1886年 ゴッホは、パリに出るのです。
この頃の自画像
美術史の中では、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌと並んで「後期印象派」と
呼ばれています。
彼らは、印象派の影響(ルノワール、モネ、など)を受け、
そこを出発点としながらも独自の画風を生み出していきます。
新しいものをどんどん取り入れようとする印象派の画家たちに交じって、
ゴッホは今までに見たことのない浮世絵という日本美術にも夢中になります。
パリに出てからのゴッホの作品はがらりと変わります。
その変化は、「パリ」そのものと、「日本美術」だったのです。
パリに来てからのゴッホは、いろいろなアーティストと出合い、多くの
影響を受け、変化していく~「とにかく学びたい!」
彼にとってパリは運命的な街でした。
「ムーラン・ド・ギャレット」1886年 カンヴァス
「草地」 1887
「青い花瓶の花」1887
「レストランの内部」1887
「石膏像のある静物」 1887
浮世絵の花魁を模写する~
1887年に描かれた{花魁}です。
この項は、以前にアップしていますが…
溪斎英泉という浮世絵師の 『雲竜打掛の花魁』です。
オリジナルと 模写した作品を
溪斎英泉のオリジナル ゴッホの模写
‥‥フィンセントは、この絵の前で固まって動かなくなってしまった。
しばらくして激しく肩を震わせ始めて、どうして、こんな絵がこの世に
あるんだ? いったい、どうやってこん絵が生まれたんだ?
「この絵は、私の先生になるだろう…」
*原田マハ著 (美しき愚か者タブロー)より
「花魁の向きが違っているでしょう…」
ということは、ゴッホは本門の絵を見ていなかった。
おそらくパリで見たのは、オリジナルの版画ではなく、
本の表紙に出ていたものを模写したらしい。
雑誌「パリ・イリュストレ」1886年5月号の日本特集の表紙を
みると、この英泉の作品が刑されていて、すでに反転して
います。
画家たちは、新しいもの、誰も見たことがないもの、
ブームになっているものを探し出し、果敢に自分たちの作風に取り入れて
いきます。特に日本美術の新しさに敏感に反応しました。
他に、モネは、初期作品『ラ・ジャポネーズ』(1876)の中で
着物を身にまとい、扇を持ってポーズを取るモデルの女性を描いています。
このモデルは、モネの婦人カミューユです。
モネも、浮世絵の「見返り」のポーズを真似している…
こうして、ゴッホも華やかなパリに出て、多くの人と知り合いになり、
仲間もでき、夜な夜な飲んで騒いだりして、賑やかに楽しく毎日を過ごして
いた。 ついにパリに出てきた、という高揚感もあったことでしょう。
ところが、受け入れたと見せかけて…実のところは扉を開けていない。
「えっ、勘違いだったの?」・・・・という寂しさに気がつくのです。
「いったいこの街は、何なんだ?」
どんなに頑張って絵を描いても売れない。
展覧会もできない。
誰にも受け入れられない。
そういう疑念にとらわれて来た~ と、思うのです。
ゴッホは、描いた絵をすべて弟のテオに送っていました。
「売ってほしい」と。
しかし絵は売れない。
*弟テオは、パリの「グーピル商会」で画商として活躍しています。
パリ グーピル商会跡
ゴッホは常に自分に向かって絵を描いています。
自分が満足するもの、今、描くべき絵を描き続けました。
売れるかどうかも分からない・・・・
諸説ありますが…ゴッホの生前に売れた絵は
「赤い葡萄畑」1888年 の一枚のみだったと言われています。
ゴッホは、自分がパリにいることが、かえってテオを苦しめるという
ことに気づき、自分も疎外感や孤独をおぼえ、だんだん追い詰められて
いきます。
あんなに愛したパリを離れて、どうしてアルルへ行ったのか。
明日は「アルル時代」のゴッホをご紹介します。