大阪大空襲は3月と6月が甚大な被害をもたらした。すこし書こうと思ったが、今執筆中の北野の定時制の歴史ですでに書いたところから引用した。何かの参考になればと思った次第。
6月大阪大空襲と本校の被害
4月、5月は大阪に空襲被害はなかった。その間、建物疎開が強行され、3月半ばから6月半ばにかけて、市内で3万4902戸がとりこわされ、行政的措置で多くの人が家を失った。
4月1日には、沖縄本島に米軍が上陸した。5日、小磯国昭内閣が辞職し、鈴木貫太郎内閣へと移った。5月8日には、頼みのドイツが無条件降伏した。もう、戦争を続けているのは日本のみとなった。
6月の大空襲は、1日、7日、15、26日にあった。6月空襲は、米軍が3月に日本軍守備隊を全滅にした硫黄島から、P51戦闘機が発進した。1日の空襲は朝9時28分から458機のB29とともにこれを援護するP51ムスタング戦闘機が少数来襲した。7日は正午、B29が409機と多数のP51 が、15日は朝8時44分、444機のB29が大阪に来襲した。15日は焼夷弾のみであったが、1、7日は焼夷弾、爆弾、機銃掃射による攻撃であった。15日の攻撃は、比較的焼け残っていた大阪市の南東部と淀川の北側にむけられた。この日、本校が被害を受けた。26日の攻撃は、173機のB29による9時18分からの大阪陸造兵廠、住友金属への爆弾攻撃だった。
6月15日の第4次大阪大空襲で大都市への焼夷弾攻撃は終了し、以後、中小都市へその矛先がむけられた。『大阪大空襲』に引用されている米軍史料では、「日本の防空施設は超重爆群の長期間にわたる攻撃に対応するためには、哀れなほど不十分なものであった。すなわち組織、既訓練者、退避壕、消防器具、救助および撤退施設ならびに市民教育について不十分であった」
とのべている(『大阪大空襲』185頁)。これに対し、7日の空襲のあと、9日の朝日新聞は「我らの勝利は焦土の中から」「徹せよ“野戦生活”配給に頼らず備蓄で」とよびかけていた。
6月の4回の空襲被害を合計すると、焼失倒壊戸数は17万3906戸、死者は5754人、傷者は1万6502人、被災者は62万3382人にもなる。3月大空襲を上回る被害である。徹底して焼き尽くそうという意図があらわになっている。
3月から通しでみると、被災者113万5千人、焼失倒壊戸数31万余におよんだ。大阪市内22区のなかで最も被害がはげしかったのは、浪速区、港区である。それぞれ、空襲前の人口の96%、94%がいなくなった。大阪市全体では、空襲前の人口273万5954人が、104万9937人へと168万6017人減少した。じつに38%にまでおちこんだ。これには事前に疎開した人も含まれており、逆に被災しながらも市内に踏みとどまっている人もいる。
当時の記録には、空襲とともに黒い雨がふったとある。『大阪大空襲』(193~196頁)によれば、15日、8時44分の空襲開始直後の9時頃より雨がふった。広範囲の火災により、火焔は7000mにも達し、たちまちできた積乱雲は雨をもたらした。火災によるおびただしい灰が天をおおい、朝なのに真っ暗になる。灰を核にした黒い雨は、広島・長崎だけに降ったのではなかった。(小山仁示『大阪大空襲』146~196頁、『昭和大阪市史』第6巻617~631頁)
6月大空襲による本校の被害をみてみよう。
7日の空襲では、六稜会館、工作室、剣道場、食堂が全焼、体育館も柔道場の半分が焼けたが、本館への類焼はくいとめた。学校北隣の成小路国民学校(現在は本校敷地内)は全焼した。
15日の空襲では、学校防衛の任務についていた北野中学校2年生の中島要昌が防空壕の中で焼夷弾の直撃で即死、池田彰宏が六稜会館の前で脚に焼夷弾をうけ、治療中死亡、今木伊助が負傷した(『北野百年史』1319~1320頁)。空襲警報がでたときに、御真影や教育勅語は、「校長室の奉安庫から、校長の手で捧持され運動場の東端近くに設けられた土壇下のコンクリート造りの奉安所に安置された」(川井義通「六稜曼荼羅」『六稜会報』№16,1983年)のだが、中島・池田両君の入った防空壕は廃材で造った壕だった。
中島要昌の最期について、第二中学校教諭の井戸完の回想がある。そこに描かれた防空壕の見取り図と回想をつぎに引用しよう。
「私は、北野中学校の生徒約十名を率いて、北側の第二の壕に退避しました。点呼をし、二列に向い合って腰を下ろしました。空襲警報が鳴ると同時に、飛行機の大群が襲ってきて、あたり一面暗くなり、話声も全く聞こえない位の轟音で、雨が降るように焼夷弾が落ちてきて、校庭をすっかり火の海にして去ってゆきました。壕の中では、向い合った二列が耳をおさえてかがみ込んでいました。暫らくして私が『全員無事か、異状はないか。』と怒鳴り声で尋ねると、傍らの生徒が『先生、隣の1名がやられました。』と云うので、急いで近寄って『オイ大丈夫か。』と声をかけたが何の返事もない。安全な筈の防空壕なのに、被った鉄かぶとの後頭部が大きく凹んで息絶えている。全く一瞬の悪夢だった。よく目をこらして見ると、防空壕の直角になった部分から四十五度で焼夷弾が入っている。全くの即死だ。暫らくして、田村校長が校舎の端から、『どの防空壕も異常はないか!』と校庭に向かって叫んだ。私は壕から躰をのり出して、『一人やられました。』と云うと、まだ校庭は火の海なのに、校長はそれを物ともせず、壕にやってきた。私が急いで死んだ生徒を抱いて、入口まで出ると、校長はそれを両手で受取って、火の海の中をまっすぐに校長室にかけてゆく。私もその後に続いて走りました。校長室に安置された遺体は、校長と私と看護婦の三人で、新しい服に着せかえ、新しい靴をはかし、新しい北中の徽章のついた帽子を着用させました。(当時は服も靴も帽子も配給だったので校長室にあった。)その姿をみて、つくづく立派だと感じました。校長室で通夜をし、大阪中がゴッタ返しているせいか、遺族の方もこられないので、翌日淀川の堤でお別れをし、とわの眠りにと送らせていただきました。淀川の堤では、あちこちと同じように葬っている火や煙で何とも言えない空しい心になってしまいました。北中は校庭一面をうめつくした焼夷弾の中で、一日中無気味な音をたてながら燃えていました。この光景を私はじっと校舎から眺めて、益々戦争のみじめさを感じたものです。」(『北辰三期の会文集ともしび』20~22頁)
そもそも米軍による、大阪をはじめとする都市空襲は、法的に許されることなのか。当時の戦時国際法はこのような空襲による大量殺害を想定していなかったが、1907年の「陸戦の法規慣例に関する条約・規則」でも、戦闘における禁止事項で財産を破壊することをあげているし、規則の25条で「防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、如何なる手段に依るも、之を攻撃又は砲撃することを得ず」と規定しており、無差別爆撃は国際法違反である。
校舎への機銃掃射
6月の大空襲以後、7月には10日、24日、26日、28日、8月には5日、8日、14日と小型機による襲撃がつづいた。
本校本館の西壁には28ヵ所の機銃掃射の弾痕がある。焼け野原で何もない淀川右岸にあって焼け残った本校校舎を西の方角からねらったものである。8月のP51の機銃掃射によるものだが、日付けは不明である。新校舎の建設に際しても、弾痕のある西壁を保存するための努力が重ねられ、本書巻頭のカラーページにあるように、戦争遺跡として保存された。府内の学校施設でこのような形で戦争被害が刻み込まれているのは本校校舎だけである。今も校舎自らが戦争の悲惨を訴え続けている。
今は、西壁の下に中島要昌・池田彰宏両君の死を悼んで大きい自然石の「殉難の碑」が移設建立されている。もとは1986年に校舎東端の図書館横に建立されたものである。
6月大阪大空襲と本校の被害
4月、5月は大阪に空襲被害はなかった。その間、建物疎開が強行され、3月半ばから6月半ばにかけて、市内で3万4902戸がとりこわされ、行政的措置で多くの人が家を失った。
4月1日には、沖縄本島に米軍が上陸した。5日、小磯国昭内閣が辞職し、鈴木貫太郎内閣へと移った。5月8日には、頼みのドイツが無条件降伏した。もう、戦争を続けているのは日本のみとなった。
6月の大空襲は、1日、7日、15、26日にあった。6月空襲は、米軍が3月に日本軍守備隊を全滅にした硫黄島から、P51戦闘機が発進した。1日の空襲は朝9時28分から458機のB29とともにこれを援護するP51ムスタング戦闘機が少数来襲した。7日は正午、B29が409機と多数のP51 が、15日は朝8時44分、444機のB29が大阪に来襲した。15日は焼夷弾のみであったが、1、7日は焼夷弾、爆弾、機銃掃射による攻撃であった。15日の攻撃は、比較的焼け残っていた大阪市の南東部と淀川の北側にむけられた。この日、本校が被害を受けた。26日の攻撃は、173機のB29による9時18分からの大阪陸造兵廠、住友金属への爆弾攻撃だった。
6月15日の第4次大阪大空襲で大都市への焼夷弾攻撃は終了し、以後、中小都市へその矛先がむけられた。『大阪大空襲』に引用されている米軍史料では、「日本の防空施設は超重爆群の長期間にわたる攻撃に対応するためには、哀れなほど不十分なものであった。すなわち組織、既訓練者、退避壕、消防器具、救助および撤退施設ならびに市民教育について不十分であった」
とのべている(『大阪大空襲』185頁)。これに対し、7日の空襲のあと、9日の朝日新聞は「我らの勝利は焦土の中から」「徹せよ“野戦生活”配給に頼らず備蓄で」とよびかけていた。
6月の4回の空襲被害を合計すると、焼失倒壊戸数は17万3906戸、死者は5754人、傷者は1万6502人、被災者は62万3382人にもなる。3月大空襲を上回る被害である。徹底して焼き尽くそうという意図があらわになっている。
3月から通しでみると、被災者113万5千人、焼失倒壊戸数31万余におよんだ。大阪市内22区のなかで最も被害がはげしかったのは、浪速区、港区である。それぞれ、空襲前の人口の96%、94%がいなくなった。大阪市全体では、空襲前の人口273万5954人が、104万9937人へと168万6017人減少した。じつに38%にまでおちこんだ。これには事前に疎開した人も含まれており、逆に被災しながらも市内に踏みとどまっている人もいる。
当時の記録には、空襲とともに黒い雨がふったとある。『大阪大空襲』(193~196頁)によれば、15日、8時44分の空襲開始直後の9時頃より雨がふった。広範囲の火災により、火焔は7000mにも達し、たちまちできた積乱雲は雨をもたらした。火災によるおびただしい灰が天をおおい、朝なのに真っ暗になる。灰を核にした黒い雨は、広島・長崎だけに降ったのではなかった。(小山仁示『大阪大空襲』146~196頁、『昭和大阪市史』第6巻617~631頁)
6月大空襲による本校の被害をみてみよう。
7日の空襲では、六稜会館、工作室、剣道場、食堂が全焼、体育館も柔道場の半分が焼けたが、本館への類焼はくいとめた。学校北隣の成小路国民学校(現在は本校敷地内)は全焼した。
15日の空襲では、学校防衛の任務についていた北野中学校2年生の中島要昌が防空壕の中で焼夷弾の直撃で即死、池田彰宏が六稜会館の前で脚に焼夷弾をうけ、治療中死亡、今木伊助が負傷した(『北野百年史』1319~1320頁)。空襲警報がでたときに、御真影や教育勅語は、「校長室の奉安庫から、校長の手で捧持され運動場の東端近くに設けられた土壇下のコンクリート造りの奉安所に安置された」(川井義通「六稜曼荼羅」『六稜会報』№16,1983年)のだが、中島・池田両君の入った防空壕は廃材で造った壕だった。
中島要昌の最期について、第二中学校教諭の井戸完の回想がある。そこに描かれた防空壕の見取り図と回想をつぎに引用しよう。
「私は、北野中学校の生徒約十名を率いて、北側の第二の壕に退避しました。点呼をし、二列に向い合って腰を下ろしました。空襲警報が鳴ると同時に、飛行機の大群が襲ってきて、あたり一面暗くなり、話声も全く聞こえない位の轟音で、雨が降るように焼夷弾が落ちてきて、校庭をすっかり火の海にして去ってゆきました。壕の中では、向い合った二列が耳をおさえてかがみ込んでいました。暫らくして私が『全員無事か、異状はないか。』と怒鳴り声で尋ねると、傍らの生徒が『先生、隣の1名がやられました。』と云うので、急いで近寄って『オイ大丈夫か。』と声をかけたが何の返事もない。安全な筈の防空壕なのに、被った鉄かぶとの後頭部が大きく凹んで息絶えている。全く一瞬の悪夢だった。よく目をこらして見ると、防空壕の直角になった部分から四十五度で焼夷弾が入っている。全くの即死だ。暫らくして、田村校長が校舎の端から、『どの防空壕も異常はないか!』と校庭に向かって叫んだ。私は壕から躰をのり出して、『一人やられました。』と云うと、まだ校庭は火の海なのに、校長はそれを物ともせず、壕にやってきた。私が急いで死んだ生徒を抱いて、入口まで出ると、校長はそれを両手で受取って、火の海の中をまっすぐに校長室にかけてゆく。私もその後に続いて走りました。校長室に安置された遺体は、校長と私と看護婦の三人で、新しい服に着せかえ、新しい靴をはかし、新しい北中の徽章のついた帽子を着用させました。(当時は服も靴も帽子も配給だったので校長室にあった。)その姿をみて、つくづく立派だと感じました。校長室で通夜をし、大阪中がゴッタ返しているせいか、遺族の方もこられないので、翌日淀川の堤でお別れをし、とわの眠りにと送らせていただきました。淀川の堤では、あちこちと同じように葬っている火や煙で何とも言えない空しい心になってしまいました。北中は校庭一面をうめつくした焼夷弾の中で、一日中無気味な音をたてながら燃えていました。この光景を私はじっと校舎から眺めて、益々戦争のみじめさを感じたものです。」(『北辰三期の会文集ともしび』20~22頁)
そもそも米軍による、大阪をはじめとする都市空襲は、法的に許されることなのか。当時の戦時国際法はこのような空襲による大量殺害を想定していなかったが、1907年の「陸戦の法規慣例に関する条約・規則」でも、戦闘における禁止事項で財産を破壊することをあげているし、規則の25条で「防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、如何なる手段に依るも、之を攻撃又は砲撃することを得ず」と規定しており、無差別爆撃は国際法違反である。
校舎への機銃掃射
6月の大空襲以後、7月には10日、24日、26日、28日、8月には5日、8日、14日と小型機による襲撃がつづいた。
本校本館の西壁には28ヵ所の機銃掃射の弾痕がある。焼け野原で何もない淀川右岸にあって焼け残った本校校舎を西の方角からねらったものである。8月のP51の機銃掃射によるものだが、日付けは不明である。新校舎の建設に際しても、弾痕のある西壁を保存するための努力が重ねられ、本書巻頭のカラーページにあるように、戦争遺跡として保存された。府内の学校施設でこのような形で戦争被害が刻み込まれているのは本校校舎だけである。今も校舎自らが戦争の悲惨を訴え続けている。
今は、西壁の下に中島要昌・池田彰宏両君の死を悼んで大きい自然石の「殉難の碑」が移設建立されている。もとは1986年に校舎東端の図書館横に建立されたものである。