小生が読んでいる書物「十六世紀華南事物誌」(ガスパール・ダ・クルス著、明石書店)には、汚職の構図が事細かに書かれている。読んでいて、いや~、現在の中国共産党幹部の汚職と瓜二つだ。何故こうも似ているのだろうか。現在は21世紀である。400年前と中華民族は考え方が全く同じ、進歩していない、という事だ。ここまで似てしまうと、何故、と言う言葉での定義付は難しい。民族性と言った方が良いのかもしれない。
しかし、時代は変わっているのである。近代文明が発達し、機械化が進み、科学技術も一段と進歩しているのである。なのに、16世紀と同じ構図で汚職が行われている姿は、とても不思議でならない。16世紀は日本では徳川幕府ができて間もない頃だ。未だ文明と言っても室町時代の尾を引いているくらいである。勿論、ヨーロッパでは日本や中国などよりもいっそう進歩していた。朝鮮半島などは中国の支配下にあり、属国としてあった程度である。
そのような時代背景の中、中国はこの時代でも巨大な国として成り立っていた。所謂、明王朝である。日本よりも文化的には進んでいた部分も多くあったはず。しかし、国としての内容では、汚職に塗れていて、その構図は現在と変わらない。現在と個々に比較する材料は持っていないが、少なくとも、この本を読む限り汚職が蔓延っていたことは確かだ。それでは、400年前の汚職の構図がどうして現在も引き続いて行われているのだろうか。
これは、主義主張だけの問題ではないような気がする。明王朝時代は現在と異なり王政である。徳川幕府や天皇家と同じように血筋のものが継続して国を治める、と言う形であった。現在の中国は共産党と言う主義主張に基づいて成り立っている国家である。但し、その内容な王朝国家と殆ど変わらないような構図になっている。政府要人の親族で政府中枢が固められているからだ。現在の中国の共産党一党独裁国家は似非共産主義の象徴でもある。汚職の構図が400年も続くという事は取りも直さず民族性のなせる業である。