徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

乱戦!衆院選冬の陣―吹き荒れる木枯らしの中を右往左往する政治屋たち―

2012-12-02 23:00:03 | 雑感

師走に入って、木枯らしの吹きすさぶ、毎日寒い日が続く。
いよいよ、今年も残り少なくなってきた。
今月16日は、気忙しい師走の総選挙である。

民主か自公か、それとも第三極か。
乱立する少数野党は、くっついたり離れたり実に慌ただしい。
政界の魑魅魍魎たちは、がさごそと音を立てて、あっちだこっちだと右往左往である。
この離合集散から、何が見えてくるか。

突如として現れた「日本未来の党」が、にわかに注目を浴びている。
「卒原発」を掲げているが、「脱原発」と明快に区別できているものではない。
嘉田由紀子代表は、小沢一郎氏率いる「国民の生活が第一」と合流した。
マスコミはいろいろととやかく言うが、政策面で大筋が一致するのであれば、合流大いに結構なわけで、国民には解りやすい。
「日本維新の会」や「太陽の党」(のちに解凍)やらの、小異を捨てて大同につくというのとは、慌てて公約を訂正するようで意味合いがかなり違う。
それは、勝手な変節というものだ。

民主か自公かの選択肢しかない時代は、終わっているのだ。
これからは、「未来」か「維新」かといっても過言ではない。
選挙民は、何を信じ、どの党を信じればいいのだろうか。
どの党も、勿論異説を掲げる党もあるが、公約ではおおよそ似たようなことばかりが並んでいる。
これでは、公約といっても、解り難い。
都合の悪いことには触れず、肝心のことはあいまいに濁した表現になっている。
どこまでは本音で、どこからが立て前か、論理の真贋を見極めるのさえかなり難しい。
後になって、いくらでもいいわけができるからだ。

実際、どの公約が信用できるかもわかり難い。それが一般の見方だ。
となれば、選挙に際して、候補者の人物像を知らなければ、どうしようもない。
ところが、これがまた厄介だ。
その人間を知るというのは、とても大変なことだ。重要なことだから知りたいのだ。
それを誤るから、とんでもない政治が行われる。
事実、これまでがみなそうであった。
候補者選びを、愚かな私たちが間違っていたのだ。人を見る目がなかったということだ。
だから、政策はチャンポン、候補者はジャンケンポンだなどと、何をほざいている!なんて言うことになる。
民主も自公もどちらも駄目だとなると、結局ぐちゃぐちゃになってゆくというのか。
どっちにしたって、今度の選挙は大変な選挙になる。
その結果いかんで、戦後の日本の民主主義のありようが問われるし、大きな意義を持つことにもなる。

長かった自民党支配で腐敗しきっていた、政官界の癒着、利権の構造を絶つのだと意気込んだ民主政権も、何のことはない、ふたを開けてみれば元の木阿弥、自民に戻ってしまったではないか。
民主政権は、官僚主導を打ち破るなんて、手も足も出なかったのだ。
政権交代とは、いったい何だったのか。
政治の愚かさ、無能に泣く庶民こそ哀れである。
嘘つき、居座り、裏切り、それが、いまの政治の誤れる常道だから、呆れた話だ。
国会に就職しようとする政治屋は多くあれど、いまだ真の政治家がいないということだ。
何故ならば、真の政治家たるものは自分の利害得失を顧みずに、天下国家のためにおのが身を捧げる人を言うからだ。

「日本未来の党」の嘉田由紀子代表が、10年後の「卒原発」を打ち出すと、一方の「維新の会」は、エネルギー政策について、フェイドアウトなどと何だか意味の解らぬ言葉に自説をトーンダウンした。
公約の文言ひとつとってみても、他者の後を追い、追加し、訂正し、突然削除する。約束は破られる。
これも変節ではないか。
選挙も政治の始まりも、確かな哲学と理念があるなら、したたかであっていい。
政治は、大ナタを振るってこそ、改革につながる。
そういう、覇気と勇気と英断を持つ政治家のいないことが、いまの日本の最大の不幸である。
日本はどん底にある。

来たるべき総選挙では、どの党に、誰に、一票を投ずるか、よく考えて投票しないといけない。
どうしても、選ぶべき党もない、候補者もいないとなったら、どうしたらいいか。
選挙を棄権することは、避けるべきだ。
なすすべなく、その場合は、あまり勧められないが、白票でもいいから投ずるべきだ。それでも、まだ棄権するよりはいい。
・・・師走の風が、身に沁みる。
吹き荒れる木枯らしの向こうから、どんな日本の未来が見えてくるか。
ここにきて少しだけ、政治が面白くなってきたか。
しかしこれから、まだまだ、一波乱も二波乱もある。
風雲急を告げる、冬の陣である・・・。