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日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その91)

2007-05-20 07:22:58 | Weblog
○専門4年、1月31日(土)晴。
 卒業試験と言っても、何か試験らしくないなあ。自分でも信じられないくらいに落ち着いている。余裕があるのかなあ。とても快調だ。
○専門4年、2月2日(月)晴。
 頑張れ五つ子、無事に育ってくれると本当にいい。鹿児島市立病院のスタッフ、池ノ上先生(現在、宮崎医科大学産婦人科教授)も帰られて、素晴らしいスタッフだ。どんな所にいても、実力があることが一番大切だ。
○専門4年、2月18日(水)曇。
 午前中は、南嶋先生のウイルス学各論の講義を聴いた。午後は、城山観光ホテルでの循環器の偉い先生方の講演を聴いた。最後は、外国の人で、英語で話された。
○専門4年、2月25日(水)晴。
 前田先生の甲状腺の講義を聴いた。午後、(宮崎県から来た)福田先生のリケッチァと食中毒の講義を聴いた。大分県にも、野口病院の甲状腺、調先生の耳鼻科は、有名だ。
○専門4年、2月26日(木)曇。
 加地博士のカゼの講義を聴いた。とても為になった。カゼって、医者も本当はどう治していいのか知らないのだなあ。こんなにありふれた病気なのに。医学って、あまりにも範囲が広くてちゃんと全てをやっていくのは、不可能だ。医者になったからには、一生勉強しないといけない。医者は、一生学徒だなあ。
○専門4年、2月28日(土)雨。
 耳鼻科と泌尿器科の発表があって、万歳、卒業できた。長い試験だったなあ。(卒試は、自分の場合、追試は、一度も受けなかった。10名余が、一度で全てパスしていて、落ちた人は、追試で、その後も国試前で、大変だった様だ)
○専門4年、2月29日(日)曇。
 国試に関係ない科目の追試を受けていると思って、「為になるかも知れない本」をフルスピ一ドで書いている(27日の泌尿器科の試験が終わってから、直ぐに書き始めた)。自分の歩んできた道は、まさに、個性アル生き方である。思い出すと、感慨無量となる。今が問題意識が一番高い。時は今、今でないといい文章が書けない気がするので、1週間前後で、一気に書くことにした。
○専門4年、3月7日(日)曇。
 午後5時10分に、76ペ一ジからなる自分の著書「為になるかも知れない本」が出来た。最高に嬉しい。以下は、その中の終わりの一部分。

 この本は、あくまでも、"為になるかも知れない本"であって、今からのあなたに少しでもプラスになることがあれば幸いだと思って書いたものです。何分、未熟も未熟もいいとこなので、今後、ご指導賜ることが出来れば幸いに存じます。
 なお、校正に携わっていただいた長井恵子嬢には、心から深く感謝申し上げます。10年後、"絶対為になる本"が書けることを夢見て・・・。

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医者の奥さん

2007-05-19 19:34:57 | Weblog
  時代とともに結婚相手に望む条件は変わっても、年収もステータスも充分な「お医者様」は別格だ。gooランキング「コンパしたい男性の職業ランキング」でも1位は医者系。コンパで知り合って、できれば結婚につなげたいと思う女性も多いだろう。

 ○恵(34歳 主婦)もそんな1人。昨年の春、「医者の妻の座」を射止め、「これで人生、勝ち組よ!」と公言していたのだが…。このところ表情がさえない。話を聞いてみた。

 「タカシさん(仮名 35歳 総合病院勤務)が忙し過ぎるのよ。同僚が辞めてから宿直も増えたし、休日だって、まず病院に行って患者さんの様態を確認してから予定が決まるの。患者さんの様態が悪いと病院に残ることも多くて…」と愚痴が続く。新婚の頃2人で行ったコンサートでは、始まる直前に携帯が鳴り、彼だけ病院に戻ってしまったとか。そんな出来事も1回や2回ではないという。

 タカシさんの年収は同年代会社員の1.5倍はあるが、結婚と同時に購入したマンションのローンや奨学金の返済、実家への仕送りや開業のための貯金などで、彼女が考えていた“セレブな生活”からは程遠い。

 同じ医者だが、病院に勤務する「勤務医」と自分の城を持つ「開業医」では、生活のサイクルも責任も、もちろん収入だって異なる。“開業医の妻”はリッチな生活ができるのか?首都圏でクリニックを開業する医者の妻、聖○(42歳)さんに話を伺った。

 「勤務医時代に比べると、夫が家族と過ごす時間は増えたけど…。開業のための借金は半端じゃないし、スタッフへの支払いだって大変。切り詰められるところは切り詰めて生活しているわ」。聖○さんとご主人が知り合ったのは学生時代のテニスサークル。ご主人30歳、聖○さん28歳のときに結婚したそうだ。「夫がインターンのときは、年に4回しか会えなかったの。別れなかったのが不思議なくらい(笑)」。いつ誰に会ってもいいように、派手でなく、地味でなく、上質な服装を心がけているのも開業医の妻の心遣いだとか。
 聖○さんの友人には“医者の妻”も多い。「嫁ぎ先が“代々医者”の家系だと、ご両親や一族のプライドの高さに悩まされることも多いみたい。“医者にさえなればいい”って甘やかされて育ったせいで、結婚しても収入を全部自分のために使ってしまう人もいたわよ」(聖○さん)。

 勤務医、開業医にかかわらず、安易な憧れで医者と結婚してしまうと、理想と現実のギャップに悩むことになりそうだ。“医者の妻”をお気楽に考えている○恵の将来も心配になってくる。それでも、聖○さんから「独身のお医者さんを紹介しましょうか?」なんて言われると“セレブな生活”を想像する自分が…。


 以上は、あるサイトにあった内容。かなり、現実味の内容かなとも思う。医師は、自分のしたい仕事が出来ているので、それなりに満足し、家に帰れば、リラックス出来るパートナーがいれば、最高。これ、医者の奥さんが勝ち組でなく、いい奥さんと一緒になれた医者が勝ち組かも知れない。
 よく、医師の家庭は、母子家庭と言われる。こんなはずでなかったと医者の奥さんの多くは、思っているに違いない。子どもの問題も、沢山抱えているケースが多い。しかし、一番の危機は、次のケースだと常々思っている。
 男と言うのは、医師免許取得後、卒後10年近くして、順調に行ける様になると、自分の力でここまで来れたと思いたいもの。そして、それを誰かに認めてもらいたいもの。理想的には、それを賢い奥さんが充分に認めてあげれば、事の多くは、無事におさまる。
 しかし、元々家がリッチな奥さんで、いろんな時に奥さんの家から援助してもらっていたり、又は、苦しい時に収入の多い奥さんから援助してもらっていると、どうしても、奥さんの方が、自分の力でこの人がこれだけ世の中から認められる医者になったのだと思いたいもの。で、それをついつい口に出してしまったり、態度に出すと、最悪となる。いつも女性から囲まれている医者は、ついつい、自分に同情してくれる女性と意気投合してしまう。このケース、私は、沢山見てきている。自分の医学部の同級生で、それで離婚に走ってしまって、彼が再婚の時に披露宴で出席した経験も、私はしている。
 多くの男性は、子育てにしても、家のことにしても、奥さんに大変感謝しているもの。しかし、それを面として言えないのが日本男性。内助の功の力をモロに口に出すケースの多くは、バリバリ稼ぐ女性である。だから、もしも、結婚する時に、複数で迷っている医師がいるとしたら、自分との相性も価値観も納得しているとしたら、断トツ、私は、貧乏の家の出の人で、経済的に自分に頼れないと生きて行けそうにない女性の方を選ぶ。とても忙しい男性にとっては、そんな女性と一緒になった方が、幸せになれると思っている。忙しい日本の医師には、安住の場所が絶対に必要である。家には、戦士は、二人も必要ない、これが、私の持論です。
 女性の収入に頼れないと結婚できない男性は、結婚する前に、役割分担をはっきりと決めて、それを両者が充分に納得してから、結婚すべきだと思います。新婚旅行や、バラ色の生活を夢見て結婚生活をイメージするよりも、現実に起きる問題をどう解決するかを、じっくりと話し合ってから結婚するべきでしょう。エッ、出来ちゃった結婚だったらって、そしたら、生まれるまでに、じっくりと考えて下さい。当然ですが、子どもが出来ると、親としての責任が伴いますから!
 夫の方が収入が少なくて、妻の方が仕事で忙しい場合は、当然、主夫って感じで、掃除洗濯子育て、妻以上の頑張らないといけないのは、当たり前でしょう。
 女性の産科医や小児科医が、子育ての為に、仕事を辞めるケースがある。これは、最も当然なことをしていると思っている。後は、それ等の有能な女性医師が、家庭と両立して仕事が出来るシステムを出来るだけ早く公の機関で確立することであろう。医師を増やすよりも、まず、それを急ぐべきである。

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ある脳外科医との会話

2007-05-19 11:22:58 | Weblog
  このままで行くと、後10年後には、曲線をそのまま延長して見ると、外科の入局者は、日本では0になるらしい。その中でも、心臓外科や脳外科などの特殊な外科は、尚更、少なくなるらしい。
 脳外科だと、一人前になるまでに、10年を要するとのこと。それ以後、手が振えなくて、ちゃんと油に乗った感じで出来るのは、10年ぐらいで、後は、その延長。腕があっても、体力的に長時間の手術に耐えられなくなり、スピ一ドも落ちてくるとのこと。内科だと、50歳過ぎても充分に出来るけど、外科系は、きつくなっているとのこと(もちろん、個人差は、大きいと思われるが)。
 外国だと、脳外科医や心臓外科医の給料、他の科の数倍あるとのこと。このままだと、日本人の優秀な外科医は、外国に行ってしまうだろうとのこと。何せ、日本では、他の科と給料が同じだし、それに、脳外科医だと、アメリカの手取りの10分の1でしかない。
 なり手は、いない。いても、日本にはいない。これから先、外科系の医師確保で、日本中が、騒ぎ出すかも知れないなあ。
 田舎の病院は、数は少ないが、それなりに大変だ。当病院でも、外科医が、一人になっている。副院長なのに、当直もしている。産科も整形も眼科も、一人で頑張っている。


  欧米では、新生児医療は、若いドクタ一が中心になってしている。日本の様に、小児科医が60歳近くになっても、お産で異常児が生まれた場合、深夜でも起きて新生児を診ている先進国、あるのかなあ。(数が年に数例しかないので、それが可能なのですが・・・)。

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為になるかも知れない本(その90)

2007-05-19 05:41:25 | Weblog
(今から、31年余前の日記です。私の著書、続・為になるかも知れない本(上)からの内容です)
○専門4年、12月20日(土)晴。
 一外科の口頭試問があった。阿久根、相良、大熊、西の4名の先生からそれぞれ質問があり、バッチリ答えられた。二外科のレポ一トは、「学生から見た医学教育」について書こう。
○専門4年、12月23日(火)曇。
 国試の為の問題集がやっと来た。学校は、国試の為の勉強など、コの字もしない。真面目に勉強してきているので、落ちるはずはないとは思うが、何となく不安。
○専門4年、1月1日(木)晴。
 年頭の所感は、1、急がず休まず一歩一歩確実に、2、病態生理の強い小児科医になる、3、この1年間が最も大切、4、実力者であれ、5、恵ちゃんを大切に。
○専門4年、1月4日(日)晴。
 規則正しい生活をすることが大切だ。毎朝4時から勉強すれば、試験までに、8時間近くも勉強できるなあ。時々休んで、無理をしないことだなあ。風邪を引かないことだなあ。
○専門4年、1月9日(金)晴。
 一内の発表があった。59人、合格していた。嬉しかった。
○専門4年、1月12日(月)晴。
 皮膚科の臨床講義を下の学年と一緒に聴いた。とても為になった。講義の価値が今になってやっと分かる。(卒業試験中に、私の場合、下の学生に混じってしばしば自主的に講義を聴いた)
○専門4年、1月20日(火)曇。
 産婦人科、バッチリして行ったのに、問題、変なのが多かった。70点台だなあ。放射線科が合格していた。高ゲタを履かせたのか、16人落ちていた。松果体腫瘍についての脳外科の臨床講義を聴いた。
○専門4年、1月21日(水)晴。
 (専門1年生と一緒に)南嶋先生のさえた講義(ウイルス学総論)を聴いた。
○専門4年、1月22日(木)雪。
 昼の一時まで勉強して、午後、川先生の免疫についての講義を聴いた。
○専門4年、1月23日(金)晴。
 皮膚科の試験問題、1、湿疹と皮膚炎、2、SLEの検査と所見、3、黒色をきたす腫瘍、4、乳・幼児の紅皮症をきたす疾患について書けの4問で、西洋紙4枚だった。70点は取れただろう。
○専門4年、1月29日(木)晴。
 田中先生の弁膜症の講義を13:30~16:00までバッチリ聴いた。とてもいい講義だった。

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教育とは、どうあるべきか?

2007-05-18 09:36:12 | Weblog
  平成19年5月17日(木)に、ジェ一ンズ邸に行った。それまで、ジェ一ンズかジョ一ンズか、ちゃんとした名前さえ知らなかった。彼は、近代化を進めた人、正に、札幌のクラ一クであった。
 明治4年(1871年)に、熊本洋学校の教師として赴任したアメリカ人。彼の教育は、今までの慣習を大きく打ち破るものだっだ。そして、そこの卒業生から、その後日本内外で活躍する教育家や宗教家や実業家のリ一ダ一が出ている。
 彼の教育とは、「教育とは、授けるものではなく、自ら啓くもの」であった。
 彼は、全て、英語で授業を行った。その具体的な特徴は、次の4つであった。
1、自学自習:教育とは与えられるものではなく、自ら学ぶもの。教えることは、最もよく学ぶことである。上級生の及第生が、下級生の先生役をする。
2、班別学習:少人数の班に分けて授業をする。
3、演説教育:発表能力を高める為に、英語で演説をする。
4、男女共学:(周りから、かなりの抵抗が当初あり)


 又、彼は、衣食住の安定、日常生活の充実こそ全ての基礎だと考え、
・野菜を作り(キャベツ、レタス、タマネギ、アリフラワ一)
・パン、牛乳、牛肉の普及
・果樹栽培、西洋のスキ・キワや印刷機の導入
などを積極的に行った。


  He thought that education is not a thing to be given but to study oneself. He taught that teaching is the best way to study.

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熊本を歩きながら考えた

2007-05-18 09:34:04 | Weblog
 徳富蘇峰は、弟の徳富蘆花と違って、長寿で、95歳までも生きている。ジャーナストの後藤是山(ぜざん)は、99歳までも生きている。なのに、小泉八雲や夏目漱石は、早く亡くなっている。どうしてかなあ。
 蘇峰は、奔放に生きている。顔立ちもいいが、執筆以外に、学校を作ったり、政治家になったり、あちこち旅行をしたりしている。後藤是山は、4歳の時に、実の母をなくしているのに、次の母の看病の為に大学を中退している。顔付きが小さい時から温和な顔をしていて、その顔が晩年までずっと続いている。人の面倒見のいい人で、その傍ら、俳句の世界に入ったり、熊本の文豪を世間に知らしめることに大いに貢献している。夏目漱石を世に大きく広める上で無視できないのは、この人の存在であろう。
 夏目漱石は、環境的に大人の裏を見て、育っている。小泉八雲も、生い立ちは、恵まれなかった。目も不自由で、かなり律した生活をしている。徳富蘆花も、真面目で、敬虔なクリスチャンで、小泉八雲と同じ感じに自分には思える。
 草枕は、この熊本で出来ているが、世の中、その初めの「智に働けば・・・」の通りかなあとも思う。
 昨日(17日)は、ジェ一ンズ邸、日赤発祥の地、漱石3番目の家に行き、その後、後藤是山記念館、家内と合流して、漱石5番目の家、伝統工芸館、現代美術館に行った。
 結構、火曜、水曜、木曜の3日間で、熊本あちこち見て周り、新たな発見がそれなりにあった。


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為になるかも知れない本(その89)

2007-05-17 07:30:45 | Weblog
○専門4年、12月9日(火)曇。
 二外科のポリクリの学生(前週と今週は、二外科のポリクリであった)による発表があった。術後の「Low output syndrome」についてで、主として、「Fallot四徴」についてだった。○○が延々と25分間位話し、○○が10分以上話し、自分は3分で切り上げたら、先生方から拍手が起こった。思わず成功したって感じがした。自分は人を教えることが出来る、そう思った。
○専門4年、12月10日(木)曇。
 MS(僧帽弁狭窄)のオペを、○子先生の後ろにピッタリとくっついて見た。初めから終わりまでバッチリ見た。オペ中、冗談を飛ばしながらしている。絶対に失敗してはいけないと思って過度に緊張した状態では、3時間ももたないと思われる。外科医が身に付けた知恵であろう。朝の9時から始めて、夜の9時になってもまだ終わらないオペもある。外科医って大変だ。
 ○子先生は、学生の講義の時に、次の様に言われたことがあった。「患者さんが手術で亡くなった時は、どうしようもない気持ちになる。五分五分では、したくない。青い顔をして入院した子どもが術後しばらくして病棟を飛び回っているのを見る糸、嬉しくて生き甲斐を感じる。気の小さい人ほど、外科医になって欲しい・・・」と。
○専門4年、12月15日(月)曇。
 鶴丸高校(60年度、東大19名、京大9名、阪大12名、九大47名、お茶の水7名など)の大学進学の為の資料を、高校三年の時に数学を教わった渡辺○一郎先生(母校佐伯鶴代高校の進路指導の先生)にコピ一をして送った。お金が掛かったし、時間も掛かった。何で今でも自分がこんなことをしているのか、分からない。しかし、自分が逆の立場だったら、とても嬉しいと思う(大学に受かった時も、修猷学館の数学の問題集を差し上げた)。渡辺先生が最後の授業の時に残した言葉は、「今の時代は、同じ様なタイプの人間ばかりだ。何でも大量生産の時代で、人間も、その通りで、コピ一された様に同じ様な人間がどんどん出来ている。どんな時にも個性をなくすな。個性ある人間になれ!」であった。渡辺先生の教育の成果が、自分に関してやっと芽が出たって感じだ。渡辺先生は、ただひたすらに生徒の為に頑張っておられた。自分も、ただひたすら患者さんの為に頑張らなければならない。
 (渡辺先生は、既に、今は、他界されている。亡くなられた時、自宅に行って合掌させて頂いた。その時、先生の奥さんが言われた。主人は、地位には、全く関心のない人でした。とにかく、数学が好きで好きでたまらなくて、教えることも好きで、それで最後まで行った人でした。」と。


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続・熊本めぐり

2007-05-16 22:06:58 | Weblog
 平成19年5月16日、ホテルを出て、まず、「徳富記念館」に行った。
 館長さんが、丁寧に解説してくれた。5歳違いの徳富蘇峰と徳富蘆花が、兄弟で、とっても仲が悪かったことを知った(私の知識は、いいかげんなもので、それまでは、親子と思っていた)。最後の15年間もの長い間、二人は絶交状態にあって、蘆花が60歳で亡くなる時に、やっと和解している。兄の蘇峰は、95歳まで長生きしている(とてもハンサム)。
 どうして仲が悪かったかであるが、館長さんによれが、蘇峰は、いつも、蘆花に対して、常に年下で見る感じで、指導的立場で接していたからとのこと。蘆花の言うことなすことにいちいち口を出し、いつまでも兄貴面をして、自分を対等の人間として認めていないと弟の蘆花は感じていたらしく、それが非常に苦痛であったらしい。
 蘆花は、敬虔なるクリスチャンで、極めて真面目な人間で、几帳面で、自分を律し、曲がったことが大嫌いな人間だったらしい。そんな蘆花にとって、蘇峰は、したいことをし、少し世間ずれを起こした人間に思えて、蘆花にとっては、そんな兄が、どうしても我慢出来なかったらしい。
 蘆花は、憧れのトルストイに会いに行って実際に逢い、トルストイの平和主義に強く影響を受ける。蘆花は、一人での農作業がとても好きで、絵を描くのも上手であった。
 不如帰(ほととぎす)の作品は、当時、50万部も売れて、その中の主人公を浪子とし、女性に文学の上で初めて「子」を付けたことで、それ以後、皇族にしか付けなかった子を、多くの女性の名前に子が付けられる様になったとのこと。
 それから、少し、雨が降って来たが、タクシ一で「熊本国際民芸館」に行った。グァテマラ展があっていた。そこで、39歳で日本を出て、スペインに20年間も住んでいる男性に会った。彼の話は、実に面白かった。
 「田舎は、世界中、どこでも同じですよ。皆さん、世界中、とこに行っても優しいです。顔の色と言葉が違うだけです。スペインでは、バルセロナとマドリードが危ないです。バルセロナの日本大使館だけで、この半年で、300件ものパスポート略奪があっていますから。日本人のパスポートが、一番高く売れますから。ツアーで行っても、やられています。別にスペインだけでなく、ヨーロッパあちこちでそんな感じになっています。今、ヨーロッパは、すごいインフレです。取る人は、そこの人でなく、南米やアフリカやジプシーが多い様です。彼等は、仕事がちゃんとないですから。・・・今すんでいる所、スペインの南にある田舎町ですが、最高にいい所です。日本も、私は、大好きです。・・・」などと言われた。
 向こうの人と結婚し、時々、日本に変える様で、画家で生計を立てているとのこと。
 それから、「熊本市動植物園」に行った。昔から、何故か、私は動物が好きだ。いろんな動物がいたが、私は、象を見て、涙が自然に出てきた。こんなこと、生まれて初めてだった。歳のせいかなあ。
 16時から、象を調教している所が見れるとのことで、雨が降る中、その時間に合わせて見に行った。調教する人が5人ほどいて、2頭の像を、それぞれ一人ずつが中に入って、調教していた。合図で大きな象が横になり、それから合図で立ち上がり、前足後足を上げたりして、芸をしていた。その後、りんごやにんじんやパンや草を沢山もらって、中の人間は、いなくなって、外には、ガラス越しに見る自分だけとなった。
 象が食べているのに、鳩が10匹近く来て、パンを鳩同士でつつき合いながら競争して食べている。鳩は、象の足元で、うろうろし、鼻先でもうろうろしている。しかし、そんな鳩を象は鼻であしらうことは、全くしなく、もちろん、踏まない様に細心の注意を払っている。それが見ていて、よく理解できた。それを見て、自然に涙が出て来た。
 人の世界も、象の生き方をお手本にして、冨を独り占めせずに、ましてや、奪う会うことなどせずに、分け与えればいいのに。
 ヒトを除けば、動物の世界では、一番強いと百獣の王であるライオンでさえ認めている象、そんな気は優しくて力持ちである象みたいな国も人間も、少ないなあ。 

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熊本めぐり

2007-05-16 08:44:09 | Weblog
 グルグルと熊本城の周りを歩いたって感じの1日であった。 まず、「小泉八雲熊本旧居」に行った。そこで、八雲と漱石の講義の仕方が全く対照的だったことを初めて知った。二人とも、第五高等学校と東京帝国大学で英語を教え、八雲の後を漱石が教えている。
 八雲は、時間にパンクチュアルな人間で、チャイムが鳴ると直ぐに始め、終わりのチャイムが鳴ると、直ぐに止めていた。教科書は一切使わず、いろんな本も持って行くことなく、出欠を取ると、黒板の左上から右下まで、空で休みなくどんどん、それもびっちりと書いて行った。書くスピードも、生徒がちゃんと書ける様に考えて書いていた。英語の文法についての板書されたもののノートの写しを後で見ると、無駄がなく、ほぼ完璧に近い感じのものであった。しかも、八雲が講義中に話すその一言一言までが、文学的な表現だったらしい。しかも、毎年、その教える内容を変えていたとのこと。学生の受けは、極めて良かったが、その準備の為に、八雲は、かなりの時間をさいていたと思われる。
 一方、八雲の後に教えることになった漱石の講義は、極めて雑な感じに学生には思えたらしく、八雲と全く対照的で、生徒の反応を確かめることなく、超スポードでどんどん進み、あっと言う間に1冊の本の解読が終わり、付いて行くのが大変だったらしい。で、当初、案の定クレームが付いていたが、何冊もの英語の本がそんな感じで読破される内に、漱石だからこそそれができたと言う評価に変わったらしい。
 そんな話を、そこの館長さんと延々と1時間以上話していた。
 八雲は、左の眼は、友達のボールが当たって失明していて(そのことに関しては、本人は、自分の口から語ることは全くなかったとのこと)、右の眼も、あまりよく見えなかったらしい(それで、彼の顔写真は、いつも、右から撮られている)。しかし、自分の小さい時は、家族に恵まれなかったのに、家族をとても大切にし、元ジャーナリストの経歴を生かして、多くの作品を残している。
 次に、「大名屋敷・旧細川刑部邸」に行った。凄い広さだった。掃除が大変だろうなどと思った。
 それから、熊本博物館に行ったが、プラネタリウムが15時と知って、又、テクテクと暑い中を歩いて引き返し、「熊本県立美術館」に行って、偶然に、横山大観の作品を見ることが出来た。又、前、少し、佐伯で教わっていた水墨画がしたくなった。その隣の建物で、子どもの版画展も同時に開催されていた。作品が沢山並べられていて、金賞や銀賞や銅賞など、賞が付けられていたが、その賞を付けるのも、大変な労力だったろうなあと思って、受付の人に言ったら、飾るのも大変だったらしい。
 その後、「熊本城」に行き(今回で2回目)、きび団子でお腹を満たした後に、天守閣まで一気に上がって写真を撮った。きび団子を食べた所の店員さんに聞くと、韓国の人がどんどん多くなっていて、中国の人の倍ほどあり、日本人は、少ないと言われる。で、簡単な韓国語の単語を覚えているのだが、韓国語で何も書かれていないので、書いた方がいいですよと余計なアドバイスをしてしまった。
 その後、再び、又暑い中をテクテクと歩いて、「熊本博物館」に行って、自分の好きなプラネタリウムを見た。係りの人に、終わってから、おとめ座のと「スピカ」としし座の「デネボラ」と「レグルス」は、何語ですか?と個人的に質問したが、その場で本を見て調べていたが、よく答えてもらえなかった。質問が悪かったかな・・・(アラビア語じゃないかなと思って質問したのだが、・・・)
 その後、もう、疲れてしまって足が痛くなり、歩く元気がなくなって、タクシーでホテルまで帰った。
 ちょっと休んで、風呂に入って、夕食を摂って、やきいもを買って、部屋で食べて、直ぐに寝てしまった。
 ホテルは、5000円ちょっとであったが、前日のホテルよりもずっと広く、いいホテルであるが、昨日のホテルの方が、朝食が豪華だったなあ。

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為になるかも知れない本(その88)

2007-05-16 08:42:29 | Weblog
○専門4年、11月18日(火)雨。
 佐藤と言う大分県出身が、ホルモン作用部位について講演をした。とても詳しく勉強されている人だなあと思った。理学部出身者の方が、基礎医学的な研究に関しては、医学部出身者よりも、プロって感じだ。又、県医師会館で、石橋薬剤部長さんの病態生理からみた薬理学の話があった。先生は、自分なりに体系を組み立てられている。そして、何よりもあのカラフルな絵が素晴らしいなあ。
○専門4年、11月19日(木)晴。
 春の国家試験の選択科目は、精神科と整形外科となっていた。今回の秋の国家試験は、鹿大は、24名中16名合格していた。国立大学では、5番目の成績で、しかも、落ちた人も50点未満は、わずか1人となっていた。しかし、合格した人も、7割を切っている人が16名中15名となっていた。皆、すれすれに合格しているなあ。秋の方が難しいのだけは確かだ(気まぐれ厚生省は、秋は60%で線を引き、春は55%で腺を引くらしいが・・・?!)
○専門4年、11月20日(木)晴。
 今日で、人体発生学を終えよう。もし、まだ時間があれば、残りの病理か水と電解質をしよう。病態生理の強い医者になりたい。
○専門4年、11月26日(水)曇。
 教授の回診があった。(整形外科の)ポリクリで、しっちゃかめっちゃかに言われた(どのグループも同じだが)。整形外科外来は、患者さんが多い。産婦人科と整形外科が頑張ると、病院は経済的に潤うみたいだ。小児科が一番お金が入らないらしい(未熟児や小児外科は、更に)。でも、いいのだ。自分にとっては、一番やり甲斐のある科と思っているから。
○専門4年、11月30日(日)曇。
 11月も今日で終わりか。風邪を引いて(多分アレルギ一性鼻炎)、抗ヒスタミン剤を飲んだせいか、少し良くなった感じ。恵ちゃんが買ってくれた足温器がいい。ポリクリも、次の二外科で、とうとう最後になってしまった。学生生活も、これで本当に終わりになる。6年間の小学校+3年間の中学校+3年間の高等学校+2年間の予備校+6年間の大学で、20年間。長き年月の最後だなあ。

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