年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

小さな声と絞った音で

2015-09-10 17:47:21 | Weblog
 スピーカーの拡声器から大きい音が秋の風に乗って流れてくることが少なくなったと思う。例えば、先日夜開かれた盆踊りの曲も炭坑節など聞こえてくることはなかった。来月上旬の地方祭でも昔は朝の5時前から一日中大きな音で響き渡り、部屋の中までみこし音頭が響くように聞こえてきたのに、今は遠慮しながらスピーカーの音量を低く落としている。そして今盛りの運動会でも同じようだ。

 今日の午後、刑務所での相談業務を終え家に帰る途中、中学校や高校の運動会が行われている様子であった。大きな音でスピーカーからトルコ行進曲などおなじみの曲が聞こえるはずであろうが、なぜかざわめきはあるものの静かに運動会が行われているようであった。学校側も近所の住民に遠慮し、邪魔にならぬようひそひそとやっているんだろう。このように最近は周囲に気を遣いながら様々な伝統行事を繰り広げているように見える。

 反面、近くの自衛隊演習場からは。大きな音で、ダダダダの銃砲の音、またド~ンと大砲の音、ヘリコプターの離着陸訓練の回転翼の音など遠慮なく大きく聞こえてくる。市民は、学校や公民館などから発生する音には敏感にクレームのごとき対応をするが、射撃の音には鈍感になっているんだろうか。

 時々拘置所からやって来る護送車に連行されて刑務所に入る刑の決まった刑余者に会う。連行する刑務官が数人で取り囲み、手錠で両手を拘束し腰ひもでつなぎ中に入って行くのを見かける。異様な光景でもこれが日常化すれば何でもない一つのワンカットの風景と化す。憎き犯罪者とか、また可哀そう。。などの感想は全くない。
 刑を執行することは、対象者の自由を規制することである。厳重な規則の中で刑期を全うすることとなる。
 E・フロム「Escape from freedom」、【自由からの逃走】の中でフロムは、① 人間は孤立することをもっとも怖れている。② 人間は、(意識の上では)自らの意思で動いていると信じ、自らの意思で“積極的な自由”を求めているものと信じている。③ だが人間は、自由になればなるほど、心の底では耐えがたい“孤独感”や“無力感”に脅かされることになる。④ そして孤立することの絶望的な恐怖から逃れるため、退行的な逃避のメカニズムが働き、“積極的な自由”を求めることより、自由から逃れることを人間は選択する
青空久し振り。
 このことに照らして考えてみると、受刑者となることは、自由な意思決定ができる生活を放棄し、規制される刑務所生活を送ることを選択希望することになるのだろうゕ。刑務所に入ってくる人の中で再犯による入所の割合が45%もあることが、もしかして就労生活がいろんな理由により継続的にできなかったことの裏側には、自由を捨てでも一時期の生活を刑務所内で送ることを優先する…などと考える不埒な人がいるのかもしれない。
 本日相談室に入ってくる人、アレェ・・Nさんじゃないか、またやったんか、と私が開口一番にしゃべったNが入室してきた。HWにいた当時、覚せい剤取締法違反により捕まり初犯で服役し出所後、何度も職を求めて相談にやってきて、やがて就職ができた人であったが・・・娑婆の就労生活より刑務所での受刑生活を自ら望み犯罪を再び犯したんだろうか・・・。当時確かに生活の苦しさを普通の話し言葉で訴えていたが、3年前HWの相談カウンターに座って相談をしていた声より、か細い小さな声でしゃべっていた。