◆飛騨高山の物部氏 二
これは仮説である。
飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の西郊外に【松倉山】がある。山頂近くには岩窟があり、【飛騨七観音】のひとつ【松倉観音】があり、これとは別に、夏季に【松倉絵馬市】が立つ。市内の旧飛騨陣屋のまえで売られる【絵馬】を買い求めるが、その絵馬の価格は一〇〇倍に両をつけたもので、たとえば、五〇〇円の絵馬であれば、五万両の値段で客を呼ぶ。このことから【松倉相場】という地言がある。
買い受けた客は、これ携えて、まだ暗いうちに起きて暁天登山をし、観音堂で押印していただき、これを持ち帰って家々の壁に貼る。
この観音堂の近くに松倉山の山頂がある。山頂にいたる歩道の途中にはいまも立派な石垣がみられる。松倉山頂は平坦で、三木自綱によって築城された【松倉城本丸址】である。
三木氏は、岐阜城の齋藤道三、尾張の織田信長とむすび、上杉氏ら北方から南下、あるいは西進を阻む目的から、飛騨高山にいたり、西之一色の丘陵地を仮居として、松倉城の築城に取りかかった。
松倉山の東麓丘陵地は【花里・はなさと】とよばれ、ここに【花里神社】があった。
つまり、松倉山を御神体山とする、その【里宮】であり、
祭神は、
アメノミナカヌシノカミ 天御中主神
イカガシコオノミコト 伊香我色男命
ニギハヤヒノミコト 饒速日命
モノノベモリヤ 物部守屋公
その他
が祀られていた。齋主は一色氏で、錦山神社の齋主と同族の一色氏であった。このことから、齋主を
東の一色
西の一色
とよんだ。西之一色はいまも地名となって残っている、
旧社地には、いまも神籠石が残されている。
三木自綱は、齋藤道三の娘、桔梗を妻に娶り、松倉城が上棟するまでこの花里を寓居とした。桔梗は、しばらく飛騨高山ですごしたのだが病にかかり早逝した。自綱はその菩提を弔うため善應寺を建立したのであった。
天正年間に到り、金森氏が飛騨入りして三木氏は滅亡したが、このとき【花里神社】と、【善應寺】は兵火にかかって焼け落ちた。この焼け残った部材は、旧丹生川村(現高山市)に運ばれて、今朝山千光寺の本堂として再建された。
のちになって、金森氏は、東北部にあたる別の地に祭神をあらため、應神天皇を祀る花里八幡宮を建立した。
、
これは仮説である。
飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の西郊外に【松倉山】がある。山頂近くには岩窟があり、【飛騨七観音】のひとつ【松倉観音】があり、これとは別に、夏季に【松倉絵馬市】が立つ。市内の旧飛騨陣屋のまえで売られる【絵馬】を買い求めるが、その絵馬の価格は一〇〇倍に両をつけたもので、たとえば、五〇〇円の絵馬であれば、五万両の値段で客を呼ぶ。このことから【松倉相場】という地言がある。
買い受けた客は、これ携えて、まだ暗いうちに起きて暁天登山をし、観音堂で押印していただき、これを持ち帰って家々の壁に貼る。
この観音堂の近くに松倉山の山頂がある。山頂にいたる歩道の途中にはいまも立派な石垣がみられる。松倉山頂は平坦で、三木自綱によって築城された【松倉城本丸址】である。
三木氏は、岐阜城の齋藤道三、尾張の織田信長とむすび、上杉氏ら北方から南下、あるいは西進を阻む目的から、飛騨高山にいたり、西之一色の丘陵地を仮居として、松倉城の築城に取りかかった。
松倉山の東麓丘陵地は【花里・はなさと】とよばれ、ここに【花里神社】があった。
つまり、松倉山を御神体山とする、その【里宮】であり、
祭神は、
アメノミナカヌシノカミ 天御中主神
イカガシコオノミコト 伊香我色男命
ニギハヤヒノミコト 饒速日命
モノノベモリヤ 物部守屋公
その他
が祀られていた。齋主は一色氏で、錦山神社の齋主と同族の一色氏であった。このことから、齋主を
東の一色
西の一色
とよんだ。西之一色はいまも地名となって残っている、
旧社地には、いまも神籠石が残されている。
三木自綱は、齋藤道三の娘、桔梗を妻に娶り、松倉城が上棟するまでこの花里を寓居とした。桔梗は、しばらく飛騨高山ですごしたのだが病にかかり早逝した。自綱はその菩提を弔うため善應寺を建立したのであった。
天正年間に到り、金森氏が飛騨入りして三木氏は滅亡したが、このとき【花里神社】と、【善應寺】は兵火にかかって焼け落ちた。この焼け残った部材は、旧丹生川村(現高山市)に運ばれて、今朝山千光寺の本堂として再建された。
のちになって、金森氏は、東北部にあたる別の地に祭神をあらため、應神天皇を祀る花里八幡宮を建立した。
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