◆06707 男神社祭
□社名 男神社(おのじんじゃ)
□所在地 大阪府泉南市男里三丁目
□祭神
ヒコイツセノミコト 彦五瀬命
カミヤマトイワレヒコノミコト 神日本磐余彦尊命
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
クマノハヤタマノミコト 熊野速玉命
□祭は十月上旬。
□山車
山車(櫓・やぐら)が出る。
・南組(淀方)
・北組(岸方)
(順不同)
□汎論
男神社は、延喜式神名帳和泉國日根郡に記載される、和泉國六二座のうちの一座。祭神の
ヒコイツセノミコト(彦五瀬命)は、カミヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊命)、つまり初代神武天皇の兄であるが、カミヤマトイワレヒコノミコトとともに高天原から、宇佐(大分県)、吉備(岡山県)を経て、生駒山(大阪府)を越え、大和入りを図ったが、石切に近い孔舎衛坂(くさえざか)において、これを阻むナガスネヒコ(長髄彦)と、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)の軍勢のあいだで戦となり、カミヤマトイワレヒコノミコトは矢傷を負ったヒコイツセノミコトをつれ、一旦兵を引き、紀州方面に向かったが、ヒコイツセノミコトの傷はいよいよ重く、『古事記』では
【男之水門】において死去したと伝わる。日本書紀では、紀国竈山としていて、記述が異なる。この【男之水門】にあたるのが当地だとされる。
男神社は一座が現在地、もう一座は北の摂社(通称、浜ノ天神)と考えられている。
筆者の仮説になるが、当地に祭られていたのは出雲系のクマノハヤタマノミコト(熊野速玉命)であり、大和政権が権威を定着させる目的で、ヒコイツセノミコト(彦五瀬命)おっよび、カミヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊命)を、【浜ノ宮】に祀り、後年当社に合祀したものと推定される。
□社名 男神社(おのじんじゃ)
□所在地 大阪府泉南市男里三丁目
□祭神
ヒコイツセノミコト 彦五瀬命
カミヤマトイワレヒコノミコト 神日本磐余彦尊命
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
クマノハヤタマノミコト 熊野速玉命
□祭は十月上旬。
□山車
山車(櫓・やぐら)が出る。
・南組(淀方)
・北組(岸方)
(順不同)
□汎論
男神社は、延喜式神名帳和泉國日根郡に記載される、和泉國六二座のうちの一座。祭神の
ヒコイツセノミコト(彦五瀬命)は、カミヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊命)、つまり初代神武天皇の兄であるが、カミヤマトイワレヒコノミコトとともに高天原から、宇佐(大分県)、吉備(岡山県)を経て、生駒山(大阪府)を越え、大和入りを図ったが、石切に近い孔舎衛坂(くさえざか)において、これを阻むナガスネヒコ(長髄彦)と、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)の軍勢のあいだで戦となり、カミヤマトイワレヒコノミコトは矢傷を負ったヒコイツセノミコトをつれ、一旦兵を引き、紀州方面に向かったが、ヒコイツセノミコトの傷はいよいよ重く、『古事記』では
【男之水門】において死去したと伝わる。日本書紀では、紀国竈山としていて、記述が異なる。この【男之水門】にあたるのが当地だとされる。
男神社は一座が現在地、もう一座は北の摂社(通称、浜ノ天神)と考えられている。
筆者の仮説になるが、当地に祭られていたのは出雲系のクマノハヤタマノミコト(熊野速玉命)であり、大和政権が権威を定着させる目的で、ヒコイツセノミコト(彦五瀬命)おっよび、カミヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊命)を、【浜ノ宮】に祀り、後年当社に合祀したものと推定される。