◆34606 セオリツヒメ 六
これは仮説である。
六世紀の大和政権から七世紀の平城遷都を経て、一〇世紀の平安遷都が定まる間には伊勢神宮が成立した。この時期は、また、【セオリツヒメ(瀬織津姫)】が排斥された時期でもある。この期間には、天皇政権により、民間の【セオリツヒメ(瀬織津姫)】祭祀にもかなりの制限が加えられたと想像されるが、民衆のセオリツヒメ祭祀は、農耕を営むものには不可欠であり、失われることなく、陰でひっそりと続けられていた。それは、あたかも江戸時代の【キリシタン禁制】と相似たところがある。キリシタンの信者は、燈籠の竿石に見かけ上の観世音菩薩を刻み【マリア観音】として崇め、織部燈籠を【キリシタン燈籠】として信仰の対象とした。六世紀から一〇世紀のあいだの【セオリツヒメ(瀬織津姫)】祭祀にはこれに近いものがあったと考えられる。
これは仮説である。
六世紀の大和政権から七世紀の平城遷都を経て、一〇世紀の平安遷都が定まる間には伊勢神宮が成立した。この時期は、また、【セオリツヒメ(瀬織津姫)】が排斥された時期でもある。この期間には、天皇政権により、民間の【セオリツヒメ(瀬織津姫)】祭祀にもかなりの制限が加えられたと想像されるが、民衆のセオリツヒメ祭祀は、農耕を営むものには不可欠であり、失われることなく、陰でひっそりと続けられていた。それは、あたかも江戸時代の【キリシタン禁制】と相似たところがある。キリシタンの信者は、燈籠の竿石に見かけ上の観世音菩薩を刻み【マリア観音】として崇め、織部燈籠を【キリシタン燈籠】として信仰の対象とした。六世紀から一〇世紀のあいだの【セオリツヒメ(瀬織津姫)】祭祀にはこれに近いものがあったと考えられる。