玉依姫 様 (二五二)
【東西文化の回廊】
四 神社の来た道
これは仮説です。
聖徳太子は、【厩戸皇子】の名があり、【聖徳太子・しょうとくたいし】の称号は後世の呼称といわれます。用明天皇を父に、欽明天皇の皇女である【穴穂部間人皇女】を母とし、その第二皇子として誕生したといわれます。
聖徳太子は、日本への佛教伝来に大きな功績があったことで著名ですが、佛教を積極的に導入しようとする【蘇我馬子】と既成の神道を守るべきだとする【物部守屋】のあいだに激しい対立があったとされ、【用明天皇】二年(五八七)に、天皇崩御となると皇位を巡る争いとなりますが、これが発端となり、蘇我馬子は、【敏達天皇の皇后である、豊御食炊屋姫の詔をうけて【穴穂部皇子を誅殺】し、さらに、物部守屋を討つべく軍を起こし、河内國渋川郡にあった守屋の館を攻めますが、この戦には厩戸皇子(聖徳太子)も従軍しています。武士族である守屋の軍勢は、頑強であったが、ついに守屋は【迹見赤檮(とみのいちい)】の矢にあたって死去し、以後物部氏は急速に衰退したと伝わります。
しかし、皇極天皇二年(六四三)には、【蘇我入鹿】が聖徳太子の子とされる【山背大兄王】を攻め、王は自害しています。さらに、わずか二年後の、皇極天皇四年(六四五)には、【中大兄皇子】らが宮中で蘇我入鹿、そがいるか)を倒し、入鹿の父である【蘇我蝦夷(そがえみし)】が自害するという【乙巳の変】がおきて蘇我氏は滅亡しました。
【東西文化の回廊】
四 神社の来た道
これは仮説です。
聖徳太子は、【厩戸皇子】の名があり、【聖徳太子・しょうとくたいし】の称号は後世の呼称といわれます。用明天皇を父に、欽明天皇の皇女である【穴穂部間人皇女】を母とし、その第二皇子として誕生したといわれます。
聖徳太子は、日本への佛教伝来に大きな功績があったことで著名ですが、佛教を積極的に導入しようとする【蘇我馬子】と既成の神道を守るべきだとする【物部守屋】のあいだに激しい対立があったとされ、【用明天皇】二年(五八七)に、天皇崩御となると皇位を巡る争いとなりますが、これが発端となり、蘇我馬子は、【敏達天皇の皇后である、豊御食炊屋姫の詔をうけて【穴穂部皇子を誅殺】し、さらに、物部守屋を討つべく軍を起こし、河内國渋川郡にあった守屋の館を攻めますが、この戦には厩戸皇子(聖徳太子)も従軍しています。武士族である守屋の軍勢は、頑強であったが、ついに守屋は【迹見赤檮(とみのいちい)】の矢にあたって死去し、以後物部氏は急速に衰退したと伝わります。
しかし、皇極天皇二年(六四三)には、【蘇我入鹿】が聖徳太子の子とされる【山背大兄王】を攻め、王は自害しています。さらに、わずか二年後の、皇極天皇四年(六四五)には、【中大兄皇子】らが宮中で蘇我入鹿、そがいるか)を倒し、入鹿の父である【蘇我蝦夷(そがえみし)】が自害するという【乙巳の変】がおきて蘇我氏は滅亡しました。
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