暘州通信

日本の山車

◆飛騨高山の物部氏 二

2018年02月04日 | 日本山車論
◆飛騨高山の物部氏 二

 これは仮説である。

 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の西郊外に【松倉山】がある。山頂近くには岩窟があり、【飛騨七観音】のひとつ【松倉観音】があり、これとは別に、夏季に【松倉絵馬市】が立つ。市内の旧飛騨陣屋のまえで売られる【絵馬】を買い求めるが、その絵馬の価格は一〇〇倍に両をつけたもので、たとえば、五〇〇円の絵馬であれば、五万両の値段で客を呼ぶ。このことから【松倉相場】という地言がある。
 買い受けた客は、これ携えて、まだ暗いうちに起きて暁天登山をし、観音堂で押印していただき、これを持ち帰って家々の壁に貼る。

 この観音堂の近くに松倉山の山頂がある。山頂にいたる歩道の途中にはいまも立派な石垣がみられる。松倉山頂は平坦で、三木自綱によって築城された【松倉城本丸址】である。
 三木氏は、岐阜城の齋藤道三、尾張の織田信長とむすび、上杉氏ら北方から南下、あるいは西進を阻む目的から、飛騨高山にいたり、西之一色の丘陵地を仮居として、松倉城の築城に取りかかった。
 
 松倉山の東麓丘陵地は【花里・はなさと】とよばれ、ここに【花里神社】があった。
 つまり、松倉山を御神体山とする、その【里宮】であり、
 祭神は、
 アメノミナカヌシノカミ 天御中主神
 イカガシコオノミコト 伊香我色男命
 ニギハヤヒノミコト 饒速日命
 モノノベモリヤ 物部守屋公
 その他
 が祀られていた。齋主は一色氏で、錦山神社の齋主と同族の一色氏であった。このことから、齋主を
東の一色
西の一色
とよんだ。西之一色はいまも地名となって残っている、
旧社地には、いまも神籠石が残されている。
 三木自綱は、齋藤道三の娘、桔梗を妻に娶り、松倉城が上棟するまでこの花里を寓居とした。桔梗は、しばらく飛騨高山ですごしたのだが病にかかり早逝した。自綱はその菩提を弔うため善應寺を建立したのであった。

 天正年間に到り、金森氏が飛騨入りして三木氏は滅亡したが、このとき【花里神社】と、【善應寺】は兵火にかかって焼け落ちた。この焼け残った部材は、旧丹生川村(現高山市)に運ばれて、今朝山千光寺の本堂として再建された。

 のちになって、金森氏は、東北部にあたる別の地に祭神をあらため、應神天皇を祀る花里八幡宮を建立した。
 
 、

◆飛騨高山の物部氏 一

2018年02月04日 | 日本山車論
◆飛騨高山の物部氏 一

 これは仮説である。

 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の東部は、かつては「そらまち」とよばれる高台にある集落で、金森氏の藩政期には、その武家屋敷が京都を模倣し、斐太ノ工らにより創建された、大隆寺、宗猷寺、善應寺、法華寺、天照寺、素玄寺、大雄寺、雲龍寺など
各宗の寺院が軒を連ねる。
 【錦山】は、その東山につらなる秀麗な山で、【飛騨八景の一】に数えられている。
 城山の高山城天守閣あとにのぼると、ほぼ正面にあたり、その背後に聳率する乗鞍岳、焼岳、穂高連峰、槍ヶ岳、双六岳、笠ヶ岳など著名な飛騨山脈(北アルプス)の名峰が一望できる。
 その前山である【錦山】は、他の山々が峩々としたあらあらしさを見せている中にあって、二等辺三角形の裳裾を引いていて、この山容が自然のままのすがたではなく、あきらかに人工の手が加わっていることを認識する。
 【錦山】は、古代には、神が降る山・ご神体山であった。その山麓には、【錦山神社】が鎮座する。御神体は【物部守屋とその眷属】で、「錦山を御神体とする山上祭祀の里宮」に該る。
 つまり、祭祀の形態は大和の大三輪山とおなじである。私論であるが、延喜式神名帳に記載される飛騨の延喜式神社は八社であるが、そのなかの【荏名神社】とは、この
錦山神社のことではないかと推察する。
 江戸時代、飛騨高山の国学者、田中大秀翁は、江名子地区に【荏名神社】と千種圓を住居として多くの子弟を導いた。その功績は大きいが、正しい【荏名神社】とは、現在の【錦山神社】であり、田中大秀翁の誤認ではないだろうかと考える。