暘州通信

日本の山車

29926 藤本鉄石

2008年06月05日 | 日本の山車
29926 藤本鉄石
文化十三年(一八一六)ー 文久三年(一八六三)。通称は津之助、鉄石は号である。諱は真金。岡山藩士だったが脱藩、各地を歩いて幕末の志士らと交わった。絵をよくし、鉄石の名で画いたものが多く残る。
倒幕の魁ともなった天誅組義挙の首魁のひとりで、森田節斎、伴林光平、藤井藍田、橋本香坡らとは伊丹郷町で知り合っている。
庄内では清河八郎の生家である斎藤家、信州小布施の高井鴻山を訪問している。高井鴻山は、葛飾北斎を招いて自宅に離れをつくって、北斎の絵の手ほどきを受け、北斎はまた山車の天井画を仕上げている。
飛騨高山の郡代であった小野朝右衛門の代参として、伊勢参りの旅に出ていた息子、のちの山岡鉄舟と名古屋の旅籠で泊まりあわせ、そのまま伊勢まで行をともにしながら、当時禁書であった林子平の著述について語り合っている。
伊丹では岡田家に止宿し、明倫堂で橋本香坡、谷口與鹿と話し合っている。
天誅組義挙は、十津川郷士らが呼応し、大和五條(現五條市)で、代官所を襲撃、気勢を上げたものの、孝明天皇の行幸中止で、あえなく挫折し、藤井藍田は吉野の鷲家口で討死。藤本鉄石も落命し、明治を迎えることができなかった。
孝明天皇は暗殺され、坂本龍馬、中岡慎太郎も切られた。孝明天皇の暗殺者は岩倉具視と目され、坂本龍馬と中岡慎太郎を切ったのは不明といわれるが、当時新選組を率いて京都に上っていた山岡鉄舟である。
新選組の京都屯所は壬生におかれたが、大坂のした寺町にも出先の屯所があった。鳥羽伏見の合戦で敗退した長州をかばった廉で捉えられた橋本香坡はそこで死去している。





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