暘州通信

日本の山車

玉依姫 様 (六〇〇)

2013年09月14日 | 日本の山車
玉依姫 様 (六〇〇)
 これは仮説です。
 既述のように、縄文人(アイヌ人)、日氏とその一族である、中臣氏、忌部氏、物部氏。さらには、海神系・綿津見氏、その氏族のカモ氏。宗像氏。さらには出雲氏へと変遷がありましたが、二世紀ころまでに、日本の祭祀・古神道は、ほぼ完成しただろうと推定します。おそらく二世紀前後ころから韓半島(朝鮮半島)からの渡来人が日本に居住するようになりましたが、これもはじめのうちは韓半島(朝鮮半島)に渡っていた倭人が還来し、これが、さらに倭人と韓人の混血氏族、さらには高句麗、百濟、新羅からの古韓人(古朝鮮人も渡来するようになり。二世紀から六世紀にかけてかなりの人数が渡来することになったと推察されます。
 出雲氏、物部氏は、大きな勢力となりましたが、とりわけ、武力を掌握していたこと。房総、常陸において、武具には砂鉄から精製された鉄が使われるようになって、武人集団として圧倒的な権力を掌握したと考えられます。この物部氏は、【大和政権の國譲り】に対し、出雲氏、諏訪氏から離れ、大和朝廷に着き、物部氏を支える、香取氏族、武甕槌氏族の働きにより、その実力の差を知る出雲氏、諏訪氏は戦わずして敗北する苦渋の決断をせざるを得なかったと考えられます。
 大和朝廷の成立のかげには、物部氏の功績があり。さらに、その本拠は房総にありました。
 このことは、古代日本国家の淵源は関東にあったこと。このことは、さらに、【平将門】が、房総を大和朝廷発祥の地を標榜するに到った根拠ともいえましょう。
 【玉依姫さんのブログ】はこちら、
 http://blogs.yahoo.co.jp/miyamoto83885

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