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『水戸藩の御三家=結城・小山・宇都宮氏の興亡=』市村真一著

2022年03月13日 21時06分24秒 | 本・雑誌
『水戸藩の御三家=結城・小山・宇都宮氏の興亡=』市村真一著



御三家といえば、誰もが思い浮かべるのは水戸・尾張・紀州の徳川御三家。
確かにそうだが、水戸藩の中にも「御三家」と呼ばれた家臣がいた。
それは、結城・小山・宇都宮の三家で、いずれも鎌倉時代から続いた武家の名門だが、戦国時代の豊臣から徳川に政権が移るころ崩壊し、水戸徳川家の家臣となり、幕末まで続いた。





主題は「水戸藩の御三家」についてだが、目次に在るように頼朝の挙兵から幕末まで参考文献を駆使した子細な記述が40章、歴史に疎いから読み進めるにはかなり難儀で、飛ばし読み。
何だろう?と興味を掻き立てるテーマだけに、「読み物」として楽しめる本だったらと、少しばかり残念。

巻末に各家の墓所が写真で紹介されてある。
水戸市内、常陸大宮市、栃木県、福島県と北関東周辺に渡る。
何れ、これらを訪ねてみたい。
(本文から各家の興亡の概略の覚書を添える)



小山家の興亡
下野小山(栃木県小山市)を本拠とした名家。
平将門を滅ぼしたことで知られる藤原秀郷の末裔といわれる。
秀郷から八代目政光が小山四郎を名乗り、小山氏を起こした。
源頼朝が治承4年(1180)に挙兵したときは、大番役として京にいたが、息子の七郎を頼朝軍に参加させ、小山家は鎌倉幕府の有力御家人の地位を築いた。
南北朝、室町時代と紆余曲折を経て、戦国時代末期は上杉謙信と北条氏康から圧力を受け、当主秀綱は佐竹義重のもとに逃れた。
その後、天正18年(1590)戦国大名に幕を下ろし、江戸時代の寛文年間に水戸家に迎えられ、家老職など歴任。
幕末には諸生派に組し、家老職小四郎は明治元年(1868)獄死した。



宇都宮家の興亡
下野宇都宮(栃木県宇都宮市)が本拠の名家。
源頼朝の奥州征伐で活躍し、鎌倉幕府の有力御家人の地位を築く。
永正13年(1517)佐竹氏との戦闘に大勝利する。
戦国時代は、小田原の後北条氏と佐竹氏の対立を背景に、宇都宮・佐竹対小山・結城の抗争に発展、混沌とした政治情勢となる。
さらに秀吉の末期には当主国綱は朝鮮出兵し、軍功をあげながら浅野長政との関係悪化により改易され、二度目の朝鮮出兵に際し、秀吉に戦功次第で再興を許すといわれ、必死で戦いながら秀吉の死により再興叶わず浪人。
その子、義綱は寛永年中に水戸藩初代藩主頼房に仕え、以後、幕末まで水戸藩に仕えた。



結城家の興亡
奥州白河(福島県白河市)が本拠の名家。
小山政光の孫朝広の長男が下総結城氏、二男祐広が白河結城氏の祖。
一時、足利将軍家から白河結城家は南奥の覇者として扱われたが、親族の争いが続き、勢力が衰える。
永正7年(1510)内紛が起き、それに乗じて佐竹氏や岩城氏に所領を奪われた。白河結城家も親族小峰家が支配する状況にあった。
小峰結城家も秀吉の小田原征伐に不参加したことで改易、伊達政宗の配下となった。
本来の白河結城家は、晴辰が奥州中畠城主を退き、浪々の身となり、そのひ孫の晴定が天和3年(1863)光圀に仕え、以後、代々が水戸藩の重臣として活躍、寅寿のとき最も力を発揮したが、斉昭に処刑された。



天保の城下図



嘉永三年城下図(弘道館設立以後)

*(B5判、220ページ、1650円)
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