の芸術には根っから素養がありません」とか。また、公私両面とも、必要な時の自己批判などは潔いぐらいのものだった。
こんな僕が50を過ぎた頃から、ある同人誌に入って小説や随筆を書いている。若い頃は、「あんなこと自意識の強い嫌な奴だけがやることだろう」としか見ていなかったのに。まー、老後の備えの一つとして、文章も修行しておこうという程度の動機だったと思う。なかなか熱心な会で、年一度の本の発行以外に、A5版20ページほどの冊子を毎月出している。1ページが600字ほどだから計一万字ほど、400字詰め原稿用紙にしたら25枚にもなろうか。それがもう250号も出ているのだから、十数名でやっている会としたら、なかなかの歴史と誇って良い。
この冊子に向けて、僕も毎月何かを出しているのだがさて、こういう所に載せる文章らしい文章を書こうとすると当然のことながら、人の喜怒哀楽に関わっていくことになる。文学とは人間を書くものであって、人間を描くということは、そうである以外にないからだろう。ここにいつも僕の悩みが生まれる。喜び、楽しさの方を書こうとするとどうも、「自慢」にしか読んでもらえないようなのだ。テレビに登場してピースピースとやっている子どもも多い時代、大人をもすぐにそんな風に見る傾向が強いのだろうとしか感じられないのだが、とにかく「読者って意地悪なもん」と感じられて仕方ない。孫の事を作品にすると、「可愛い」などという言葉・視点を意識的に全く排除して観察に徹しているのに、「孫自慢に名句なし」同様の反応しか返ってこないし。そこで今度は、わざと怒、哀の方に傾いてみせることにもなって行く。例えば、こんな随筆を何本も書くとか。
【 家出に限る
外は雨で、ずっと散歩もできない。携えてきたギターだけの民宿生活丸二日目も終わろうとしていた寝床の中の心中は、ちょっとのほの暗さに、大いなる開放感。そこにさっきふっとこんな不安が過ぎり、それに取り憑かれてしまった。「鼓膜が破れるとか、脳血管の一部が切れるとか、何か事故でも起こってはいないだろうか?」。前々日の夜に起こったことを何度か反芻してみても、不安の泥沼に沈んでいくばかりだ。
結婚して四十五年、数十年ぶりに連れ合いを殴ってしまった。過去に二度このようなことがあったと記憶している。一度目は今回と同じく平手で殴って「倍(の暴力)になって返ってくるんだ!」と学んだ時。今一度は、その教訓が心に引っかかっていて物に当たり、文字通りにちゃぶ台をひっくり返したものだ。いずれも、俺から見たら「言葉の暴力」に「堪忍袋の緒が切れた」のだが、今回も同じ経過・心境からのこと。俺らはこの寸前までの喧嘩を年に何度もやるが、今回驚いたのは、「倍返し」関連が皆無だったこと。山場の言葉なら俺も負けてはいないから、その相乗的エスカレートが過ぎた結果、ちょっとずつ間を置いて一発ずつ、実に三発も殴ってしまったのに。それでも黙らなかった相手も大したものだが、そういう相手にかそれとも自分の行為にか、嫌悪でなのかショックからなのか、とにかく、翌早朝、密かに生まれて初の家出を敢行した。預金通帳、一ヶ月は暮らせる装備、ギター一本と楽譜数冊などを寝る前に準備しておいて、しばらくは帰らないつもりで。何処へ行こうかと色々考えたが、当面父の故郷の島で民宿にでも泊まることにした。何せギター一本あれば一日暮らせる俺だし、生あるだけで二人の預金通帳それぞれに一人前の月収も振り込まれて来ると計算もしていた。
三日目の朝も雨は相変わらず続いている。いったん俺を襲った不安は、長年かかって選び抜いてきた大好きな暗譜曲リストを順に弾いていても、一瞬も去っていかない。そこで思いついたのがこれ。家に電話をしてみよう、応答があれば無事な証拠。が、受話器を取る気配もなくて、もはや居ても立ってもいられなくなった。帰宅するしかなかった。
さて、帰宅して、連れ合いの安全確認はできたが、しばらくは無言生活が続いた。第一印象はこれ。相手は意外に落ちついている、と。俺の方は、積もり重なったものをもう許せなくなっているというのに。一見普通の生活に戻ったかという一ヶ月ちょっとの後、今度は公然たる告知をして、同じ所へ二泊三日の家出。今度感じたものは、ほとんど開放感だけだった。帰って翌日の今日の会話が、これ。
「これから喧嘩になったら黙ってすぐに家出するから」
「私はもう、何も言わないから良いよ」
そんな言葉、もうとっくに聞き飽きたって、知らないの? そこで気付いた。超巨大な内弁慶の過干渉には、家出が一番! 俺が飯など家事一通りに困らないことは十二分に知っているのだし、あの島に安い間借りでもしておこうか。】
(続く)