暘州通信

日本の山車

◆物部守屋 五

2018年02月07日 | 日本山車論
◆物部守屋 五

 これは仮説である。

 蘇我馬子の命により、物部守屋を討った厩戸皇子(聖徳太子)の妻の母は守屋の妹であった。さぞ、忸怩たる思いがあったことであろう。聖徳太子は、荒陵山 四天王寺の一角に、物部守屋と中臣勝海の霊廟を立てている。

 法隆寺の創建
 法隆寺が建立されたのは、六〇七年と伝わる。蘇我馬子による、物部守屋討伐がおこなわれた、【丁未の乱・ていびのらん】 が五九七年七月であるから、ちょうど一〇年ののちのことである。
 この、法隆寺建立には、飛騨高山から斐太ノ工(物部氏)が招かれ諸堂、東員夢殿の建立にあたっている。「金堂の釈迦三尊像」は、飛騨の【鞍造之鳥利】の作とされるが、おおらく、斐太ノ工と行を共にしたと考えられる。


◆物部守屋 四

2018年02月07日 | 日本山車論
◆物部守屋 四

 これは仮説である。

 一説に、物部守屋の子である、【守屋片野田】は筑前鞍手へ逃れたとされるが、実は、一族の委奴氏(猪名、為奈氏、稲氏とも)らと、斐太(飛騨)の【日氏、物部氏】を頼り飛騨入りした。その居住地は、現、高山市東山一帯、小八賀郷、山口、石浦、千島、西之一色、花里村などに定住し土木、建設のしごとに従事するようになった。
 物部片野田が落ち着いた先は、現、高山市片野町で今もその名が残る。片野田は、一族の氏神である、オオヤマクイノカミ(大山咋神)を奉じる【山王宮】の小祀を建立し、物部の再起を祈願したと伝わる。
 のちに、高山市の三福寺にあった【三佛寺城】が木曾義仲に攻められて落城したことから城内にあった、【鎮守の山王宮】は遷座となり、物部片野田の屋敷にあった【山王宮】に併祀された。

 天正年間に到り、豊臣秀吉の命で飛騨の姉小路氏(三木氏)を攻めた金森長近は、飛騨高山の城下町経営に着手し、物部片野田屋敷の片野村杉ヶ平(現、高山市片野町杉ヶ丘)の屋敷に祀られていた【山王宮】を、高山城山の一角に移し、飛騨高山城下町の陳寿とした。
 この山王宮で齋行される祭禮が、華麗な山車で知られる、日本三大曳山祭・春の高山祭で名高い【日枝神社祭禮】である。

 委奴氏の定住地は【イナ】であった。現在は江名子町でとなっていて、祭神 タカミムスビノカミ(高御産巣日神、高皇産霊尊)を再任とする『延喜式神名帳』記載 飛騨八社中の【荏名神社・えなじんじゃ】を創祀した。


◆物部守屋 四

2018年02月07日 | 日本山車論
◆物部守屋 四

 これは仮説である。

 一説に、物部守屋の子である、【守屋片野田】は筑前鞍手へ逃れたとされるが、実は、一族の委奴氏(猪名、為奈氏、稲氏とも)らと、斐太(飛騨)の【日氏、物部氏】を頼り飛騨入りした。その居住地は、現、高山市東山一帯、小八賀郷、山口、石浦、千島、西之一色、花里村などに定住して土木、建設のしごとに従事するようになった。
 物部片野田が落ち着いた先は、現、高山市片野町で今もその名が残る。片野田は、一族の氏神である、オオヤマクイノカミ(大山咋神)を奉じる【山王宮】の小祀を建立し、物部の再起を祈願したと伝わる。
 のちに、高山市の三福寺にあった【三佛寺城】が木曾義仲に攻められて落城したことから城内にあった、【鎮守の山王宮】は遷座となり、物部片野田の屋敷にあった【山王宮】に併祀された。

 天正年間に到り、豊臣秀吉の命で飛騨の姉小路氏(三木氏)を攻めた金森長近は、飛騨高山の城下町経営に着手し、物部片野田屋敷の片野村杉ヶ平(現、高山市片野町杉ヶ丘)の屋敷に祀られていた【山王宮】を、高山城山の一角に移し、飛騨高山城下町の陳寿とした。

 この山王宮で齋行される祭禮が、華麗な山車で知られる、日本三大曳山祭・春の高山祭で名高い【日枝神社祭禮】である。