◆飛騨高山の物部氏 一
これは仮説である。
飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の東部は、かつては「そらまち」とよばれる高台にある集落で、金森氏の藩政期には、その武家屋敷が京都を模倣し、斐太ノ工らにより創建された、大隆寺、宗猷寺、善應寺、法華寺、天照寺、素玄寺、大雄寺、雲龍寺など
各宗の寺院が軒を連ねる。
【錦山】は、その東山につらなる秀麗な山で、【飛騨八景の一】に数えられている。
城山の高山城天守閣あとにのぼると、ほぼ正面にあたり、その背後に聳率する乗鞍岳、焼岳、穂高連峰、槍ヶ岳、双六岳、笠ヶ岳など著名な飛騨山脈(北アルプス)の名峰が一望できる。
その前山である【錦山】は、他の山々が峩々としたあらあらしさを見せている中にあって、二等辺三角形の裳裾を引いていて、この山容が自然のままのすがたではなく、あきらかに人工の手が加わっていることを認識する。
【錦山】は、古代には、神が降る山・ご神体山であった。その山麓には、【錦山神社】が鎮座する。御神体は【物部守屋とその眷属】で、「錦山を御神体とする山上祭祀の里宮」に該る。
つまり、祭祀の形態は大和の大三輪山とおなじである。私論であるが、延喜式神名帳に記載される飛騨の延喜式神社は八社であるが、そのなかの【荏名神社】とは、この
錦山神社のことではないかと推察する。
江戸時代、飛騨高山の国学者、田中大秀翁は、江名子地区に【荏名神社】と千種圓を住居として多くの子弟を導いた。その功績は大きいが、正しい【荏名神社】とは、現在の【錦山神社】であり、田中大秀翁の誤認ではないだろうかと考える。
これは仮説である。
飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の東部は、かつては「そらまち」とよばれる高台にある集落で、金森氏の藩政期には、その武家屋敷が京都を模倣し、斐太ノ工らにより創建された、大隆寺、宗猷寺、善應寺、法華寺、天照寺、素玄寺、大雄寺、雲龍寺など
各宗の寺院が軒を連ねる。
【錦山】は、その東山につらなる秀麗な山で、【飛騨八景の一】に数えられている。
城山の高山城天守閣あとにのぼると、ほぼ正面にあたり、その背後に聳率する乗鞍岳、焼岳、穂高連峰、槍ヶ岳、双六岳、笠ヶ岳など著名な飛騨山脈(北アルプス)の名峰が一望できる。
その前山である【錦山】は、他の山々が峩々としたあらあらしさを見せている中にあって、二等辺三角形の裳裾を引いていて、この山容が自然のままのすがたではなく、あきらかに人工の手が加わっていることを認識する。
【錦山】は、古代には、神が降る山・ご神体山であった。その山麓には、【錦山神社】が鎮座する。御神体は【物部守屋とその眷属】で、「錦山を御神体とする山上祭祀の里宮」に該る。
つまり、祭祀の形態は大和の大三輪山とおなじである。私論であるが、延喜式神名帳に記載される飛騨の延喜式神社は八社であるが、そのなかの【荏名神社】とは、この
錦山神社のことではないかと推察する。
江戸時代、飛騨高山の国学者、田中大秀翁は、江名子地区に【荏名神社】と千種圓を住居として多くの子弟を導いた。その功績は大きいが、正しい【荏名神社】とは、現在の【錦山神社】であり、田中大秀翁の誤認ではないだろうかと考える。
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