2003年のデビュー作「父、帰る」で、ヴェネチア国際映画祭グランプリ金獅子賞を受賞したアンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、十年ぶりに女性映画二本を発表し、日本公開した。
と もに、男性社会に対する女性の孤独、抵抗、苦悩を題材とする作品だ。
近年めずらしい、謎めいた‘美’に彩られたロシア映画の二本だ。
「エレナの惑い」
2011年冬、モスクワ・・・。
二年前に、初老の資産家ウラジミル(アンドレイ・スミルノフ)と再婚したエレナ(ナジェンダ・マルキナ)は、生活感のない高級マンションで、一見裕福で何不自由のない生活を送っている。
しかし、その生活で夫に求めるのは、家政婦のように家事をし、求められるがままに尽くす従順な女の姿だ。
そんな生活の中で、彼女は夫の顔色をうかがいながらも、唯一の自己主張のように、前の結婚でもうけた働く気のない息子夫婦の生活費を工面している。
ウラジミルは、そんなエレナに不快を隠せない。
エレナの日常は夫の急病により一変する。
夫は言った。
「明日、遺言書を作成する・・・」
どうやら、ウラジミルは別に暮らしている一人娘のカテリナ(エレナ・リャドワ)に全財産を譲りたいらしい。
死期を悟ったウラジミルのその言葉とともに、エレナの「罪」の境界線が揺らぎ始め、彼女はある行動に出るのだった・・・。
冒頭の静謐な映像から、ズビャギンツェフ監督はじいっと人間の行方を追い続ける。
だが、登場人物は多くを語らず、寡黙である。
エレナは、失業中の息子夫婦に年金を貢いでいる。
夫は反対している。
再婚で、エレナ自身も安定した暮らしを得ており、一方で自分の子供を可愛がる。
エレナの家族を養う義務はないとうそぶく夫に、妻は妻で反発する。
エレナの息子への盲目愛と、自分のひとり娘には全財産を相続させたいというウラジミルと・・・、そこでエレナが決断したことは、人間の行方、人間の魂の荒廃を描いて心に響く。
監督自身の、初めてのオリジナル脚本で描かれるこの作品は、いまなお男性優先主義のロシアで、一人の母としてそして女としてもがく主人公の姿を通して、魂とモラルを失いかけている現代の闇を観客に突きつけてくるのだ。
スタイリッシュななカメラワーク、計算され尽くした色彩設計と音響効果・・・、その中で女の業の凄みがその闇を画面一杯にに投影しているようである。
ロシアの格差社会を背景に、夫婦、そして母と息子との関係を描いたこの作品、ラストまで目が離せない。
「エレナの惑い」は緊張感途切れないサスペンスで、厳格なカメラのまなざしとともに、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の演出力に敬服するしかない。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
「ヴェラの祈り」
初夏の田園風景の中を、一台の自動車が走り抜けていく。
運転するマルク(アレキサンドル・バルエフ)は、腕に銃弾を受けており、血を流している。
街に入って、弟アレックス(コンスタンチン・ラヴロネンコ)の住まいを訪れ、弾丸を摘出してもらう。
アレックスは兄に休んでいけというが、マルクは手負いのまま去っていく。
アレックスには、美しい妻ヴェラ(マリア・ボネヴィー)と息子キール(マキシム・シバエフ)、幼い娘エヴァ(カーチャ・クルキナ)がいて、一家で揃って亡き父が残してくれた田舎の家に出かける。
アレックスとヴェラの間には、いつのころからか溝が深まっていた。
子供たちが寝静まったある夜、ヴェラはだしぬけに夫に言った。
「赤ちゃんが出来たの。あなたの子ではないけれど」
アレックスは妻の突然の告白に動顛し、ヴェラを置き去りにして田園に出ていく・・・。
夫婦のすれ違いが引き起こす悲劇を描いたヒューマンドラマだが、ドラマそのものは極めてシンプルである。
その構図は緻密に計算されたように、しかも絵画のように美しく、ひとつひとつの場面がアートを見ているようだ。
夏の休暇を過ごすために、子供二人を連れて田舎にやってきた夫婦を描いており、妊娠した妻がお腹にいる赤ちゃんの父は夫ではないと告白したことから、実は大変深刻な事態に陥ってしまうのだ。
ヴェラの宿した子の父は誰であったか、そしてヴェラはどうして夫に「あなたの子どもではない」などと不思議なことを言ったのか。
冒頭のマルクの怪我は何を意味するのか。
ズビャギンツェフ監督の映画世界は、どこか謎めいた要素を多分に孕んでいて、釈然としない。
登場人物たちの台詞は極限にまで研ぎ澄まされている。
しかも登場人物が少なく、これというアクションもない。
日常のゆったりとした時の流れに、いやでも観客はついてゆかざるを得ない。
人間と人間のコミュニケーションは、どこまで通じ合っているのだろうか。
この作品「ヴェラの祈り」では、主人公の男の、内面の苦悩の重さが明かされないままだ。
シンプルではあるが、監督の創造する映画美学世界の理解に苦しむ作品だ。
この映画もまた静かすぎる。
映画のラスト、農婦が古代スラヴ語で歌うシーンは、ズビャギンツェフ監督によれば人間の生命のサイクルを示しているのだそうだ。
生命は続くのだという・・・。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
アンドレイ・ズビャギンツエフ監督のロシア映画「エレナの惑い」「エヴァの祈り」は、ともに芸術的挑戦をはらんだ特異な野心作と思わざるを得ない。
ドラマの緊張を高めるための音楽、油彩画を思わせるような映像に、豊饒な映画体験の大いなるひとつのきっかけをつかめるだけのものはあろう。
* * * * * 追 記 * * * * *
21世紀の最高傑作という触れ込みで、ロシア映画「神々のたそがれ」(巨匠アレクセイ・ゲルマン監督作品)が、3月21日、日本公開となっています。
いずれの時か、取り上げさせていただく機会もあろうかと・・・。