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『木内克の言葉』 和田敏文 著 発行:農山漁村文化協会

2022年08月02日 08時03分24秒 | 本・雑誌
『木内克の言葉』 和田敏文 著 発行:農山漁村文化協会
(人間選書) 1978(昭和53)年11月1日 233p








水戸市立博物館で「彫刻家・木内克のまなざし展」が7月23日~8月28日まで開催されている。
木内克は1893(明治25)年に水戸に生まれ、海野美盛に学んだ後に朝倉文夫に師事。1921(大正10)年より渡英・仏、フランスで15年間を過ごした。ギリシャのアルカイック彫刻に魅せられのテラコッタの技法を習得する。
1935(昭和10)年に帰国後は二科会、新樹会に発表した。戦後の活躍はめざましく、日本を代表する彫刻家となった。
1977(昭和52)年に85歳で生涯を閉じたが、82歳を迎えた1974(昭和49)年に第49回茨城国体のモニュメント「女神像」(高さ5.6m)を完成させるなど、晩年になるほど大作が多い。
‘75年’76年にはバリ島、台湾、タイへのスケッチ旅行をするなど、創作意欲は旺盛だった。





『木内克の言葉』(和田敏文著)は20歳で彫刻家を志し、生涯にわたり独立独歩の在野精神で貫かれ心のうちに触れることが出来る。
木内作品を扱っていた「ゆーじん画廊」の和田敏文が1974(昭和49)年から1977(昭和52)年までの4年間にわたり、制作を終えモデルが引き上げた午後6時ころから木内家の家族と夕食を共にしながら対話した筆録集 。
4年間の記録ではあるが、海野美盛に学んだ後、朝倉文夫に師事し、1921年より渡英・仏で15年間を過ごした時期を含め、戦前戦後まで多岐にわたる内容だ。





巻末には略年譜が記されているので、木内克の全貌を覗うことが出来るといっても過言ではない。
一日当たり半ページ、時には1ページくらいの短い文章だが、そこまで言って大丈夫?と思える「歯に衣着せぬ」発言はまっとうで、水戸人としての矜持をいかんなく発揮している。

*例として15頁から16頁を紹介すると。

『昭和四九年四月七日(日)〔木内克先生応接間〕
ぼくの先生の朝倉文夫には天性のある利口さがあった。無益な芸術論なンかする人じゃなかっ た。
朝倉文夫のことは「銅像や」というが、肖像彫刻としては一級品だ。その制作数だけを見ても、 やはり、大変な作家だといえるだろう。
気取ってばかりいた、高村光太郎なんか問題じゃない。

朝倉は金儲けにせよ、名誉であるにせよ、とにかく一生懸命、仕事をした人だ。 世の中では清水多嘉示や山本豊市のように、それぞれ「私はブルデルの弟子です。私の先生はブルデル」「私はマイヨールの弟子です。 私の先生はマイヨール」と、言った方が権威があ るし、画商もその方が得らしい。
ぼくなんかも時として、ブルデルの弟子・・・・・・などと間違って言われることがある。冗談じゃない よ。ぼくはただブルデルの研究所に通っただけで、弟子なかじゃない。
そのことだけはハッキリとケジメをつけなくちゃ………………。
ブルデルの弟子というと、世の中で高く買ってくれるのかね。そんなこと言うの、ぼくはイヤだよ。
ぼくは朝倉文夫の弟子なんだ。』

*『木内克の言葉』は水戸市立図書館、茨城県立図書館に収蔵されている。
借りてきて読まれることをお勧めする。

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