兼好法師の徒然草に、確か出てきた記憶がある。この世の中で、小さきものは
皆、いとおしい。夏の寝苦しい夜、ブンブンと飛び込んでくる迷惑なカナブンも
子供の頃はこのくらいかわいい。3ミリか4ミリしかないくせに、雑草の間に
キラッと光り、存在を訴えてくる。まるで歩く宝石のようだ。
私にとっては最高のモデルさんだ。さつきの葉を食われてもまったく気にならない。
ついでなのでアサガオの定植も始めた。
最初に出た組は本葉3~4枚になった。用土は使い回しの、つぼけてあったヤツに
あらかじめ肥料を混ぜておいた。
7号鉢か8号鉢にゴロ土も使わず、ポットの根も崩さず、アサガオが気が付かない
ほど自然に植え替える。根腐れはしない。雨が降っても浸透するに任せる。水が
移動しているうちは腐らない。
江戸時代、ダーウィンより早く進化論を唱えた鎌田柳泓は人間も千変万化して
下等動物から進化したものと考えた。その頃、アサガオは変種を次々生み出して
いて、それをヒントにした彼の気持ちは愛好家として良く分かる。赤と青を一緒に
育てている今年のタネ(遺伝子)はきっとぼやっとした中間色になるはずだ。
かたやダーウィンはキリスト教の影響化にあって、人間だけは神がお造りになった
という考え方に縛られ、そこまで言及できなかった。その点からも鎌田柳泓の方が
えらい。ついでに言うと、人類は突然変異と自然淘汰によりこの姿になったとは
思わない。それは散弾銃でやみくもに大理石を狙ったらミロのビーナスが出来た
というに等しい。それほど無理がある。この件はまたいずれ述べる。おそらく人類は
何か(誰か)によって都合がいい労働力としてサルから遺伝子操作されたに違いない。
間に合わせだから、サルの旧脳によって犯罪が絶えないし、あとから追加された
大脳皮質は旧脳の暴走を止められない。世の中の頂点に君臨する人間は欲望
丸出しで生きている。それがこの世の構造だからしかたがない。
オレにはカネより何よりこの小さな生き物との会話が楽しい。
そういう時間が持てる。
それでいいじゃないか。
ps.コガネムシじゃなくて、ハムシかも。