暘州通信

日本の山車

◆34606 セオリツヒメ 六

2011年06月15日 | 日本の山車
◆34606 セオリツヒメ 六

 これは仮説である。
 六世紀の大和政権から七世紀の平城遷都を経て、一〇世紀の平安遷都が定まる間には伊勢神宮が成立した。この時期は、また、【セオリツヒメ(瀬織津姫)】が排斥された時期でもある。この期間には、天皇政権により、民間の【セオリツヒメ(瀬織津姫)】祭祀にもかなりの制限が加えられたと想像されるが、民衆のセオリツヒメ祭祀は、農耕を営むものには不可欠であり、失われることなく、陰でひっそりと続けられていた。それは、あたかも江戸時代の【キリシタン禁制】と相似たところがある。キリシタンの信者は、燈籠の竿石に見かけ上の観世音菩薩を刻み【マリア観音】として崇め、織部燈籠を【キリシタン燈籠】として信仰の対象とした。六世紀から一〇世紀のあいだの【セオリツヒメ(瀬織津姫)】祭祀にはこれに近いものがあったと考えられる。

◆34605 セオリツヒメ 五

2011年06月15日 | 日本の山車
◆34605 セオリツヒメ 五

 これは仮説である。
 【セオリツヒメ(瀬織津姫)】という名称には、深山より流れ下る幽谷の印象がこめられているように感じる。これは、山深く瀧のある場所、清らかな水の湧き出るところ、あまた水の滸(ほとり)などに祀られることが多いことからの連想かもしれない。水の畔に祀られる連想は、またベンザイテン(弁才天)の印象とも重なる。古代の農耕においては、水を司る、ミクマリノカミ(水分ノ神)が祀られてきた。祭神はミズハノメノカミ(罔象女神)である。また雨など天然自然現象の中で水を司る、タカオカミ(高□神、□は文字なし。雨かんむりに口三つをならべ、その下に龍)、クラオカミ(闇□神、□は文字なし、前記に同じ)が祀られ、旱魃のときなどは雨乞いが行われてきた。雨は龍神の支配するところとあって、八大龍王が併祀されている例もある。京都市の貴布禰神社は、タカオカミ、クラオカミの両祭神が祀られる。このことからセオリツヒメの神格をミズハノメノカミ、タカオカミ、クラオカミとする祭祀例がある。しかし、いずれの場合にもセオリツヒメの神格をミズハノメノカミ、タカオカミ、クラオカミに比定し、同神と見做すことはできないであろう。

◆34605 セオリツヒメ 五

2011年06月15日 | 日本の山車
◆34605 セオリツヒメ 五

 これは仮説である。
 平安時代に上梓された、延喜式神名帳の第八巻に、【大祓祝詞】がある。
 天武天皇により再興され、文武天皇により大祓神事が定められたといわれるが、その大祓祝詞の下段に、ハヤアキツヒメ(速秋津姫)、ハヤサスラヒメ(速佐須良姫)とともに【セオリツヒメ(瀬織津姫)】の名があり、この三姫を姉妹とし、【セオリツヒメ(瀬織津姫)】は末娘となっている。この三姫は宗像三女神 に酷似し、とくに【セオリツヒメ(瀬織津姫)】は、イチキシマヒメ(市杵島姫)にちかい。
 これまでまったく表面に出ることのなかった【セオリツヒメ(瀬織津姫)】の三姉妹神がはじめて公式文書で扱われている。
 すでに述べたが、一〇世紀の平安時代まで【セオリツヒメ(瀬織津姫)】の存在は伏せられたままであった。これはアマテラスオオミカミ(天照大御神)を皇室祖神として表に出すため、意図的に排斥されていたと考えるほうが自然である。
 とまれ、【セオリツヒメ(瀬織津姫)】は【祓神(はらえのかみ)】として、扱われるにいたって、各地に若干ながら【祓神社】、【祓戸神社】が祀られるようになった。この名称の神社の祭神はたとえ不明あっても、【セオリツヒメ(瀬織津姫)】である可能性が高い。