暘州通信

日本の山車

◆27118 ひんだのをどりはおもしろや 一 更新

2012年07月07日 | 日本の山車
◆27118 ひんだのをどりはおもしろや

 橋本香坡と、谷口與鹿は長崎旅行の帰途柳川から佐賀藩を経て、筑後川に沿って豊後日田(現大分県日田市)を訪れた。安政四年十月のことである。豊後日田には【遠思楼(えんしろう)】で名高い広瀬淡窓(ひろせたんそう)の私塾があったが、淡窓は、香坡と與鹿が訪ねた前年に死去していて会うことができなかった。しかしここで、飛騨から来て学んでいた上村木曾衛門満義(かみむらきそえもんみつよし)、おなじく船津吉田(現飛騨市)にある常蓮寺の吉田文助に逢っている。
上村木曾衛門はのちに飛騨にもどり郡代代官所の地役人となり、公務で飛騨各地に旅行し、その旅行記を著述したが、没後【飛騨國中案内(ひだこくちゅうあんない)】として出版された。そのなかに、【猿引き】とよばれる猿まわしをして全国をめぐった藝人たちがかなりいたことが記されている。この【飛騨の猿まわし】と、【飛騨のをどり】がどのように関わっていたか不明だが、江戸時代には【ひんだのをどり】としてかなり著名であり【ひんだのをどりはおもしろや】と評されている。【ひんだとは飛騨のこと】である。
 谷口與鹿は摂津伊丹郷町(現兵庫県伊丹市)に滞在していたときには、所望があると披露したと伝えられている。大正時代ころまではかすかに伝承もあったようだが、飛騨地方には現在はもう行なわれていないと思われる。筆者の記憶に残るものでは富山市(旧八尾町)の【越中八尾のおわら】に近いもので、【飛騨おわら】ともいえるもので、越中おわらの元唄ともいえるものであった。
 江戸時代文化年間に飛騨を訪れた浦上玉堂が琴曲にしたものがあったというが、これも今に伝わるかどうか不明である。
 広瀬旭荘(ひろせきょくそう)は、広瀬淡窓の弟で、北陸をめぐって飛騨入りししばらく滞在したが、のちに摂津池田(現大阪府池田市)に住み、谷口與鹿とは入魂の間であった。
 長唄に【外記猿・げきさる】がある。もとは【外記節】の【猿】であるが現在は外記猿で通っている。

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