甘美な香りに誘われる危険なドラマだ。
夏の海辺のリゾートホテルで展開する、数日間のミステリー・・・。
「ジョイ・ラック・クラブ」(1993年)、「スモーク」(1995年)の、香港出身のウェイン・ワン監督が初めて撮った日本映画だ。
非現実的な世界の積み重ねがあるかと思えば、現実は妄想と入り乱れ、一体真実は何七日、まことにとらえどころのない世界が描かれる。
原作は、スペインのハビエル・マリアスの短編小説だ。
眠れる美女と覗きをモチーフに、男女の欲望や疑念が絡み合う内容は、川端康成の妖しの世界にも通じるものを思わせるが、川端文学が官能を描いている点ではこの作品はとてもその比ではない。
一体どこまで、この解釈を観客に委ねるというのだろうか。
作家の清水健二(西島秀俊)は1週間の休暇を取って、妻の綾(小山田サユリ)とともに、海辺のリゾートホテルを訪れる。
最初の小説のヒット以来スランプ続きで、妻との関係も倦怠期を迎え、無気力な時間を過ごしていた。
滞在初日に、プールサイドのデッキチェアに寝そべっていた健二は、綾に促されてプールの反対側にいる男女に目を留める。
白いビキニ姿の少女の無垢さを残した若い女美樹(忽那汐里)と、ワイシャツに黒いズボン姿の白髪交じりの男佐原(ビートたけし)だ。
見た目にも年齢的にも、不釣り合いなカップルだった。
男は慣れた様子で、女のからだに日焼け止めを塗っていた。
その日以来、健二はホテル内で彼らを見つけるたびに、部屋を覗き見るようになっていく。
部屋には、美樹のからだの産毛を剃刀で丁寧にそり、彼女が眠る姿を、毎夜撮影し続ける佐原の姿があった。
自ら佐原に近づいた健二は、佐原とはじめて言葉を交わしたため、彼が美樹の眠る動画を見せながら言った「あの子の最後の日を記録しようと思って」という言葉に、言い知れぬ恐怖を覚えるのであった。
危険を感じながらも、好奇心をさらにかきたてられ、健二の行動は次第に常軌を逸し、部屋の中まで忍び込むというストーカー行為にまで及んでいく・・・。
このウェイン・ワン監督の日本映画「女が眠るとき」は、覗き見から始まる4人の人間模様を描いて、スリルと妄想に満ちている。
そこに様々なな謎が吹き上げてくるのだが、それらはひとつひとつ解けることはない。
かなり厄介な作品だ。
いろいろな憶測も生まれてきて、美樹、綾、佐原、居酒屋の店主(リリー・フランキー)ら、どの人物にも謎らしきものがあって、それも詳しいことははっきりとはわからない。
全てが曖昧模糊なのである。
映像はどこまでも静かだが、やや荒削りで、不気味さを漂わせている。
どれが真実で、どれがフィクションかという正解はなく、観客のひとりひとりが様々な物語を紡いでほしいのだと、ウェイン・ワン監督は言っている。
虚実入り乱れてその先に、何を見ろと言うのであろうか。
今までの映画の見方を、全く変えないといけないかもしれない。
自分だけの解釈が許される、そんな映画の迷宮にはまってしまったら、多少の混乱は覚悟しなければならない。
覗き見の罪悪感、誘惑に戸惑う男を西島秀俊が好演し、忽那汐里の少女っぽさも妖しげな色気を放っている。
ビートたけしの異色の変態男といい、リリー・フランキーの独特の演技といい、それぞれがうまく役割分担されて存在感を見せている。
観客にこのドラマの解釈を委ねるというのは、ワン監督の逃げようにも思えて、それでは作品の丸投げではないのか。
これはもはや、エンターテインメントなどではなく、極端なアートととらえた方がいいかもしれない。
ウェイン・ワン監督自身が、もしかして佐原であり、健二ではないのか。
大いなる不可解と、いささかの不満を抱えて鑑賞する映画だ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
次回は日米合作映画「シェル・コレクター」を取り上げます。