暘州通信

日本の山車

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 三

2011年01月30日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 三
 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧家では、江戸時代以来、茶道は言うにおよばず、冠婚葬祭などの禮法はほとんどは宗和流に則って行われてきた。
 婚礼では婚礼料理は朱漆塗の膳に朱椀が用いられたが、飯椀、汁椀、つぼ、ひら、かしわん、などは地元の木地師にお願いして特別に轆轤をひいてもらい、能登の輪島まではこんで、漆塗りをしてもらった。江戸時代から、明治、大正期には、稲忠さんにはずいぶんお世話になったものである。八寸は加賀の九谷に誂えた。のちには、飛騨渋艸焼きの磁器が使われている。渋艸は高山市の西部の岡本町にある窯元で、小字を【しふくさ】といったところから地名が窯元の名称になった。詳細は不明であるが、天保時代に開かれたのではないかといわれる。奈良県安堵むらの陶芸家で名高い富本憲吉氏が戦時疎開していたとき、この渋艸で作陶していたことがある。渋艸焼(しぶくさやき)は高雅な作風が好まれ高山のみならず各地から訪れる人は多い。この八寸には雌雄の鱚(きす)二匹を一本の竹の平串に刺し、焼いたものが使われたが婚礼の席には必須の縁起物で、婚礼が決まると相当前から越中の魚問屋にお願いしてそろえてもらうことであった。
 花嫁行列には青年団が総出で先頭に立って、【俄(にわか)】を演じ、高砂の尉と姥(じょうとうば)、鶴亀などをわら細工で拵え、新郎の家に届け、床の間に飾られた。
 火登園は長いものは三日、五日、長いときは一週間におよび、訪問客は朝夕を問わず何度でも押しかけ祝詞を述べたが、どのつど来客には三汁五菜を出してもてなしたが、これには組内のご婦人たちの奉仕があった。
 茶懐石では、宗和流の会席料理が出されたが、高山では今はほとんど行われず、京都、金沢の老舗には今も伝えられているところがある。
 
 

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