これを数多くの先立った仲間に捧げます。
人間はこの世で言う「死亡」した状態で終わりじゃない。それは一枚、殻を脱ぎ捨てただけ。面倒な体を抜け出して、魂(たましい)と多分幽体も自由になる。捨て去った肉体は、もはや意味を持たない。ただの元素の集合体であり、DNAが残ったところで、使いようが無い。
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葬式をやっている頃、見えるのは「光」。温かくて、この上なく優しい光に向かって行く。そこは「ふるさと」であり、「あの世」とも言い、「集合的魂」とも言う。
ここでは、まだ個人が保たれている。大体が民族ごとに寄せ集まって、一種の心的現象を構成している。
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その状態を、砂糖水の中のサクランボに例えて説明している。サクランボの外皮は、時間と共に薄くなり、いずれは本体と同化することになる。
この二つの世界は同時に存在し、互いに影響しあっています。あの世の指令で突然変異が起こるのです。イエスを始め突出した人間は、あの世と交信をしながら生きてきたのでしょう。
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色んな事例、例えば「臨死体験」や、東日本の時のタクシー運転手の話。自分が体験した、ある高校の潜水事故の後の寄宿舎での出来事。
それらから、次のステップが在る事は事実だと思っています。
だから今の宗教が、残された人に何をしてくれているのか。何のために宗教があるのか。疑問に思っています。
何を言いたいのかというと。よぼよぼの状態になっても、希望は持てるということと。死んだ人が気の毒じゃなくて、残された人の方が大変な時もある。という、いわば価値観の逆転というか。
天気が悪いから、こんなことを書くんだろうなあ。この厚い雲の。早く上に行きたいよ。
とは思わない。もっと大事に、体を酷使したいと思う。