「かんだ郷土史研究会」の会員で久しぶりの現地視察勉強会。
今回のテーマは…
現在、大分県立歴史博物館で開催中の
「赤塚古墳と三角縁神獣鏡~宇佐風土記の丘からみた古墳時代~」
コロナ騒ぎのここ2年、なかなか外出もままならず…やっとの思いでの
お出かけ勉強です。総勢20名。
8:30分出発で高速を使って一路「大分へ」
博物館見学は午後から、まずは日出へ。
「日出る」海の城下町の魅力を訪ねて~
この町のたたずまいは 別府湾を優しく包み込む山々は豊か のんびりと時間を
過ごすにはもってこいの静けさと、今朝の暖かい空気。
ゆったり気分で、街中を歩けそう~。
さぁ、この街 ぜ~んぶって訳にはいかないので…ピックアップして歩きましょう。
ここ日出の城下町は、江戸時代から続く。
豊臣秀吉の正室(北政所・おね)の甥にあたる木下延俊(のぶとし)が日出藩を
与えられ築いた日出城址をはじめとするゆかりの史跡が残っています。
築城にあっては、義理の兄である細川忠興が設計したと
伝えられています。
石垣は細川家の家臣であり、築城の名手といわれた
穴生理右衛門が指揮し、自然石をあまり加工せずに石垣を積む
野面積の見事な石垣です。
復元図
天守閣南側立面図
鬼門をさけた独特な櫓門 「鬼門櫓」
日出城内にはかって天守と七棟の櫓・門が建てられていました。
城の北東の方角は、鬼門といわれ、鬼や悪霊が出入りする方角として
忌み嫌われていました。その北東に位置するの櫓が「隅櫓」(鬼門櫓)と
言われるもので、復元され当時の姿を再現しています。
鬼門をさけるようなつくりになっている全国でも珍しい櫓。
「致道館」
日出の町は、小さな町? いや、とても広く、のびのびとした
天に突き抜けていくような~素敵な街です。
静かです。
城下町と言っても、なごやかです。
小学校、中学校の校庭を通り過ぎて皆さんが歩いて行きます。
歩いていても、道の角には 観光標識がしっかり案内してくれます。
海岸の方へ歩いて行きましょう~
別府湾を望む綺麗な海です。
遠くに高崎山の姿が…この眺望は絶景です。
この日出漁港で…ご当地の「城下かれい」が人気の的。
その「かれい」を美味しく食べさせてくれるのが 有名な「的山荘」
高浜虚子の句碑に
「海中に真清水湧きて魚育つ」と詠んでいる。
城下には 「日出城の時鐘」
海岸から美優な坂道を上がって~
紅葉の美しい庭園に入っていきます。
ここが「的山荘」(国重要文化財)
大正4年 当時馬上金山を経営していた成清博愛が別邸として建てた
数寄屋風の建物と庭園。
日出の近代和風建築の代表であり、庭園からは別府湾が一望できる。
本当は、ここでちょっと贅沢なランチをと?
幹事さん…悩んだ結果 おじゃんになりました。
「またの機会に 残念!」
これが 「城下かれい」のお造り。
さぁ、今日のメーンである「歴史博物館」の前に‥‥
回天大神訓練基地記念公園にバスを進めました。
日本が窮地に立たされた太平洋戦争末期
世界に誇る魚雷技術を駆使し誕生した「特攻兵器回天」
青空のもとに、広々とした公園内には
国を想い 家族を想い 隊員たちは訓練を受け
命を懸け そして海の水底に消えていった~
パネルに掲示されている、若くして逝った 顔写真が並ぶ…
あれから70数年を経過した この戦争は…
しかし、いったい何だったのだろう???
当時の姿(実物大)レプリカが展示されています。
自らが操縦して体当たりする魚雷。
「必死」を前提とする兵器。 脱出装置のないまま、正式な兵器として
採用された。
「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」という意味で「回天」と
名図けられた‥‥しかし、
終戦まで28階出撃しましたが、戦果は確認できていません。
この回天作戦で・・・搭乗員、整備員、潜水艦乗組員他
なんと、合計1073名の命が・・・・
ちょっと重苦しい気分です。
切り替えて~ バスは宇佐へ 約1時間走ります。
「大分県立歴史博物館」到着です。
先ずここの「赤塚古墳」
九州最古の前方後円墳のひとつとして名高い。
大正10年に発掘され、箱式石棺から中国製の三角縁神獣鏡4面、
三角縁龍虎鏡1面のほか、碧玉製管玉・鉄片などが発見された。
5面の鏡は、大和政権が地方首長に分け与えたものとみられており、
福岡県、石塚古墳などの鏡とともに初期大和政権と地方豪族との結びつきを
示す資料として重要である。
3世紀末頃の築造と推定されており国指定史跡1980(昭和55年)
周囲には、幅8.5m~11mの空濠がめぐる。
全長約57.5mの前方後円墳 後円部 径36m 前方部 幅 約21m
公園内が広く 見晴らしも良く 墳墓も数多く~
どこかで見たような~
「あの樹 何の樹… 気になる樹 ♪♪ 」
多くの墳墓(17)が公園内に。
ここの特徴は「箱式石棺」
序紋時代~古墳時代にかけてみられる埋葬の方法で、地面に掘った
穴に箱型に石で囲いを作り上から蓋をしたもの。 石棺の一つ。
公園内 復元された「箱式石棺」
こんな風に 石棺内 埋葬されていたのでは・・・
展示されているものから~
ここで発掘された「鏡」は現在、「京都国立博物館」収蔵です。
今回の企画展での展示物は撮影禁止なので…鏡だけは「京都国立博物館蔵」
の資料より使用。
1.三角縁鋸歯文帯四神四獣鏡
2.三角縁唐草文帯二神二獣鏡
3.三角縁帯紋三神三獣鏡
4.三角縁帯紋三神三獣鏡 (B)
5. 三角縁波文盤龍鏡(龍虎鏡)
三角縁神獣鏡がすべていわゆる「船載鏡」であり、九州で最も古い古墳の
一つとされる。
*「船載鏡」=弥生・古墳時代に中国・朝鮮半島から到来した銅鏡。
遺本列島で制作したものを「彷製(ぼうせい)鏡」と呼ぶ。
ときに? この鏡って 「謎」だらけです。
3~4世紀の古墳から出土する銅鏡ですが…
今だはっきりわからない。
「邪馬台国の卑弥呼に関わる鏡?」 そうだ、いやそうじゃない。
もう100年、いや、もっと 侃々諤々…
まぁ、そのうちに。
この三角縁って、鏡の縁の部分の「断面の形」が三角形に尖っている
ことが理由です。
「神」「獣」は、中国の神様と、獅子のような霊獣…(実在の獣ではない)
「神様」の数が、二ならば二神、三つなら三神 「獣」も同じ数え方。
これも組み合わせで 「三角縁三神三獣鏡」となる。
・直径が21~23㎝と一定している。
・縁の形が三角形 (他とは区別される)
・「神」と「獣」が交互に配置
・中央にある「ちゅう」(紐を通す孔を持つためのつまみ)が
大きく丸く高いこと。
・顔の映る鏡面(裏側) ミラーのように凸面になっている。
・中国や朝鮮半島では見つかっていないこと。
なぜ、この鏡が中国大陸で見つからない?
そもそも中国製でないこと。
中国から渡ってきた公人たちが{どこか ?}で、持ってきた原材料で
「倭人の好み」に合わせて制作したものなのか?
その後、この鏡を見習って、倭人が日本で作ったものは「下手くそ」
「銅」も質が悪い…など 考えられるのかな?
もしくは、中国でつくられ(数に限りがある)持ってきたものは
「上手にできている」が、その後の鏡はこちらで「真似て」制作した
のか…など、まだまだ分からないこと多い。
だから、また楽しみでもありますね。 正解は?
いやぁ~ 充実した勉強会でした。
「コロナ一掃!」 気分上々