徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「悪人」―絶望的な愛と旅の始まりと終わり―

2010-09-15 10:30:00 | 映画

善と悪の狭間に揺れる人間を通して、その人間の弱さと欲を、大胆に鮮烈に描き出そうとしている。
そういう努力を、十分にうかがわせる作品ではある。
李相日監督が、芥川賞作家吉田修一の原作を得て、映画化した。

小説は、120万部を超える大ベストセラーで、映画化権をめぐって、20社以上が名乗りを上げた話題作だ。
出来ばえも悪くはない。
鮮やかな演出にも注目だが、モントリオール映画祭では、ヒロインを演じた深津絵最優秀女優賞に輝いた作品だ。

土木作業員の清水祐一(妻夫木聰)は、長崎郊外の寂れた漁村で生まれ育ち、恋人も友人もなく、祖父母の面倒をみながら暮らしていた。
車だけが趣味の、何が楽しくて生きているのかわからない青年だった。
佐賀の紳士服量販店に勤める、馬込光代(深津絵里)は、妹と二人暮らしで、アパートと職場を往復するだけの退屈な日々を送っていた。

孤独な魂を通して、二人は偶然出会った。
そして、刹那的な愛に、その身を焦がしていく。
しかし、祐一には、たったひとつ、光代に話していない重大な秘密があった。
彼は、殺人事件の犯人だったのだ。

そんな祐一の自首を止めたのは、光代であった。
殺人犯との、許されることのない愛・・・。
生まれてはじめて人を愛することを知り、喜びに満たされる光代は、祐一とともに、絶望的な逃避行へと向かった。

やがて、地の果てとも思える灯台に逃げ込んだ二人は、幸せなひとときを迎えるが、それもつかの間のことであった。
その逃避行が生んだ波紋は、被害者の家族、加害者の家族の人生をも狂わせ、飲み込んでいく・・・。
絶望の底に突き落とされた人間たちが、善悪の葛藤の中でもがき苦しむ。
その先に生まれたひとつの謎は、誰が、本当の“悪人”なのかということで、その答えが明かされるとき、この物語は、思いがけない衝撃のクライマックスを迎える・・・。

祐一の祖母の房江(樹木希林)は、祐一が殺人犯だと知らされ、家の周辺は、連日マスコミに追い立てられる騒ぎになる。
このシーンは、どうも少しくどくはないか。もっと整理して、カットした方がいい。
劇中で、深津絵里妻夫木聰の濃厚な濡れ場シーンがある。
殺人を犯した男の鬱屈した感情と、愛ゆえに高まる気持ちを抑えきれない、女の心情が激しくぶつかり合って、二人の苦悩を浮き彫りにする。
犯人の虚ろに泳ぐ眼差しや、女の情念の哀れさがにじみ、救われがたい二人の心象風景をおもわせる、海辺の景色とともに印象的である。

ともあれ、李相日監督映画「悪人は、そんな男と女それぞれの複雑な心理を描きながら、原作に忠実なドラマに仕上げている。
二人の体当たりの演技も、見応えがある。
切ない、ラブストーリーである。

原作の吉田修一氏、この作品では、李相日監督と一緒になって議論を重ねながら、、難しい脚本作りに参加していることはとても興味深い。
例えば、祐一という人物を描くといっても、、映画の祐一はいい意味で説明などなくて、実存(実像)だけがゴロンと転がっているといった感じだ。
もう、それだけで小説とは違う。
監督の演出は、感情移入している個々の登場人物の表情を、必ずしも観客には見せていないのだ。
ひとつの例が、殺人の告白をする人の顔を正面から撮るというのではなく、観客に見せるのは背中の部分であったりする。
さらに、小説で言うところの、いわゆる行間の読ませ方には、シナリオにもかなりの苦労をしたようだ。
小説で書かれた物を、同じ作家がそれを脚本に書き直す作業は難しいと、吉田氏の言う通りだ。
要するに、小説と脚本は同じではないからなのだ。

モントリオールは、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの世界三大映画祭に次ぐ映画祭だ。
この映画祭での、深津絵里最優秀女優賞は、83年の「天城越え」での田中裕子以来だそうで、今年はベルリンの寺島しのぶ とともに、この大きな金星は日本人女優の当たり年ともいえそうだ。