暘州通信

日本の山車

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一〇

2011年02月03日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一〇
 伊丹郷町の運営は、近衛家から委嘱されたが、約二〇名の宿老をおきその上に総宿老がおかれ、白雪を醸造する小西家がその職についた。宿老とは、藩における家老、総宿老は、大老に相当するといえるだろうか。
 しかし、徳川幕府の支配を受けない伊丹郷町には、参勤交代の制度は無く全国的に見ても非常に自由な町であった。
 伊丹郷町の酒の醸造はやがて、池田をも凌ぐようになった。酒の販売によって得た財力は巨大なものであり、諸国の文人墨客が訪れるようになった。郷校・明倫堂が設置され、橋本香坡が学等に就任してさらにその数が増えた。
 伊丹郷町の繁栄振りを記す一緒がある。近年伊丹文藝叢書として刊行された、『茶の湯百亭百回記』である。伊丹郷町で開催された茶会の記録であるが、眼を惹くのは用いられている道具の豪華さもあるが、宗和作の花入れ、茶杓、消息の数々である。伊丹郷町の茶の湯は近衛家に行われていた宗和流が主流であった。また茶の湯の席は、はいかいの席でもあった。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 九

2011年02月01日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 九
 戦国時代有岡城に一世代を築いた荒木村重が滅んだあと荒廃していた伊丹は、近衛家という公卿の所領となった。大名の所領地を藩というのに対し、【摂領】という。
 大陸からもたらされた麹(こうじ)をつかった醗酵技術は小豆島(香川県)の醤油となり、紀州湯浅(和歌山県)、房総(千葉県)へと伝えられいまも、他の追随を許さない定評を得ている。
 越前に伝わった醸造技術は、東大寺(奈良県)の僧らにより、味噌が醸造された。この醸造技術を応用して酒が醸造されたが、酒の醸造家に大和屋、大和田屋などの屋号が多いのは
苑ゆえだといわれる。
 摂津池田(大阪府池田市)に伝わり、丹波から、天王七曲がりの急坂を越えて、酒を醸造する御倉米が届き、丹波杜氏が訪れた。
 四条派の画家で知られる松村呉春、松村景文の兄弟を生んだ池田は酒の町であり、いまも【清酒呉春】は、容易に愛飲かに届かない銘酒として知られる。
 池田の繁栄は次第に伊丹に伝わった。

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◇呉春
2007/3/22(木) 午前 0:07
... 名を中国風に松村呉春と改名しました。後に京都・四条に戻った松村呉春は四条派画家の祖として晩成しました。前半は傷心で過ごし ... 織物技術伝承のために渡来した織姫姉妹に由来 ... 呉服の里に現存する最期の池田酒醸造元 呉春】  呉春は五月山 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tamada20060320/30428086.html

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 八

2011年02月01日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 八
 黄檗山 萬福寺
 京都府宇治市木幡(こわた)にある、黄檗山萬福寺は、隠元隆禅師(いんげんりゅうきぜんし)が六十三歳のとき、度重なる徳川幕府の招請にこたえ、承応三年(一六五四)に中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺から来日し、万治四年(一六六一)に開基された巨刹で、山門を一歩はいるとそこには、九万坪といわれる広大な敷地には、中国風の整然とした伽藍が並び身の引き締まる思いがする。
 本尊は弥勒菩薩であるが、豪快に笑う布袋和尚が本坐に座る。中国では布袋和尚は中国に現れた虚空蔵菩薩とする思想があるからである。
 江戸時代の俳人、菊舎尼は、

   山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄

 と詠んでいる。
 昭和四〇年のはじめころ、正月に訪れたときには、写真家の土門拳氏が凍てつく堂内で本の撮影に取り組んでおられた。
 この地に萬福寺の建立が決まったとき土地は、近衛家の所領であった。幕府は近衛家に対し代替地を用意した。それが伊丹郷町である。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 七

2011年02月01日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 七
 岸和田は、丹波國出石(兵庫県)を領した小出秀政の死後、その子、小出吉政のとき岸和田に転封となった。以後、小出秀家、小出三尹へと家督が引き継がれた。この小出三尹
のとき、【陶器藩】初代藩主として一万石で封じられた。三尹は、秀政の四男である。以後、小出有棟、小出有重、小出重興と続いたが小出重興には子供が無く、陶器藩は四代で断絶した。
 陶器藩初代藩主の小出三尹は、金森宗和の茶道の弟子であり、その妻の菊は、高山城主金森可重の三女であり、宗和の妹にあたる。金森可重が岸和田の警備にあたって以来続いていた圓がむすばれたのであった。陶器藩の過信には、宗和流の茶をたしなむものだでてきたのも当然といえよう。
 陶器藩という名称は珍しいが、和泉国大鳥郡陶器庄(大阪府堺市)に陣屋がおかれた小藩である。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 六

2011年01月31日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 六
 飛騨高山(岐阜県高山市)と、泉州岸和田(大阪府岸和田市)は、金森氏、あるいは、金森宗和を通して因縁浅からぬ関係がある。
 岸和田は、室町期には単に【岸】とよばれていたようであるが、一説に、建武元年(一三三四)、楠木正成の一族である和田高家が、「岸」の地に城を築き、この故をもって「岸の和田殿」と呼んだのが、【岸和田】となったといわれる。
 戦国時代もほぼ終わりを告げようとした慶長九年(一六〇四)、豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政の死後、その子、小出吉政は出石藩(兵庫県)から和泉国岸和田藩に移封され、
岸和田城主となって入城した。当初の家禄は三千石、のちに三万石に加増されている。
 戦国時代の岸和田は、紀州根来寺を監視する重要地であった。大坂夏の陣のとき、金森可重(かなもりありしげ)は大坂城の戦には加わらず、小出大和守吉英の岸和田城の守備を命じられた。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 五

2011年01月30日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 五
 石川県金沢市は前田公の加賀百萬石の城下町であるが、ここに宗和流茶道が伝えられ
ている。金沢に宗和流が伝わったのは加賀藩三藩主前田利常のときで、藩主自ら金森宗和に話があったが、宗和はこれを辞し、二代目の七之助方氏が仕えるようになった。
 こうして宗和流は金沢に移り、以後十数代にわたって仕えらが、当初は一七〇〇石、そのあと次第に加増があって、後には約七万石が与えられたと聞いたことがある。しかし、金森氏の直系は七代の知直の時に絶えている。
 十数代続いた金森宗和流は、能登に起こった一向一揆のとき、鎮圧を命じられた当主が自害して宗家は絶えた。
 金沢では新年の茶会で、床の間に椿を活けるが、主として、【西王母】、【初嵐】、【白玉】など他流では聞きなれない椿が用いられる例が多いようである。最近は【野々市】もよろこばれる。とくに雪椿系の椿は花の上に葉一枚が覆うものが珍重される。【霜除葉(しもよけば)】とよばれる。宗和好みだと伝わる。
 金沢城の東南、たつみの方角、兼六公園の一角にある【成巽閣(せいそんんかく)】は、文久三年(一八六三)の築造といわれ、重要文化財の指定を受ける建物であるが、金澤苑から曳いた水を邸内に取り込んだ【流れ蹲(ながれつくばい)】という様式になっている。これも冬の茶会で外に出ないで済む工夫で、京都大徳寺。真珠庵の庭玉軒とおなじ思想がうかがわれる。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 四

2011年01月30日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 四
 高山の宗和流茶道は、一代相続で、世襲を行わず最も優れた高弟たちに文机が引き継がれ守り伝えられてきた。
 森本栄樹氏は、高山市天満町にある天満神社の宮司をつとめられ、宗和流を継いだ方で、
『飛騨に伝わる宗和流茶道』の出版にあたって、筆者を何度かお訪ねになったが、そのころでもすでに、高山では宗和流の懐石料理が出せる方は無くなっていたと話されていた。
 京都では、近衛家に宗和流が行われていたようであるが、明示のころには既に行われていなかったようである。近衛家に伝わっていた宗和流の道具や書がが、高山の宗和流に御下賜になっているので、これはいまもたいせつにされているはずである。



◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 三

2011年01月30日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 三
 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧家では、江戸時代以来、茶道は言うにおよばず、冠婚葬祭などの禮法はほとんどは宗和流に則って行われてきた。
 婚礼では婚礼料理は朱漆塗の膳に朱椀が用いられたが、飯椀、汁椀、つぼ、ひら、かしわん、などは地元の木地師にお願いして特別に轆轤をひいてもらい、能登の輪島まではこんで、漆塗りをしてもらった。江戸時代から、明治、大正期には、稲忠さんにはずいぶんお世話になったものである。八寸は加賀の九谷に誂えた。のちには、飛騨渋艸焼きの磁器が使われている。渋艸は高山市の西部の岡本町にある窯元で、小字を【しふくさ】といったところから地名が窯元の名称になった。詳細は不明であるが、天保時代に開かれたのではないかといわれる。奈良県安堵むらの陶芸家で名高い富本憲吉氏が戦時疎開していたとき、この渋艸で作陶していたことがある。渋艸焼(しぶくさやき)は高雅な作風が好まれ高山のみならず各地から訪れる人は多い。この八寸には雌雄の鱚(きす)二匹を一本の竹の平串に刺し、焼いたものが使われたが婚礼の席には必須の縁起物で、婚礼が決まると相当前から越中の魚問屋にお願いしてそろえてもらうことであった。
 花嫁行列には青年団が総出で先頭に立って、【俄(にわか)】を演じ、高砂の尉と姥(じょうとうば)、鶴亀などをわら細工で拵え、新郎の家に届け、床の間に飾られた。
 火登園は長いものは三日、五日、長いときは一週間におよび、訪問客は朝夕を問わず何度でも押しかけ祝詞を述べたが、どのつど来客には三汁五菜を出してもてなしたが、これには組内のご婦人たちの奉仕があった。
 茶懐石では、宗和流の会席料理が出されたが、高山では今はほとんど行われず、京都、金沢の老舗には今も伝えられているところがある。
 
 

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二

2011年01月29日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二
 谷口與鹿が伊丹郷町(兵庫県伊丹市)を訪れた嘉永三年(一八五〇)は、江戸時代、文化ー文政期に江戸送りの酒を最盛期には年間二〇万樽近く送り出している。しかし、その殷賑を極めた繁栄もさすがに翳りをみせはじめたころであった。
 飢饉が続き、米を醸造に当てることを幕府が禁じたためである。
 しかし、町民の間では依然として繁栄時の町民文化は盛んであった。なかでも茶の湯と俳諧の席はしばしば開かれている。茶の湯は、飛騨高山の城主金森可重(かなもりありしげ)の長男、金森重頼(かなもりしげより)にはじまる【宗和流(そうわりゅう)】が行われていた。
 金森重頼は、号を宗和といい、金森宗和とよばれる。本来飛騨高山の城主を嗣ぐ身分であったが家督を弟に譲り、自らは母とともに京都に出た。京都には、大原三千院の庭園、鹿苑寺金閣には南天の床柱の茶室、曼珠院庭苑、紫野大徳寺塔頭の真珠庵、庭玉軒には、建物の内に蹲(つくばい)を設け、七五三に岩を配する小庭などが宗和の遺構として知られる。宗和流の茶室には、千家茶室に見られる躙口(にじりぐち)はなく、刀架石もない。武士は刀を手放さないからである。従って袱紗(ふくさ)は腰の右につける。高山にはかつていくつかの宗和流茶室があったがいずれも三畳臺目立の宗和好みといわれる茶室であった。千家の茶室とは爐の位置が異なり、千家などの茶人が宗和の茶室を使うときのお手前は、いわゆる逆勝手となる。茶筅は百二十本、中央の泡切はすこし長めに仕立てられる。
 茶室の席入りの時も主人は床に手をついて挨拶することは無い。

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◇東京国立博物館 庭園の茶室ツアー 六窓庵
2010/3/13(土) 午前 1:09
... ものすごい豪勢です。  そして、ここで迎え付けをするのですね。  ここで、手を洗います。  いい手水ですね。  そして、ここが茶室、六窓庵です。  三畳台目出炉で、金森宗和好みの茶室です。 にほんブログ村 その他趣味ブログ 茶の湯・茶道へ(文字を ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/omk72000/59302911.html

◇茶道文化検定⑨ 茶室のある庭園
2009/11/23(月) 午後 11:51
... 今日は茶道文化検定の課外授業となりました。 1:春草蘆 ←由来はよく見なかった。かやぶき屋根 *茶室ではなく休憩所だったみたいですね。 2:転合庵 ←小堀遠州の茶室♪ 3:六窓庵 ←金森宗和の茶室 このお二方、ちょうどテキストに出 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sun_room47/9766373.html

◇京都の茶室 Ⅰ
2008/12/12(金) 午前 1:12
... 夢軒 ・書院(自休軒)の中にある武野紹鴎作の茶室。 (4)真珠庵の「庭玉軒」 ・一休宗純ゆかりの寺院 。金森宗和好み (5)孤篷庵の「忘筌席」 ・小堀遠州晩年の代表作 4 その他著名な茶室(重文) (1)伏見稲荷大社の御茶屋 ・慶長11年(1606) ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/yamaibaaosainaikyo/47156015.html

◇東京国立博物館の茶室(六窓庵)。
2007/4/2(月) 午前 6:05
... 慈眼院(じげんいん)に建てられた金森宗和(かなもりそうわ 1584~1656)好みの茶室。もとは興福寺大乗院内にあり現在奈良国立博物館に移された八窓庵、東大寺塔頭四聖房の隠岐録(おきろく)とともに大和の三茶室といわれました。明治8年(1875)に ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tommylee719/46043207.html

◇「額縁門」と金森宗和の寺(天寧寺)
2007/3/25(日) 午前 11:16
... せっかくなので金森宗和の墓を見ることにしました。 宗和流茶道の祖・金森重近(宗和)(1584~1656)は、飛騨高山城主金森可重の長男で、祖父も信長・秀吉に仕えた武将として知られる長近です。 ... 手掛けた茶室・庭園には、前に出てきました大徳寺真珠 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/47577883.html


◆谷口與鹿 天誅組と高取城

2009年09月07日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 天誅組と高取城
奈良県高市郡高取町
 文久三年(一八六二)八月、孝明天皇の大和行幸がきまり、これを布告された。孝明天皇は皇居をあとにされたが、おもてむき大和国畝傍山稜に詣で、陵前で攘夷断行の勅命を下すことにあり、かねての手はずどおり、天誅組が呼応して旗揚げすることになっていた。八月十四日、吉村寅太郎等が京都東山の方廣寺で、公家の中山忠光を主将に天誅組が旗挙げを行った。中山忠光はこのとき弱冠十七歳だったという。
 八月十七日、尊王、攘夷を旗頭に天誅組が決起した十津川郷士らと合流して、まず行動を起こしたのは五條代官所の襲撃であった。この襲撃はみごとに成功し五條代官の首をとり、五條御政府を樹立した。孝明天皇は笠置(現京都府と奈良県の県境近く)まで進まれたが、ここで異変が起きた。
翌十八日、薩摩と会津の謀議による政変で、三条実美ら尊皇攘夷の公卿十九名が参内停止を申し渡され、「七卿の長州落ち」が起きた。
 孝明天皇の大和行幸は急遽中止となり、わずか一日にして天誅組は賊軍扱いとなり
事を重視した幕府は、郡山藩に天誅組の追討を命じ、二十三日にはさらに
高取藩をはじめ大和の各藩に、つづいて二十四日には、和歌山藩、彦根藩、藤堂藩
などに天誅組志士の追討を命じた。しかし、いったん行動を起こした天誅組はあとに戻れず、高取城を攻めたがついに及ばず敗退し、志士らは四散したが、追捕の手は容赦なくのび、首魁の藤井蘭田らは、吉野の鷲家口(わしかぐち)で幕府の軍勢に包囲され討ち死にした。しかし、一部田中光顕らはきびしい包囲から逃れている。
 元冶元年(一八六四)禁門の変(蛤御門の変)が起こり、長州藩は薩摩、会津、桑名各藩の連合軍に敗れ京都を去った。これにつづいて長州征伐が行われ長州藩は敗れた。
慶応元年(一八六五)長州藩の高杉晋作らが奇兵隊を組織して挙兵、尊王倒幕派が藩政を掌握した。幕府はこのあとふたたび長州征伐を行ったがこんどは幕府軍の敗退となった。 さらに孝明天皇の急死(岩倉具視による暗殺という)、幕府の崩壊を経てあわただしく明治維新を迎えることになった。
 伊丹郷町の明倫堂の塾頭であった、橋本香坡は、谷口與鹿とともに天誅組の首魁であった、藤本鉄石、藤井蘭田、吉村寅太郎、森田節齋、伴林光平らと交流があり、長州藩が蛤御門の変で敗れて都落ちするとき、藩士らにおにぎりを振舞ったが、これが幕府に咎めを受けることになり逮捕された。取り調べのあと一度は帰されたが、所持品の中に藤井蘭田の書状が見つかったことから再逮捕。大阪下寺町にあった新撰組屯所の囲われここで獄死した。谷口與鹿の死去後わずか一年のちのことであった。死去後死体は下げ渡されることはなかった。伊丹郷町黒墓には生前香坡が両親の墓を定め自らの生壙を設けたが、ここに納骨されることはなかった。橋本香坡は生前、自らの死を予見していたといえる。

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◇天誅組か天忠組か
2009/8/21(金) 午後 6:35
... 昨日の産経新聞のオピニオンでもそうですが、一般には天誅組の表記が主流のため、本来の区別がなされないまま何でもかんでも幕府要人を襲えば、その集団は天誅組との解釈だと思います。ここが大和義挙の場合は「忠」ならばまったく違った解釈も成り立つ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tentuji/59592688.html

◇尊皇攘夷派天誅組
2009/1/12(月) 午前 11:41
天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した(天誅組の変)。天忠組とも。 地元奈良で活躍したと言うのにほとんど知らなかった体たらく。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/step_120/7804235.html

◇『天誅組』って何?
2008/7/30(水) 午後 6:02
... 釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。(天誅組の変) 吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/54528788.html

◇明維新発祥の地 ・・・天誅組の変 
2007/8/13(月) 午前 11:48
... 大和行幸は中止になり一転天誅組は賊軍として追討軍に追われることに。幕府 動員兵13,000人以上      8月26日 高取城への攻撃が開始。高取の鳥ヶ峰で火蓋は切られましたが、大阪冬の陣・夏の陣で活躍した攻城砲が天誅組に火を噴き ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/maritesuhime/48827785.html

◇京都旅行記(5)・天誅組志士
2006/9/17(日) 午後 11:07
... 天誅組の志士たちが眠る墓。 1863年8月 ... 8月18日の政変により大和行幸は中止、 尊攘派は中央政界から追放され、長州などの後ろ盾を失ってしまう。 大和義挙は一転、朝敵の汚名をきせられ 幕府の大軍に追討され追い詰められ、最終 大和東吉野村・鷲家口 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/nakaoka302001/19797537.html

◆谷口與鹿と草場珮川

2008年06月29日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿と草場珮川
 草場珮川(くさばはいせん)は、天明八年〈一七八八〉正月七日の生まれ、慶応三年〈一八六七〉年十月二十九日没、享年八十歳の長命であった。
字は棣芳、通称瑳助、珮川は後に佩川と書き号である。肥前の多久の人で。二十三歳で江戸湯島の昌平黌に学び、古賀精里に師事した。多久侯に仕え、佐賀藩の儒員となり、藩校の弘道館教授をつとめている。漢詩集に『摂西六家詩集』、『佩川詩鈔』(嘉永六年刊、四巻四冊)があり、『文久二十六家絶句』(文久二年刊、三巻三冊)にも選ばれ、諸家より詩文集の序文、跋文、評語などを依頼されている。
師の古賀精里が幕命を受け、朝鮮通信使にあうため対馬に随行し、約二ヶ月間の見聞を記した『津島日記』があるほか、鍋島藩の命でしばしば対馬に渡り、朝鮮からの使節との通詞にあたっている。
若いとき使節と筆談を交わしているが、のちには不自由なく朝鮮語で話せたという。また日々の出来事を記した『草場珮川日記』が知られる。安政四年に谷口與鹿と橋本香坡は西遊からの帰りに佐賀の草場珮川邸を訪れている。この応酬を知りたいと思い旧佐賀城内にある県立図書館を訪れ、渉猟したが見当たらず、図書館の司書の方が佐賀大学に連絡してくださり、ちょうどその時期は草場珮川が藩主の命で対馬に赴いていたことがわかった。草場珮川とは会うことができなかったのである。
橋本香坡は、篠崎小竹門の後藤松陰とともに摂西六家詩抄の編集に関わっており、谷口與鹿とともに伊丹郷町で酒を酌んでいる。
逢えなかったのはさぞ残念だったろうと思われる。


◆谷口與鹿と木下逸雲

2008年06月14日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿と木下逸雲
 木下逸雲は、寛政十一年(一七九九)長崎八幡町の木下清左衛門勝茂の四男に生まれ
た。木下家の本姓は藤原氏で、代々八幡町の乙名職を勤めている。幼名を弥四郎といい、成人後は志賀之助といった。名を相宰、字を公宰、号を逸雲は号で、如螺山人、物々子、養竹山人、住居を荷香深処、養竹山房と名づけている。諱を隆賢という。
谷口與鹿、橋本香坡と共通の交友があり、與鹿と香坡が長崎を訪れたときは出会いの楽しみにしていたが、逸雲はちょうどそのころ流行した天然痘と取り組んでおり、豊後日田(大分県)にいたため会うことはできず、安政四年の秋に日田の市山亭で会っている。
逸雲は博才な人物で書画、音曲、煎茶にうぐれた才能があった。
遠州灘沖を航海する外国船と富士を一幅の画におさめ「富士山に蒸気船を写したのは余をはじめとす」と興じている。

◆谷口與鹿と松林飯山

2008年06月14日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿と松林飯山
天保十年(一八三九)二月ー慶応三年(一八六七)一月。
筑前早良郡金武村羽根戸村(現福岡市西区)に生まれた。幼名を駒次郎、字を伯鴻といい、のちに廉之助とあらためた。飯山は号で、飯盛山の麓に生まれたことにちなむ。
父は杏鉄(きょうてつ)といい医師であったが、絵が好きで南画を得意とした。五教館教授、片山歓治氏の推挙で藩の御典医についている。
飯山は秋月藩家老から養子に望まれたが父はこれを嫌い、妻の郷里七釜の沖の蛎浦の中村家に隠棲した。
十四歳のとき、参勤交替に従って江戸に上がり、安積艮斉(あさかこんさい)の塾に学んだ。
飯山は伊丹郷町に橋本香坡をたずねているがこのころのことであろうか。香坡は不在であったが、待つうち、香坡は谷口與鹿とともにすっかり酩酊して明倫堂に帰ってきた。「余は酔香坡なり」と自己紹介したあと、深更にいたるまで話し合っているが、飯山はすっかり香坡に心酔した。
安政四年(一八五七)十九歳のとき幕府の昌平校に入り、ここで学才を認められて詩文係に任命された。
二十一歳のとき五教館の教授を拝命し故郷の大村(長崎県)に帰った。北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、近畿、中国、九州諸藩の藩士らが大村に学んでいる。土佐の岩崎弥太郎もその一人である。
文久三年(一八六三)十月、二十六歳のとき五教館の祭主についた。
渡邉昇、楠本正隆らとともに大村藩が倒幕へと向かう、大村藩勤王三十七士の中心人物
となった。
慶応三年正月、大村城中で恒例の謡初式が行われたが、自宅前まで帰ったところを長井兵庫ら佐幕派の浪士に襲われて死去した。享年わずか二十八歳であった。このあと大村藩の勤皇派の動きが活発になるが。慶応四年は明治元年と改元された。明治維新はを迎えたのは飯山の死去一年後のことである。
松林飯山の著述に「飯山文存」がある。


◆谷口與鹿と藤本鉄石

2007年03月09日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿と藤本鉄石
藤本鉄石は、出羽(山形県)の斎藤家(清河八郎の実家)、小布施(長野県)の高井家にしばらく止宿しているが、摂津伊丹郷(兵庫県伊丹市)の岡田家も訪ねているが、ここで橋本香坡、谷口與鹿とも面談している。
藤本鉄石は、名古屋に宿泊したとき、高山の郡代であった父親の小野朝右衛門の名代で伊勢参りの途中だった山岡鉄舟とおなじ宿になり、林子平について語り合ううちすっかり傾倒し、伊勢まで同行している。


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23665 谷口與鹿の墓

2007年02月08日 | 日本の山車 谷口與鹿
23665 谷口與鹿の墓

谷口與鹿現在は、現在の猪名川町の一庫(ひとくら)温泉に、かって伊丹明倫堂の塾頭だった橋本香坡と保養に出かけたが滞在中に死去した。元治元年九月、享年四十一歳であった。
香坡は当時すでに大坂にでていたが、伊丹の諸友ともはかって、かねて與鹿が描いた十六羅漢図をかけて葬儀をおこない、墨染寺に葬ったり、墓がたてられた。墓誌は橋本香坡が撰んだ。
よく與鹿の記述に「酒が好きで、墓も徳利がたになっている」とあるのは誤りで、正しくは印紐型である。
過去帳に「文人にて」とあるが、いかにも與鹿の墓にふさわしい。
この橋本香坡もこののちわずか一年後に不慮の死を遂げることになる。
(寥郭堂文庫資料)。


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