年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

2018-03-30 00:00:00 | Weblog

 花芸安達流を興した華道家の安達瞳子さんは、 ツバキで有名な父親が始めた安達式挿花の家元後継者であったが、「桜の旅に出る」と父親と袂を分かち、家を出て独立された。人としての芯を感じさせる人であると思った。

 なにせ安達さんのお話を直接お伺いしたのは、自分が17才の高校生時代、華道のことなぞな~も知らん、彼女の名前なぞな~んも知らないような時に講演会場の真ん前でお聞きした。自分も未だに記憶に残っているほどだから大きな感動を覚えたのだろう。

 一つは父親の主宰する家元をすぐに受け継ぐことを拒否し自分自身の道を究めようと家を出たこと。二つ目、これが女性のつつましやかさであると17の自分に焼き付くほどの立ち居振る舞い、言葉の選び方、話の仕方を目の前で見ていると、これほどの方は初めてだと《This is a Japanese woman》だとワケもわからない高校生にも思わされたこと、三つ目、父親が椿をいけることに対して、安達瞳子さんが対峙したのは桜、壇上からお聞きしたことに「桜」はいったん切りバサミで切る=桜の命を絶つと華道として生き返される、命を再び与える活け方がもっとも難しい花です。と、これを究めたいと・・だから桜の旅に出ます・・・と父の元を去ったお話をお聞きしたこと。
 「桜」は難しい。そのような話であった。

 他の花は活けることにそれほどの難しさを感じないということなんだろう。そして、もう一つ記憶にあること。花を見る時、活ける時には必ず自分の心が映し出される、と断言されたこと。

 その桜木の下でご近所さんが集まり“お花見”の会をする。

 今年の花はきれいに見えるだろうか・・と。酔えるほどに美しく見える時はきっと自分の心模様もなんらわだかまりがない日々であることが映し出されるんだろう。でもここ数年満開の桜をただ無機質的に見ているようで・・・。どうしてだか。。。