暘州通信

日本の山車

◆36677 高田屋嘉兵衛

2011年10月31日 | 日本の山車
◆36677 高田屋嘉兵衛
□汎論
 高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)、明和六年(一七六九)-文政一〇年(一八二七)は、淡路國都志本村、現兵庫県洲本市五色町の農民の子として生まれ、幼名を菊弥といった。若いときには漁業に従事したが、十八歳のとき兵庫へ出て淡路と大坂とを往復する瓦船に乗った。寛政二年(一七九〇年)に樽廻船の水主から船頭となり、紀州では鰹漁にのり、また和泉屋伊兵衛のもとで船頭となって出羽の酒田へと航海している。
 寛政七年(一七九五)に北風家の援助を得て、庄内(山形県)で一七〇〇石積の辰悦丸を建造して廻船業を開業、蝦夷へと乗り出し、江戸時代後期の廻船業者、また海商である。幕府役人だった、近藤重蔵、間宮林蔵、最上徳内などの重任を得て、蝦夷との交易を許され、幕府の命令により択捉航路(えとろふこうろ)を開いた。さらに、近藤重蔵の依頼で、国後島(くなしりとう)と、択捉島(えとろふとう)間の航路を開拓。こうして得た物産類は【蝦夷地物産売捌方】として扱った。享和元年(一八〇一)に、国後島(くなしりとう)と、択捉島(えとろふとう)の海路を開拓し、幕府から【蝦夷地常雇船頭】に任じられ苗字帯刀が許された。
 根室に祀られる根室金刀比羅神社は、この高田屋嘉兵衛が祀ったものであり、歯舞島(はぼまいとう)、色丹島(しこたんとう)、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)の北方四島開拓の功績者である。
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇第129回「Такадая Кахея」
2011/6/9(木) 午後 9:49
... 享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。 (Wikipedia 日本語版「高田屋嘉兵衛」より引用 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/bojan_international/45032627.html

◇高田屋屋敷跡 (護国神社坂下)
2011/1/8(土) 午後 9:23
... 箱館を拠点にして国後・択捉両島の漁場を開拓、回漕業や漁場を経営して巨額の富を得て ... 高田屋嘉兵衛と幕府との関係については函館市史にこう記されている  淡路の船頭高田屋嘉兵衛の登用であるが、嘉兵衛は船子より身を起こして後船主となり ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/harukan50/22544387.html

◇日本周遊紀行(87)函館 「高田屋嘉兵衛」
2010/4/12(月) 午前 9:32
... 直後、幕府の 蝦夷御用船頭 に任ぜられている。 晩年は、故郷淡路島に戻り、港や道路の修築など郷土のために力を尽くし、1827(文政10)年 ... 高田屋嘉兵衛は北海道、千島の漁場を開拓して得た利益を函館の開発に投入した。 函館の歴史を語る ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2007/32285784.html

◇旧武井商店酒造部(移築・復元ー1)
2009/4/25(土) 午後 0:25
... 日米和親条約締結2年後の1856年に一船頭の忠蔵と名乗る人物が石炭塊を拾って箱館奉行に届け ... 戊辰戦争が始まり幕府方は敗北し、採炭は開拓使に引き継がれた。開拓使は物産局に鉱山課を置き岩内炭鉱係り3名を駐在させ本格的に採炭にあたった。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/vrantey/15713966.html

◇高田屋嘉兵衛
2008/12/8(月) 午後 8:20
... 1801(享和元) 33歳      国後航路の発見・択捉島開拓の功で、幕府から「 蝦夷地常雇船頭 」を任じられ、     苗字(高田屋)・帯刀を許さる     漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で 「高田屋」 の財は上昇した       '04(文化 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/59290630.html

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