論攷 斐太ノ工 十一
「これは仮説である」
物部氏、中臣氏は古代国家における祭祀を司った氏である。大和朝廷成立時の初期においては、物部氏が有力者であり、五世紀ころから中臣氏が強い勢力を持つようになったと考えられる。とくに中臣氏は、大和多武峰(とうのみね)の談山神社裏山で策を練ったとされる【大化の改新】と、その後の功績において【藤原姓】が与えられのちの藤原一門の栄達の道をひらいた。
しかし、四-六世紀ころにかけて、佛教が伝来したと考えられるが、日本の【佛教公伝の通説】となっている、六世紀中頃の、欽明天皇期(五三九-五七一)に、朝鮮の百済王の勧奨をうけ、仏教を受け入れるか否かを臣に問うたところ、物部尾輿や中臣鎌子らはこれに反対し、蘇我稲目は賛成して意見は二分した。欽明天皇はこれをうけて仏教への帰依をとりやめ、百済王から贈られた仏像を下賜し、蘇我稲目に対しは礼拝や寺の建立を許可した。このあと、疫病が流行したこともあり、これは、異教(佛教)を受けいれようとしたことへの神の瞋恚であるとの臣下の意見に、欽明天皇も従わざるを得ず、佛像の廃棄、寺の破却や焼却を許した。
しかし、佛教受け入れの趨勢は衰えず、
推古天皇元年(五九三)には、聖徳太子による大阪四天王寺の建立が始まり、聖徳太子は自ら山に分け入って杉の木を伐り四天王寺の用材にあてる姿は、京都祇園祭の山【太子山】の人形にもなっている。
わが国に建立された最古の寺院は、四天王寺の東部にあったとされる【百済大寺】とする説がある。所在を大阪市生野区の百済の地にあてる説があるが、資料や記録を欠き不明の点が多い。欽明期に償却された寺院であろうか。
さらに七世紀の初頭、推古天皇九年(六〇一)には、聖徳太子は大和斑鳩の地に斑鳩宮を建て、居所の近くに建立したのが【法隆寺】だとされる。異説もあるが、法隆寺金堂東の間の銅造薬師如来坐像光背銘には、「用明天皇は自らの病気平癒を祈願して伽藍を建立したが、天皇が間もなくなくなられたので、その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が、推古天皇十五年(六〇七)に完成した」旨が記される。この記録に従えば法隆寺の完工は六〇七年ということになる。
しかし、当時は新しい宗教である仏教を受け入れるか否かについては熾烈な争いとなった。
用命天皇期(五八五-五八七)、用命天皇は佛教に対する帰依の念が篤く、妃が蘇我氏の娘だったこともあって、佛教を擁護したがこの時期に再度病が流行し、天皇もこれに罹患して世を去った。これは物部氏らの口実となったが、蘇我氏と物部氏の対立はさらなる皇位継承問題とも重なり深まるばかりであった。
しかし、この対立はやがて丁未の役(五八七)により、蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させ決着した。これにより、物部氏の凋落がはじまる。
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/
◇奈良世界遺産の旅―⑨
2010/4/18(日) 午後 6:13
... 一方、保守派の物部氏は排仏を固執して両者の対立が次第に激しくなり、仏教も色々な迫害を受けることになる。しかし用明天皇二年(587年)になって蘇我馬子は、甥の子であり娘の婿に ... 飛鳥の地に初めて正式の仏寺建立に着手(588年)した。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/rhje63/13460741.html
◇天皇も筑紫では、仏教でした。
2009/12/12(土) 午後 0:36
観世音寺の建立で 斉明天皇も天智天皇も太宰府に於いては、 仏教を信仰され、仏心を持っていらしたということです。 磐井の乱で物部荒斐が、筑紫に入り物部氏がいます。 宗像の君も栄えています。 これら北部九州の天皇の臣下や 皇祖神・天照大神の妹 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/v88_88v/49866571.html
◇22-05 法興寺(飛鳥寺)の建立
2006/10/26(木) 午後 4:21
... 日本書紀によれば、崇峻天皇元年の条にあるように即位前紀に厩戸皇子、蘇我馬子大臣らが物部守屋大連を攻めた際、大臣は「凡諸天皇、大神王等、助衛於我、使獲利益 ... 壬辰朔丙辰にもみえるように塔婆の建立も着々進捗していた様子を知ることが ...
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado0409/41498745.html
◇23 東大寺大仏殿建立の意味
2006/8/30(水) 午後 5:47
... 消極的な物部氏が争い、蘇我氏が勝利すると ... そして、藤原氏と関係の深い、聖武天皇は、仏教の優れた学問や技術(つまり文化)によって、日本の国をまとめようとして、東大寺と大仏殿を建立しました。 つまり、東大寺大仏殿の開眼供養会(752年)は ...
http://blogs.yahoo.co.jp/nono5552katch/18612142.html
◇「鉱脈探査と指標植物と秦氏と物部氏などなど」
2006/8/12(土) 午前 1:57
... 石山寺の建立にともない、多くの修験者 ... 物部氏に関してはHP映像の古代祭祀・「物部氏・ニギハヤヒのきたみちを歩く」でも書き込んだが ... そこで豊後国風土記の景行天皇がどうもそれではないかと思えるが、では景行天皇が後の大分の君かと言わ ...
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/16969527.html
「これは仮説である」
物部氏、中臣氏は古代国家における祭祀を司った氏である。大和朝廷成立時の初期においては、物部氏が有力者であり、五世紀ころから中臣氏が強い勢力を持つようになったと考えられる。とくに中臣氏は、大和多武峰(とうのみね)の談山神社裏山で策を練ったとされる【大化の改新】と、その後の功績において【藤原姓】が与えられのちの藤原一門の栄達の道をひらいた。
しかし、四-六世紀ころにかけて、佛教が伝来したと考えられるが、日本の【佛教公伝の通説】となっている、六世紀中頃の、欽明天皇期(五三九-五七一)に、朝鮮の百済王の勧奨をうけ、仏教を受け入れるか否かを臣に問うたところ、物部尾輿や中臣鎌子らはこれに反対し、蘇我稲目は賛成して意見は二分した。欽明天皇はこれをうけて仏教への帰依をとりやめ、百済王から贈られた仏像を下賜し、蘇我稲目に対しは礼拝や寺の建立を許可した。このあと、疫病が流行したこともあり、これは、異教(佛教)を受けいれようとしたことへの神の瞋恚であるとの臣下の意見に、欽明天皇も従わざるを得ず、佛像の廃棄、寺の破却や焼却を許した。
しかし、佛教受け入れの趨勢は衰えず、
推古天皇元年(五九三)には、聖徳太子による大阪四天王寺の建立が始まり、聖徳太子は自ら山に分け入って杉の木を伐り四天王寺の用材にあてる姿は、京都祇園祭の山【太子山】の人形にもなっている。
わが国に建立された最古の寺院は、四天王寺の東部にあったとされる【百済大寺】とする説がある。所在を大阪市生野区の百済の地にあてる説があるが、資料や記録を欠き不明の点が多い。欽明期に償却された寺院であろうか。
さらに七世紀の初頭、推古天皇九年(六〇一)には、聖徳太子は大和斑鳩の地に斑鳩宮を建て、居所の近くに建立したのが【法隆寺】だとされる。異説もあるが、法隆寺金堂東の間の銅造薬師如来坐像光背銘には、「用明天皇は自らの病気平癒を祈願して伽藍を建立したが、天皇が間もなくなくなられたので、その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が、推古天皇十五年(六〇七)に完成した」旨が記される。この記録に従えば法隆寺の完工は六〇七年ということになる。
しかし、当時は新しい宗教である仏教を受け入れるか否かについては熾烈な争いとなった。
用命天皇期(五八五-五八七)、用命天皇は佛教に対する帰依の念が篤く、妃が蘇我氏の娘だったこともあって、佛教を擁護したがこの時期に再度病が流行し、天皇もこれに罹患して世を去った。これは物部氏らの口実となったが、蘇我氏と物部氏の対立はさらなる皇位継承問題とも重なり深まるばかりであった。
しかし、この対立はやがて丁未の役(五八七)により、蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させ決着した。これにより、物部氏の凋落がはじまる。
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「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
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◇奈良世界遺産の旅―⑨
2010/4/18(日) 午後 6:13
... 一方、保守派の物部氏は排仏を固執して両者の対立が次第に激しくなり、仏教も色々な迫害を受けることになる。しかし用明天皇二年(587年)になって蘇我馬子は、甥の子であり娘の婿に ... 飛鳥の地に初めて正式の仏寺建立に着手(588年)した。 ...
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◇天皇も筑紫では、仏教でした。
2009/12/12(土) 午後 0:36
観世音寺の建立で 斉明天皇も天智天皇も太宰府に於いては、 仏教を信仰され、仏心を持っていらしたということです。 磐井の乱で物部荒斐が、筑紫に入り物部氏がいます。 宗像の君も栄えています。 これら北部九州の天皇の臣下や 皇祖神・天照大神の妹 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/v88_88v/49866571.html
◇22-05 法興寺(飛鳥寺)の建立
2006/10/26(木) 午後 4:21
... 日本書紀によれば、崇峻天皇元年の条にあるように即位前紀に厩戸皇子、蘇我馬子大臣らが物部守屋大連を攻めた際、大臣は「凡諸天皇、大神王等、助衛於我、使獲利益 ... 壬辰朔丙辰にもみえるように塔婆の建立も着々進捗していた様子を知ることが ...
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◇23 東大寺大仏殿建立の意味
2006/8/30(水) 午後 5:47
... 消極的な物部氏が争い、蘇我氏が勝利すると ... そして、藤原氏と関係の深い、聖武天皇は、仏教の優れた学問や技術(つまり文化)によって、日本の国をまとめようとして、東大寺と大仏殿を建立しました。 つまり、東大寺大仏殿の開眼供養会(752年)は ...
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◇「鉱脈探査と指標植物と秦氏と物部氏などなど」
2006/8/12(土) 午前 1:57
... 石山寺の建立にともない、多くの修験者 ... 物部氏に関してはHP映像の古代祭祀・「物部氏・ニギハヤヒのきたみちを歩く」でも書き込んだが ... そこで豊後国風土記の景行天皇がどうもそれではないかと思えるが、では景行天皇が後の大分の君かと言わ ...
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